それは二日連続の徹夜労働を終えて、自宅に帰るその途中のことだった。 いつもに比べて何倍も重たい身体を同じく何倍も重たい足で、会社から駅、駅から自宅へと懸命に運んでいると、人気のない静かな道路に、ふいに、たっ、たっ、たっ、たっ、と軽やかな足音が響いて聞こえてきた。歩いているにしては少し早く、走っているにしては少し遅い、小走りの足音。 その音に無意識に俯きがちになっていた頭を持ち上げた。そうすると、弱々しい街灯の光に照らされて、大学生くらいの青年が走っている姿が目に映る。ランニングか、と感心したのは、しかし一瞬。ランニングをするにはいささか違うのではないのだろうかと思われる白いYシャツと肩にかけられた大きなバッグに、ただ帰宅を急いでいるだけの学生か、と元より少なかった興味はすぐにその欠片さえも跡形もなく消えていった。 再び少し俯いて、歩き続ける。今はとにかく早く帰りたくて仕方がなかった。家に帰ったら早く風呂に入って、そしてさっさとベッドに横になりたい。仕事は好きだ。難しい内容ほど、やりがいもある。けれど、やっぱり適度な休息は必要不可欠だと思う。人間、やろうと思えば徹夜位できるもんだが、しないで済むならそれに越したことはなく、現に、二日間ぶっ通しで働き続けた脳はひたすらに休息を願ってやまない。 それなのに、しかし、気が付いてしまった。先ほどまで確かに聞こえていたはずの足音が、ふと聞こえなくなったことに。それは、遠ざかって徐々に聞こえなくなったわけではなく、まるで動力源のスイッチを切ってしまったかのように、ぴたり、と聞こえなくなった。 不審に思って、もう一度顔を上げる。ゆっくりと視線を辺りに這わすと青年は立ち尽くしたような様子で少し離れた場所にいた。光を反射させて輝く金色の双眸を大きく見開き、こちらをじっと見ている。一体なんなんだ。不思議に思って首をかしげるが、態々声をかけようとまでは思わなかった。繰り返すが、徹夜をしたんだ。しかも二日連続。そこからさらにその日一日の仕事を終えて、残業も少しした。いつもであったなら、なんだ、と問いかけてやったかもしれないが、今日はいかんせん疲れすぎていた。 目が合った事実を無視して歩きだす。相変わらず重たい足。昔は、二日程度の徹夜ではぴんぴんしていたはずなのに、変化してしまった身体に苛立ちと一抹の哀愁を感じた。青年の存在など、早くも忘れかけていた。 しかし、まるでそれを拒むようにして青年のいた方向から、べしゃり、と何かが転ぶような音が聞こえた。反射的に振り返る。するとなぜだろうか。先の青年がうつぶせの状態で倒れているではないか。脳裏に、救急車、という単語が浮かびかけて、だがすぐに青年の履いている靴が片方脱げかかっているのが目について、青年が正確には倒れたのではなく、走り出そうとして転んだのであろうと気が付くことができた。 大事ではないだろう。そう予想しながらも、どうしようか迷う。声をかけるべきか否か。これが小さな子供であったなら、迷うことなく声をかけられるのだが、相手は成人もすぐ間近であろう青年だ。体格だけで言うなら、自分よりもよほど背も高く幅も広い。 いっそ声をかけずに見て見ぬふりをしたまま立ち去ってやった方が、むしろ優しさなのではないのだろうか。経験自体はしたことはないのだが、こういったときは声をかけられた方が恥ずかしいものなのだと、誰かが言っていたような気がする。 しかし、そんな風にして悩んでいる内に、目の前の青年は、ばっ、と勢いよく顔を上げた。その顔は赤い色に所々染まっていたが、どうやらそれは羞恥による赤面ではなく、鼻の頭と左頬、そして額の部分の擦傷による血の赤色だった。それでも、傷自体はそうたいしたものではなさそうだ。 ばちり、と目と目が合う。金色の目。その金色の目の表面に、ゆらゆら、と水の膜ができる。それは徐々に徐々に量を増やしていって、ついには限界を超えて涙がぽろりと縁からこぼれる。ぽろぽろ、ぽろぽろ。そんな風に涙の粒を零していたのは最初だけ。いきなりの涙に呆気を取られ、一回、二回と瞬きをした次の瞬間には、だばあ、と音がしそうなほどの勢いで青年は涙を流し始めた。それはさながら、いつかテレビの画面越しに見たダム崩壊の様。 「………大丈夫、か?」 あまりにも凄い勢いで、しかもまたしてもこちらを見開いた目で見つめながら涙を流すものだから、流石に声をかけざるを得ない。いい年した男が転んだくらいで泣いてんじゃねぇよ、と声をかけながら、鞄を探って使っていない予備のハンカチを差し出す。 青年は変わらず、目ん玉が落ちるんじゃないかというくらい目を見開いたまま泣き続けていて、いつまで経ってもハンカチを受け取ろうとしなかったから、仕方なく傍まで近寄って濡れたその頬を拭ってやった。そうすると青年は見開いていた目を、今度は逆にぎゅっと細めた。続けて眉間に、目元に、口元に、いっぱいの皺を寄せて顔をしかめる。傷に触ってしまったのだろうか。そう思って手を引込めかけて、だがそれよりも早く、その手首を熱い手の平で掴まれた。そのまま手を引かれて、身体か前のめりに傾く。 ぅあっ、と思わず声が出てしまったような気がするが、実際のところはわからない。手首に触れた手のひらはすぐに離れていき、代わりに両腕を腰に回され、ぎゅっ、と抱きしめられてしまい、そんなことを気にしている余裕はなかったからだ。 「おい、なんだお前っ」 反射的に引き剥がそうとするが、力強い腕は締め付けるように巻きついて離れない。ぶるぶると肉食動物を前にした草食動物か、はたまた携帯電話のバイブレーション機能のようにその身を震わせながら、大きく口を開いた。 「あ、あいだぎゃっだれす、いびゃいうぇーぢょう!」 「……はぁ?」 ようやく発せられた言葉。しかし、その声はあまりに水っぽく、ぐじゅぐじゅとした音をしており、一体なんて言っているのか、理解しがたいものであった。だから、聞き返す声がひどく素っ気ないものになってしまったことも、ついつい怪訝な表情を浮かべてしまったことも仕方がないことだと思う。誰だって、いきなり抱きつかれた上に意味不明な言葉を投げつけられたら、こんな態度を取りたくなるに決まっている。けれど、やはり泣いている人間相手にする反応ではなかったのだろう。 返した声に青年は身体の震えを、ぴたり、と止めた。かと思えば、一体どこまで顔面をぐしゃぐしゃにする気なのだろうかと言うくらい更に顔をしかめ、またぼろぼろと涙を流し始めてしまった。 ぎゃあぎゃあ、びゃあびゃあ、鳴き声のような泣き声が響く。産まれたての赤ん坊も真っ青なその泣きっぷりに、もういっそのこと好きなだけ泣いて泣いて泣き貫けばいい、と泣き止ませるのは早々に諦めた。けれど、せめて、ぎゅうぎゅう、と痛いほどに抱きしめてくるその腕だけは離してほしくて、ぺしぺし、と腕を叩いてみるが逆効果にしかならず、それどころか腹部に涙と血で濡れた顔面を押し付けられて、月が見える夜空の下で途方に暮れた。 あぁ、この服は明日にでもクリーニングに出しに行かなければならない。 約60時間ぶりに帰ってこれた自宅に足を踏み入れて、まずすることと言えば、ため息をつく以外にはなかった。理由は、疲れていたから、であることに間違いはない。だが、それは一番の理由ではなかった。ならば、一番はいったい何なのか。答えは視線を少し下げた己の腰回りにがっちりとしがみついたまま離れないでいる。 結局、腰に抱きついてきた青年を引き剥がすことはできなかった。昔ほどではないとは言え、この歳になっても力にはそこそこ自信があったのだが、何度引き剥がそうとしても青年の腕は力強く外れようとしない。それでも、一度は何とか惜しいところまで持っていったのだが、そうすると青年はもとよりうるさい泣き声を一層うるさいものに変えるので、それ以上無理に引き剥がすことは二重の意味でできなかった。かと言って、あのままあそこで立ち往生しているのも不審者極まりなく、自宅にまで連れてくる破目になったのだった。幸いなのは、自宅までの道すがら、またマンションのエレベーターの中で誰とも出会うことがなかったことだろう。大泣きする体格のいい青年を身体に引っ付けた姿など、とてもじゃないが積極的に見せたいと思えるものではない。 青年を引き剥がすことを完全に諦めてから、相変わらず泣きべそをかき続けていることに変わりはないが、泣き声の方は何とか控えめなものへと変わってくれた。だからと言って、現状はたいして好転してはいないのだが、まぁ、神経に触るような騒音が聞こえなくなっただけでも良しとしようか。 もう一度だけため息をついてから、靴を脱ぐ。青年のせいでたいそう脱ぎづらかったが、もう文句を言う気にもならない。靴を靴箱にしまいスリッパを履く。そうして、青年の焦げ茶色の髪を見下ろすと、その頭を、ぽかり、と軽く小突いた。 「おいクソガキ、靴を脱げ。うちは土足厳禁だ」 青年は、何も言葉を返そうとはしなかったが、言うとおりに靴を脱いだ。 一番に向かう先は、当然決まっている。 青年が涙にぬれた顔面を押し付けてきたその時から、ずっと衣服を通して感じる湿った感触が気持ち悪くて仕方がなかった。異様と言っていいだろう青年の行動を前に、散々我慢していたのだが、家についた途端に限界は振り切れていた。 青年の襟首を掴んで無理やり浴室に連れ込むと、予告もなしに頭から問答無用にシャワーの水をかけてやった。ぶわっ、と青年は小さく悲鳴を上げたが、しかし、それでも腕を離そうとはしない。そのしつこさには呆れを通り越してむしろ感心の念すら覚えるほどだ。 「おら、その汚い面どうにかするから、さっさと脱げ」 脱げ、の言葉に青年は迷うような素振りを見せた。そりゃそうだろうな、とは思うが、こればかりは何をどうしたって譲れなかった。涙と血で汚れた顔面は言わずもがな、一度道路で転んだ青年の服は所々薄汚れた色をしている。叩けばきっと、僅かとは言え砂埃が舞うに違いない。そんな人間をそのまま家にあげることなどできるはずがなかった。 ぐっ、と渾身の力でもって青年の顔を腰から引き剥がし、Yシャツのボタンに手をかける。気分は泥まみれで帰ってきた小さな子供を脱がす母親だ。青年はうるさい泣き声を上げることなく、されるがまま服を脱がされていたが、Yシャツのボタンを外し終え、次にベルトへと手をかけると流石に焦ったように止めに入ってきた。 まぁ、上半身までならともかく、他人に下半身の衣服を脱がされるなど、気分のいいものではないだろうし、逆に他人の下半身の衣服を脱がせることだって同じくらい気分のいいものではなかったから、ならば自分で脱げ、とその先は任せることにした。 だと言うのに、青年はいつまで経っても先に進もうとしないものだから、思わずずぶ濡れのまま外に放り出されたくなかったらさっさと脱げ!と割と本気で苛立ったトーンで怒鳴りつけると青年は、びくり、と肩を大きく揺らしたのち、ようやくいそいそと衣服を脱いでいった。 髪を洗ってやりながら、同時に身体は自身で洗わせる。流れ落ちた泡が顔の傷に滲みるのか、青年は時折、肩を小さく震わせていたが、文句を言うことなく手を動かしていた。わしゃわしゃわしゃ、と会話を交わすことなく洗う。気分は小さな子供の母親から一転して、大型犬を洗うトリマーだ。汚いのは勘弁だが、でも、犬は嫌いじゃない。 今度は水ではなく、ちゃんと温かな湯を頭から流し泡を落とすと、さっさと浴室から追い出した。身体は自分で拭けよ、とバスタオルを投げ渡し、そして今度は自身の服に手をかける。やっとだ。これでやっとシャワーを浴びれる。本当は、ちゃんと湯をはって入りたかったが、もうこのさい身体を綺麗にできれば何でもいい。 青年の涙で汚れたシャツを脱ぐ。すると、横からなぜか、ひっ、と息を飲むような声が聞こえた。視線をやれば、青年がバスタオル片手にこちらを凝視したまま固まっているではないか。見開いた目。ぽたり、ぽたり、と濡れた髪から何滴もの水滴が落ちていって、思わず眉間にぎゅっ、と皺が寄った。 「……おい、早く髪を拭け、無駄に水滴を落とすな」 声をかけると、びくびくっ、と青年は飛び跳ねるようにしてこちらに背を向けた。そしてそのまま、がしがしと乱暴な仕草で髪を拭き始めた。あちらこちらへと跳ねる髪の合間、覗いた耳がやけに赤い。シャワーでのぼせるとは、軟弱な野郎だ。 髪を洗い身体を洗い、爪の間までしっかり綺麗にして浴室を出る。柔らかなバスタオルに顔を埋め、そこから香る柔軟剤の匂いで、あぁ家に帰ってきたんだ、と毎回決まって実感していた。はぁ、と出てくるため息は、今度は安堵が含まれたものだった。 寝間着を身に着けて、ついでに洗濯機のスイッチもぽちりと押しておく。さぁ、あとはベッドに横になるだけだ、なんて思いながら廊下に出て、そのすぐのところでバスタオルを腰に巻いて体育座りをしている青年を見て、あ、と声が出た。そういえば、居たんだった。そうだった。そういえば、着替えの服を渡していなかった。そうだったそうだった。でも、青年が着ていた服は自分の服と一緒に洗濯機の中で泡だらけの最中だ。 どうしようか。きっと、自分の服では青年の体格からみて入らないだろう。入ったとしても、たいそう着心地の悪いものになりそうだ。だからと言って、このままバスタオル一枚でいさせるわけにもいかず、頭を悩ます。けれど、たいして考えもしないうちに、そうだ、と気が付いた。確か、あいつの服があったはずだ。 ちょっと待ってろ、と声をかけてから部屋へと急ぐ。タンスの一番下の段にその確かにちゃんと服はあった。自分が着るには二回りは大きなシャツに、穿いたら確実に裾を引きずる破目になるだろうズボン。 どうしてそんなものがあるかというと、前に、うっかり風邪を引いてダウンしている時に、別にいいと言っているのにわざわざ泊り込んでまで面倒を見てくれた上司兼友人であるエルヴィンが、またいつか泊まるときに便利だろうから、と持ち帰らずに置いて行ったからだ。まさかこんな形で使うとは思わなかったが、助かった。 青年の元に戻って、最低一枚は置いておくようにしている新品の下着と一緒に服を差し出す。すると青年は落ち着かない様子で服とこちらをうろうろを見比べてきた。 「安心しろ、俺じゃなくてエルヴィンの野郎のだから、丈が足りなくてつんつるてん、なんてことにはならねぇよ」 気にしているだろう不安を取り除いてやろうと言ったのだが、青年は眉を八の字にしながら眉間に皺を寄せた、なんだか微妙な表情を浮かべながら服を受け取った。 もうこの歳にもなって喧嘩をするようなことなどなければ、転ぶようなこともなかったから、ちゃんとあるか不安だったが、だいぶ久しぶりに開けた救急箱には絆創膏と消毒液がちゃんと揃って入っていた。一応、使用期限を確認する。大丈夫そうだ。 擦傷からの出血はどうやらもうほとんど止まっているようだった。それでも、念のため消毒液を含ませた脱脂綿で傷口を軽く拭ってから、鼻の頭に絆創膏を貼る。頬と額の傷は少し広くてガーゼが必要かと思ったが、正方形の大きな絆創膏が救急箱の隅っこの方に控えめに存在していたから、それを使うことにした。 頬に触れると青年はわずかに身体を揺らす。怪我のせいか、しばらくバスタオル一丁でいたにもかかわらず、その頬は少しの熱を持っていた。まぁ、この程度の傷なら痕になることはないだろう。それでも、できる限りゆっくりと丁寧に、空気が混じらないように絆創膏を張り終えて、軽く一仕事こなしたような気持ちで、こんなもんでいいだろう、と小さく息をつく。 「他に怪我はねぇな……?」 青年は、こくり、と頷いた。その姿は、顔にべたべたに貼られた絆創膏と散々泣き喚いたせいで真っ赤になった目元のせいもあってか、なんだか飼い主に捨てられた犬ようだった。憐れみを誘うその様子に、それこそ犬を撫でるような気持ちで、まだ少し湿り気を残した頭をぽんぽんと思わず叩く。 すると、どうだろう。その行動が青年の中の何かを刺激してしまったらしい。気が付けば、落ち着いたと思っていた金色の目に再び涙の気配が浮かんでいた。ぐしゃり、と歪む目元。どうしたんだ、と尋ねる暇もなく、またしても青年は腕を伸ばして抱きついてきた。ぎゅうぎゅうぎゅう、と痛いくらいの束縛再来。 本当に、一体なんだというんだ。情緒不安定にもほどがあるだろう。 青年は離れない。だが、洗濯機に放り込んでしまった青年の服をどうにかするまでは、剥がしたところで結局はどうにもならないだろうから、好きにさせることにした。幸い、雨天ようのための乾燥機がこの家にはある。長くても、あと二時間ほど相手をしてやればいいだけだ。仕方がないから、その間に放棄していた夕食でも取ることにでもした。 青年を背中にくっつけたまま、キッチンに向かう。何かあっただろうかと冷蔵庫を覗いて、ミネラルウォーターばかりの中身に、無言で扉を閉めた。鮮度を優先させて、あまり溜め込まないようにしていたのが仇になったらしい。まぁ、たいして腹が減っているわけでもないし、別にいいか、なんて早々にリビングに踵を返しかけて、視界の隅に映ったものに足を止める それは、パスタの麺や乾燥海苔と一緒になって真っ白なプラスチックの籠に入ったレトルトのリゾット。風邪を引いて食事をサボっていた時に、何でもいいから食べるように、とエルヴィンが大量に買って置いていったものだ。インスタントやレトルトはあまり好きじゃないが、熱湯で温めてあっという間に出来るその手軽さに、気が付けば手が伸びていた。 水の入った鍋を火にかけて、揺れる水面を見つめる。ふつふつと浮かぶ泡が徐々に大きくなってきた頃に、手にしていたレトルトパックを一つ沈ませた。浮かんでくるあくびを噛み殺しながら、少し考えて、もう一つ追加する。まぁ、無駄になったらなったでその時だ。 リゾットを盛った器とレンゲを二つずつ手にして、リビングに戻る。一つを机に乗せてから、手にしていたレンゲでリゾットを掬って、ぱくり、と食む。美味いとは言えないが、不味いかと言ったらそうでもない。レトルトらしいその味を、たいして味わうわけでもなく、口に運ぶ。咀嚼、そして嚥下。機械のように繰り返す間、青年は抱き着いたまま変わりない。 「……食わないのか?」 声をかけると、青年は顔を上げ、服を渡した時と同じようにして机を見てこちらを見てと視線をうろうろさせた。男らしい太い眉の尻が、情けなく垂れ下がる。抱きついたままの両手が、ぎゅ、ぎゅ、と閉じたり開いたりを繰り返す。まるで離すのを迷うようなその仕草に、首をかしげて、気が付く。まるで離すのを迷っているのではなく、正しく離すのを嫌がっているのではないのだろうか、と。 ためしに、残り半分を残した器とレンゲを置いて、もう一方の器とレンゲを手にしてみた。もう既に冷め始めているリゾットを掬って、零さないようゆっくりと運び、差し出す。 「ん……、」 レンゲを見つめて、青年はぱちぱちと何度か瞬きを繰り返した。その瞬きがぎりぎり二桁に乗らない頃になって、青年は恐る恐るといった風にリゾットを口にした。かつり、と軽く噛みついてくるような感触がレンゲを通して感じる。短い咀嚼ののち、青年の膨らんだ喉仏が上下に動くのを確認して、再びリゾットを掬ってレンゲを差し出す。そうすれば、今度は迷うそぶりを見せることなく、青年はリゾットを口にした。 子どもを持つ母親に犬を洗うトリマーときて、今度は雛に餌を与える親鳥の気分だ。なんにしても、手がかかる奴だな、と思いながらも、何度も何度もそれを繰り返す。やがて、器は綺麗に空っぽになった。 食事を終え、食器を洗ってから洗面所で歯を磨く。ついでに青年の分もきれいにしてやると、ちょうどいいタイミングで洗濯機がぴぴー、と役目を果たし終えた声を上げた。中身を乾燥機に移し替えてスイッチを、ぽちり、と押す。あとはこの乾燥機がお仕事終わりましたよの合図を出すのを待つだけ……なのだが、実は言うと、もうだいぶ限界がきていた。 多少なりとも腹に何か入れたせいもあってか、眠気が爆発的にぶり返してきた。凄く眠い。とにかく眠い。思わぬイレギュラーで忘れかけていたが、徹夜明けなのだ。二日連続の徹夜明け。むしろ、ここまで結構頑張った方ではないかと、うつらうつらと揺れる頭で思う。 そもそも、何を我慢する必要があるのか。仕事はすべて終わらせた。ここは自宅だ。風呂も食事も済ませた。寝間着に着替えて、歯だって磨いた。ならば、いいではないか。なにも、構わないのではないか。そう思って、リビングに戻ろうとした足を止めた。そうすれば、くっ付いたままの青年も一緒になって足を止める。その頭を引き剥がし、その金色を見つめた。 「もうおれは限界だ」 「だから、おれはもう寝る」 「ふくが乾いたらひとりでかってに帰れ」 「あぁ、かぎはきにしなくていい」 「それじゃあな」 「こんどは、ころぶなよ」 少々怪しい滑舌で一方的に言いたいだけ言うと、青年は、ぽかん、とした表情を浮かべていた。鳩が豆鉄砲を食らったような、可笑しな顔だ。少し笑いながら、腕を外させる。ずっと抱き着いていたことに変わりはないが、いつの間にか力加減をするようになっていた腕を外すのは案外簡単で助かった。ここで駄々をこねられたら、蹴りの一つでもお見舞いしていたかもしれない。 久しぶりに横になったベッドは、なんだかいつもより少しひんやりしているような気がした。それでも、慣れ親しんだシーツのさらりとした感触が疲れ果てた身体に心地いい。くわり、と浮かんできたあくびを一つ零して、柔らかな枕に頬を埋める。 のんびりと、しかし急速なスピードでもって、意識が深い眠りの海に沈んでいく。だが、完全に意識が沈みこんでしまう前に、がちゃり、と寝室の扉が開く音がして、沈む一方だった意識にブレーキがかかった。 ぱたり、ぱたり、と足音が聞こえる。徐々に徐々に近づいてくる足音は、枕元のすぐ近く止まった。だがその代わりに、ぐずぐず、と鼻をすする音が聞こえてきた。今日一日で、やけに聞き覚えてしまった音。 そろり、と重たい瞼を持ち上げてみれば、やっぱりと言うかなんと言うか、ぼろぼろと涙を流した青年がそこには立っていた。これで青年の身体が透けでもしていたら、完全なホラーだ。しかし、青年の身体はこれっぽっちも透けてなどいたりしない。 幽霊と泣いた青年。はたして、どっちの存在の方が面倒だろうか。半分以上眠りについてしまっている頭はもうまともに働こうとしなかった。 「………どう、した……、」 油断すればすぐに上下でくっ付いてしまいそうになる瞼に何度も瞬きを繰り返しながら、質の悪いフィルム映画のようにちかちかとした視界で青年を見上げる。だが、青年は泣き続けたまま、何を言うわけでもない。 何か用があったわけじゃないのなら、もう今度こそ眠りについてもいいだろうか。そう思い、いよいよ瞼の重みに負けた頃になって、ふいに身に巻きつけるようにして覆っていたシーツをはぎ取られてしまった。次いで、ぎしり、とベッドに重みがかかる音がして、それと一緒にマットレスが僅かに沈む感触が身体に伝わり、青年がベッドに乗り上げてきたのだと目を瞑ったままに分かった。そして、その次の瞬間には、ぎゅう、と強く抱き込まれてた。 もう、何度目だよ。なんて、思わず浮かんだ突込みも、しかし、口にする気力は残っていない。それどころか、勝手にベッドに入ってきた青年を追い出す気力すらも、まどろみに浸された今の身体には残ってなどいなかった。むしろ、うとうととした意識に、青年の子どものように温かい体温と、押し付けられた胸元から聞こえてくる心音が妙に心地いい。 ぐずりぐずり、と泣き声は聞こえ続ける。全身の水分が流れ零れてしまうんじゃないかと思うくらいに、青年は泣いたまま。はっきり言って、面倒な奴だと思う。出会って早々に転んで泣いて抱きついて、ようやく鳴き止んだら情けなく眉尻を落としてみたり、かと思えばまた泣いて抱きついて泣き止んだりぽかんとしたり、そしてまた泣いて愚図って、あげくに抱き込んできたり。 まったく、これが面倒じゃなくて何を面倒と言うだろうか。けれど、そんなのは今更なのだろうとも思う。だって、こいつは“昔”からそうだった。騒がしくて面倒で、デカい図体しておきながら手ばっかりかかる、そんな奴。あぁ、もうまったく。 「ほんとうに、しかたないやつだな――――エレン」 |
泣く子どもと仕方のないこと |