リヴァイは目を閉じていた。
 けれど、眠ってはいなかった。ぴりぴりと意識が張りつめる。無意識に研ぎ澄まされた耳に、外で降り続く雨音がうるさくてしょうがない。なんて煩わしい音だろうか。思わず眉間に皺を寄せる。耳を塞いでしまいたい衝動にすら駆られるが、しかしそんなことをしたくらいではなんの意味もないことを知っていたらから、リヴァイはただベッドの上でわずかに身じろぎをするにとどめた。
(雨は、嫌いだ……)
 雨の音は、嫌な記憶を甦らせる。胸の奥がみしみしと軋むような苦しい記憶。消し去ってしまいたい。記憶だけではなく、あの雨の日の出来事ごとすべて、丸ごとなかったことにしてしまいたい。雨が降るたび強く願うようにそう思う。
(ファーラン、イザベラ……)
 しかしそれは雨音から耳を塞ぐ以上に意味のない願いである。わかっていた。過去を変えることなどできない。だから、全てを受け止めたうえでただ耐えるしかない。耳障りな雨音も、辛く苦しい記憶もすべて。
 一昨日から降り始めている雨は、徐々にだがその雨足を弱めている。だから、きっとあと少しの辛抱だ。あと少しで、雨はあがるに違いない。沈んだ太陽がふたたび昇りはじめるころには、きっと……。そう言い聞かせて、リヴァイは小さく身を丸めた。





 ミケは気分が良かった。
 すん、と鼻を鳴らして空気を吸えば、雨上がりのにおいに混じって陽のにおいがした。少し長めの雨であったから、なかなか久しぶりのにおいだ。雨雲が過ぎ去った空は青々と広く、日差しが気持ちいい。
 ちょどいいことに、今日は休務日である。こんな気持ちのいい日は、兵舎の裏庭によくくる野良猫とのんびり戯れでもしようか。考案してみた次の瞬間にはもうすっかりその気になって、ミケはさっそく裏庭へと足を向けることにした。
 足音は重く、しかし足取りは軽くミケは歩く。その途中のことだ。そよそよと吹く風に乗ってふと爽やかな甘いにおいがした。晴れた日にはよく嗅ぐにおい。すんと意識して空気を吸えば、甘いにおいが一層強く香る。
(さっそくやっているようだな……)
 ふっ、とミケはひっそりと笑って、裏庭への歩みをほんの少しだけ早めた。

 裏庭へ近づいていくほどに、甘いにおいは濃度を増す。それに混じってかおるのは一人の人物のにおい。もうその時点で、ミケにとっては確定したも同然だ。実際に裏庭へとついてみれば、そこには予想していた通り、リヴァイの姿があった。
 リヴァイは後ろからでもわかるほど大きく真っ白なシーツを両手で持って、物干しロープにかけようと背を伸ばしていた。足元には大きな籠が置かれており、同じく真っ白なシーツの端がはみ出ている。晴れて早々に、洗濯物を干しているようだ。リヴァイらしい。ミケはふたたびひっそりと笑った。

「リヴァイ」
「……ミケか」
 裏庭に出る短い階段をおりながら声をかければ、リヴァイはのっそりゆっくりとふり返った。36cm低いところより見あげてくる銀色の瞳。余所ではあまり見かけることのない銀の色を、密かにミケは気に入っていたりする。だが、今はその色をじっくりと見つめることはできなかった。
「お前、顔色が悪いぞ」
 ミケは少し顔をしかめながら言った。だが、ぴんとこない様子でリヴァイはこてりと首をかしげる。
「いつものことだろ」
「いや、そうじゃなくてだな……」
 的外れな返事に、はぁと思わずため息をつく。確かに、地下街で短くない時間を過ごしたらしいリヴァイの肌は、兵士にしてはまるで日に焼けておらず、普段から青白い色をしている。しかし、今日のリヴァイいつにも増して青白く、不健康極まりない顔色をしているようにミケには見えた。
「いつもより、顔色が悪いぞ」
 言いながら、ミケは足を進めてリヴァイとの距離を縮めた。頭一個分は余裕で低い位置にあるリヴァイの顔を腰をかがめて覗きこみ、さらに小さな顎を遠慮なく掴んでぐりぐりと様々な角度から顔を見る。
「ふむ、やはり顔色が悪い」
「っおい、人の顔をいきなり鑑定しはじめるな」
「熱は……、なさそうだな」
「いいからはなせっ」
 リヴァイはふいっ、と顔を振って手の中から逃げ出した。一歩二歩と距離を取って、不機嫌そうに眉をきゅっとしかめる。兵士たちが見たら、思わず退いてしまいそうな不機嫌な表情。しかし、ミケにはまるで警戒心の強い野良猫がフゥと毛を逆立てているようであった。迫力はあるが、どこか可愛らしくもある姿。
 出会ったころからそうだった。彼の小柄な体格のせいか、はたまた年の割に幼さが垣間見える顔立ちのせいか、それとも時折あらわれる常識知らずな一面のせいか、どうもミケはリヴァイを子ども扱いしてしまう節があった。
 ちゃんとした大人であると、わかってはいる。立体機動の腕前は勿論のこと、対人格闘の組手で、体格が倍以上もある兵士をあっさりと伸してしまうほどの実力があることも、その身をもって知っている。だが、ついどうしてもそういう扱いをしてしまうのだ。
「具合が悪いなら、ちゃんと診てもらえ」
 少し過保護気味に念を押せば、リヴァイはむっとした表情のまま答えた。
「べつに、具合はわるくない」
「……本当か?」
「ほんとうだ。ただ、まぁ……」
「まぁ?」
「……まぁ、雨のおとがうるさくて、すこし睡眠不足であることは、みとめる」
「……そうか」
「そうだ。でも、それだけだ……」
 だからほんとうに具合はわるくない。
 最後にそう言って、リヴァイはこちらに背を向けると、せっせとシーツ干しをを再開させた。大きなシーツを干すために、物干しロープは少し高いところに位置付けられていたため、リヴァイは爪先立ちで精一杯背を伸ばしている。やはりミケからしてみれば、中々微笑ましい光景だ。

「…………」
 まぁ具合が悪くないというのなら、これ以上口出しすることもあるまい。
 ふむ、とミケは小さく息をついた。とりあえず、最初の目的である猫はいないようだし、しばらくリヴァイの背中でも眺めながら日向ぼっこでもするか、と階段に腰を下ろす。が、その寸前だった。視線の先で、その小さな背中が目の前でふいにぐらりと揺れた。
「おいっ、」
 思わず声が出た。下しかけた腰をすぐにあげて、咄嗟に手まで伸ばしてしまった。だが、痩躯がふらついたのはほんの一瞬のことで、リヴァイはすぐに身体の軸を整えた。それどころか、こちらが一瞬抱いた焦燥など気にもしない様子で、のんきにふわぁあと大きなあくびを零す。どうやら、睡眠不足であることは本当に本当らしい。
「ったく……、たしかお前も今日は休みだっただろう」
「あぁ」
「だったら寝ていればいいだろう」
 眠気でまたふらつかれて、そのまま倒れられたりしたらたまったもんじゃない。
 しかしリヴァイはふるふると頭を横に振った。そして足元に置かれている籠に視線を落とす。釣られて一緒に視線を落とせば、籠の中にはまだ真っ白なシーツが残っている。
「これを干すから、まだ寝られない」
「あとで干せばいいだろう」
「だめだ。昼になるまえに干しておかねぇと……っ」
 言いながら、またリヴァイはあくびを零した。涙が出たのか、手の甲でぐしぐしと乱暴に目元を擦ってから、すぐに物干しロープに向き直る。
「足元がおぼついてないぞ」
「……おまえの気のせいだろ」
「…………」
 はぁ、とまたしてもため息が零れる。
 きっと、これ以上なにを言ったところで無駄であろう。リヴァイは他人の言葉に耳を貸すことのできる人間ではあるが、掃除や洗濯に関してはとても頑固だ。そのリヴァイに洗濯は後回しにしろと言ったところで、素直に聞き入れるはずがなかった。仕方がない。
「わかった、リヴァイ。ならばこうしよう」
「……?」
「俺が代わりに干しておいてやる、だからお前はさっさと部屋に戻って寝ろ」
「べつに代わってもらう必要はない。じぶんで干せる」
「欠伸しながら目をしょぼしょぼさせておきながらなにを言う」
「……させてない」
「欠伸は?」
「……それは、した……、が、でも平気だ」
「…………」
 三度目のため息は、ぐっと我慢した。こうなったらもう実力行使だ。
 ミケは黙って手を伸ばすと、リヴァイの手からシーツを奪い取った。おいっ、とリヴァイが抗議の声をあげるが関係ない。奪い返そうと伸びてくる手のひらを、シーツを持った手を高く上げることで避けながら、最後通牒だと言わんばかりに告げる。
「大人しく俺と代わるか、シーツを放置したまま強制的に部屋に戻されるか……。お前はどちらがいい?」
「…………」
 ぐぬぬ、とリヴァイは口をへの字に結んだ。やがて観念したのか、しゅんと肩を落とすと小さな声で「任せた」と答えた。まったく洗濯ごときでしょうのない奴だ。そう思いながらも、ミケの口元には笑みが浮かんでいた。ああだこうだと面倒なところもあるが、この元野良猫を構うのは、存外嫌いではないのだ。





 ハンジはおやと目を瞬かせた。
 それは、趣味と仕事の両方を要り混ぜた巨人研究の資料を、置きっ放しにしてしまった部屋へ取りに行こうとしている時のことだった。裏庭への短い階段の途中に、見知った小さな背中が座りこんでいるのを見つけて思わず足を止めた。
 夜空のように深い特徴的な黒髪が風に吹かれて揺れている。それと一緒に、ちっこい形をした頭もまた風に吹かれるようにしてゆらゆらと不安定に揺れていた。出来の悪い首振り人形のようなおかしな動き。あんなところでなにをしているんだろうかとハンジは首をかしげた。
「あれ、リヴァイ兵長、ですよね……?」
 一緒にいたモブリットが横で同じように首をかしげる。なにをしているんでしょうと全く同じ疑問。気になったハンジはさっそくリヴァイの元へと足を進めた。なんでもそうだ。どんな些細なことであろうと、興味を引かれたら首を突っ込むに限る。

「リヴァーイ? そんなとこでなにしてんの?」
 声をかけながら、ぽんと肩を叩く。すると、びくっと手の下でリヴァイの肩がわずかに跳ねた。そしてぱっ、とこちらをふり返ったかと思うと、銀色の目が無言のままじぃっとハンジを見あげてくる。
「……はんじ、に……もぶりっとか」
 いくらかの沈黙を挟んでから、リヴァイはぽつりと呟いた。
「はいはーい、ハンジさんですよー」
「……そうか」
「そうか、って」
 なんとも適当な返事だ。
「ぼうっとしちゃって、なに? 優雅に日向ぼっこの最中だった?」
「……ちがう」
「じゃあなにしてんのさ」
「おれは、ミケのかんとくちゅう……だ」
「監督中?」
 はて、なんのことやら。そう思いながら辺りを探してみれば、すぐそこの裏庭でシーツを干しているミケの姿が確かにあった。ミケはすでにハンジの存在に気がついていたようで、ちらりとこちらをふり返り「すんっ」と彼独特の簡素な挨拶を寄こしてきた。
「やぁ、ミケ。朝から精が出るね〜」
「まぁな……」
「でも珍しいね。リヴァイならともかく、ミケが朝っぱらから洗濯なんて」
「実際、俺はリヴァイの代わりだからな」
「そうなの?」
 しかし何故? 疑問に思うと、横からリヴァイが答えた。
「ミケが……どうしても干したいって、いうから……かわって、やった」
「へぇ〜」
「おい、嘘を教えるな、嘘を」
「……うそじゃ、ない。おれはじぶんで干すっていった」
 そう言うリヴァイの声は、さっきからなんとも稚いものであった。ぽやぽやと力の入っていない声。表情もいつもに比べてなんとも腑抜けたものである。ミケからリヴァイへと視線を戻せば、リヴァイは頭をゆらゆらとさせていた。それにしょぼしょぼとやたら瞬きが多い。その姿にあぁとようやくハンジは気がついた。
「リヴァイ、あんた眠いんだ」
「……べつに、……まぁ、すこし?」
「どっちだよ」
「……っ」
 突っ込みに返事はなく、代わりにリヴァイはふわぁあと大きく欠伸をした。ある意味、言葉よりもよっぽど正確な答えだ。くしくしと顔を洗う猫のように目を擦る。眼球が傷つくから控えた方がいいよ、とアドバイスしてみるが、うぅんと曖昧な応えしか返ってこなかった。
「あ〜、こりゃもう半分は夢の世界に入っちゃってるね」
「そんな調子だと言うのに、シーツを干すと言ってきかないのだから困ったものだ」
「それで見かねたあなたが代わってあげた、と言うことか」
「と言うことだ」
 なるほど、とハンジはモブリットと一緒に頷きあった。世話好きなミケらしい理由だ。

「でもさ、そんなに眠いんだったら、部屋に戻ってちゃんと寝れば?」
 こんなところで、それも座ったまま状態で眠ってもしっかり休まらないだろうと思ってハンジは言うが、リヴァイはふるふると首を横に振った。
「だめだ……ミケが、ちゃんと干してるか、みはっておかねぇと」
「眠気でぼけぼけなくせに、やれ皺をちゃんと伸ばせ干せだ、シーツとシーツの距離を離せだ、うるさいんだ」
「ははっ、寝ぼけててもリヴァイはリヴァイってことか」
「……うるさい」
「あーはいはい、ごめんなさいねー」
 口では謝ったが、どうしても顔は笑ってしまっていた。だが、夢うつつのリヴァイは気がつかない。それをいいことに、ハンジは頭をかっくりかっくりさせいるリヴァイを見てふへへともう一度笑った。さらには、無防備極まりない顔に手を伸ばして、丸い頬っぺたをつんと一突き。なかなか柔らかい感触だが、すぐにいやいやと首を振って払われる。懲りずにもう一突き。いやいや。一突き。いやいや。何度か繰り返す。
「ちょっと、分隊長。やめてあげてくださいよ」
 すると、見かねたモブリットが止めに入ってきた。
「えぇー」
「えぇー、じゃないですよ。嫌がってるのに可哀想じゃないですか」
「だって寝ぼけたリヴァイって面白いんだもの! あなたもそう思うでしょー?」
「えっ、それは、まぁ、ちょっと……って、いや!」
 そんなことありません!とモブリットは慌てて否定しながらリヴァイを見る。だが、睡魔に襲われているリヴァイの耳には届いていないらしく、反応はない。モブリットはほっと息をつきながら、無反応なリヴァイに呆けた表情を向ける。
「なぁに、変な顔しちゃって」
「失礼な。……いえ、まぁ、そのちょっと驚いてしまって……」
「……あぁ、リヴァイのこの状態のこと? モブリットは見るのはじめてだっけ?」
「はい。なんというか、こんな緩んだというか、ぽけっとした兵長ははじめて見ました」
 はじめてなだけあってよほど珍しいのか、モブリットの目はじぃっとリヴァイに釘づけだ。確かに、今のリヴァイは普段のリヴァイの様子からは想像しがたいほどにゆるゆるとした雰囲気をしている。眠気に頭を揺らして、でも眠ってしまわないようにと必死に瞬きをくり返す。そのうえ、ふわぁあと欠伸まで零す始末。これを無防備と言わないとするなら、なにを無防備と言うのかと思わせる姿だ。モブリットが思わずリヴァイを凝視してしまうのも、仕方がないことだろう。ハンジにはモブリットの気持ちがよくわかった。なぜなら、ハンジも彼と同じだったからだ。

 まだリヴァイが兵士長ではなかったころ、彼は今のように無防備な表情をハンジの前で見せるようなことはなかった。それどころか、会話すらも義務的なもの以外あまり交わそうとはしなかった。だが、壁外調査が行われ、兵舎の空き部屋が増えるたびに、連動するようにして交わす言葉は増えていくものだ。いつしか、古兵よりも新兵の数が多くなり、大部屋から個室へと自室を移すようになり、そのころにはリヴァイとは、ハンジとミケ、そしてそこにエルヴィンも加えよく酒を飲むほどの中になっていた。
 義務的に交わされていた言葉に軽口が混じるようになり、愚痴を言いあうようになり、趣味を話し合うようになり、少しずつ距離を縮めていった。そしてついに、ハンジはリヴァイの寝顔を目にしたのだ。あくる日の酒の席で、エルヴィンの身体を背もたれにしてくぅくぅと眠るリヴァイ。その姿を見たときの衝撃をハンジはよく覚えている。そんな無防備な表情をしたりするのだという驚愕と、その表情を晒してくれるようになった歓喜。仲間として、友として受け入れられていたのだと実感した瞬間だった。

「〜〜っ、おめでとうモブリット!!」
 蘇ってきた当時の記憶に、押えきれなくなってハンジは叫んだ。い、いきなりなんですか分隊長、と驚くモブリットの肩をバンバンと遠慮なく叩いて、さらに続ける。
「リヴァイが無防備な姿を晒すってことは、それだけあなたが彼に信用されているってことなんだよ! それはつまるところ、兵士として一人前であると人類最強と名高い兵士長さまに認められたってことなのさ!」
「えっ、えぇ!?」
 戸惑うモブリットをよそに、ハンジの胸には喜びでいっぱいだった。自分の部下が優秀な兵士であると褒められたこと、そして、野良猫のようだったリヴァイに信用できる人物がまた一人増えたこと。どちらもハンジにとっては喜ばずにはいられないことであった。
「…………うるさい」
 横から、リヴァイが文句を言う。
 その声は、相変わらずぽやぽやとしたものだった。





 エルヴィンはようやくつけた背中に、あぁ、と柔らかく息を吐いた。
 つかつかと大きな足音を立てながら近づく。早足になってしまったのは意識的ではなく、ほとんど無意識だ。それほど探していた。実際はそうたいして時間がかかったわけではないが、離れていた時間を考えれば、致し方ないことではないかと思う。
「リヴァイ」
「おっ、エルヴィン、帰ってきてたんだ」
 かけた声に一番に反応したのはリヴァイではなく、横にいたハンジだった。モブリットが頭を下げてくるのを手をあげて返す。しかし、肝心のリヴァイはまったくの無反応でエルヴィンはやれやれと眉尻を下げた。
「あぁ、さっきね。君はリヴァイと一緒にのんびり日向ぼっこかな」
「あっははー、私と同じこと言ってるー。でも、まぁそんなところかな」
 ハンジはそう言って空を見あげながらぐぐーっと大きく伸びをした。その向こうで、ミケがシーツを干しているのが見える。洗濯はミケの担当ではない。だが、なぜミケが、とは、理由を聞かなくてもあらかた察せられた。
 ゆらゆらと小さな頭が揺れている。まだ反応を返そうとしないリヴァイに、エルヴィンはさらに距離を詰めた。そして若干俯きかけている顔を覗き込みながらもう一度「リヴァイ」とその名を呼んだ。
「……あぁ、えるびん」
 今度はちゃんと返事が返ってきたが、その声は地に足がついていないような浮遊感に満ちたもので、エルヴィンは小さくと笑いながら、あぁやっぱりなと思った。昨日も一昨日も、雨が酷かった。だからきっとこうなっているだろうとわかっていた。昔から、リヴァイはそうなのだ。
 本当ならば、こうなる前にしっかりと傍にいてやりたかった。しかし、月に一度ある各兵団団長の集まりのせいでどうしても留守にせざるを得なかった。雨が降り出したその日に出て、帰ってきたのは先ほどのこと。思いのほか長く続いた雨に、やきもきとした帰路であった。
「探したんだぞ、リヴァイ」
「……そう、か」
「留守の間、なにか変わったことはあったか?」
「……べつに、ない」
「そうか、ならよかった」
「……ん」
 ワンテンポ遅い返事。これはもうだいぶきているようだ。
「おい、エルヴィン。そいつをさっさと部屋へ帰せ。いつまでもそこで船をこいでいられちゃ、気になって仕方がないぞ」
「あぁ、さすがにこれはな」
 ミケに同意を返して、エルヴィンはリヴァイの肩に手を置いた。そのままゆるゆると身体を揺さぶって、覚醒を促す。
「リヴァイ、部屋に帰るぞ。眠いんだろ?」
「……ん、……べつに、そこまで、ねむくは……ない」
 ほとんど目を閉じながらのリヴァイの台詞に、横でハンジが吹きだした。説得力ゼロ!と大声で笑って、モブリットに注意される。それでもハンジは笑い続けていたが、リヴァイは無反応だ。いつもであれば、うるさいクソメガネと文句の一つでも飛ばすだろうに、無言のまま。
「ありゃりゃ、ついに文句も言わなくなっちゃった」
 まぁ、無理もない。なんせ三日も雨が続いたのだ。
 リヴァイは雨が嫌いだ。雨音で眠れなくなってしまうほどに嫌っており、雨が降っている夜は否が応でも徹夜を余儀なくされている。一晩程度ならいい。その程度の徹夜なら、リヴァイにとって大きな負担とはならない。しかし二日三日と続けば、流石のリヴァイもきついことだろう。

「ほら、リヴァイ、行くぞ」
「んん……」
 リヴァイは頷く。しかし動く気配はない。もう一度声をかけてみても、ふにゃふにゃな返事は返ってくるが、やっぱり動く気配はなかった。仕方がない。エルヴィンはリヴァイに手を伸ばすと、脇の下に手を入れて小さな身体を持ちあげた。リヴァイの足が完全に宙に浮く。
「……なんだ?」
「戻るんだよ、部屋に」
「……そうか」
「そうだよ」
「……じゃ、おろせ」
「歩けるのか?」
 こくこくとリヴァイは頷く。それは船をこいでいた動きとそっくりで、少々怪しいものがあったが、エルヴィンは言われたとおりにリヴァイの身体をそっとおろしてやった。ただし、いつ倒れても平気なように、身体に触れた手はそのままに。
「…………」
「リヴァイ?」
「…………ん、いくぞ」
 そう言うが、リヴァイの足は動かなかった。少し待ってみるが、一向に動きだす気配はない。なので、エルヴィンはリヴァイの腰に手を添えると、そっと前へと押してやった。そうすれば、ようやくリヴァイは一歩を踏み出す。押して、一歩。押して、一歩。エルヴィンが押すのを止めると、とたんにリヴァイの足も止まる。
「ったく、どんだけ眠いのさぁこの人は」
「一人で部屋に帰らなかったのはある意味正解だったかもな……」
「あぁ、確かにな」
 あまりの様子に、思わず三人で頷きあう。
 いくら酷くても、廊下で眠りこけるなんてことはリヴァイに限ってあり得はしないだろうが、自室に戻った途端ベッドにたどり着く間もなく寝落ちていた可能性はとても高いだろう。
「さぁ、リヴァイ。今度こそ部屋に帰るぞ」
「……ん」
「……それじゃあな」
 ミケとハンジに一言つげて、エルヴィンは頷くだけでやはり動こうとしないリヴァイの身体を押した。気をつけてねー、とハンジの声を受けながら、二人は裏庭を後にした。


 ゆっくりと歩くリヴァイの歩調に合わせて、エルヴィンもゆっくりと歩く。時折、かくり、とリヴァイの頭が揺れて、それに釣られて揺らぐ身体を支えながら、ゆっくり。傍から見ればもどかしく見えるほどに遅いであろう歩みだったが、エルヴィンの気分は良かった。
「あぁ、リヴァイ。そっちに傾くな。傾くならこっちにしろ」
「んん……?」
 寝ぼけた意識で、言われるがまま無防備に身体を預けてくる重みが心地いい。
「ほら、リヴァイ。次は階段だぞ」
「……ん」
「まったく……」
 相変わらず頷くだけのリヴァイに、しょうがないなんて口では言いながら表情は他の兵たちにはあまり見せられない表情をしているであろう自覚があった。普段、一人でなんでもこなしてしまうリヴァイの世話をするのはとても楽しい。これが他の誰かであったなら、ただ面倒なだけであっただろう。しかし、リヴァイならば、リヴァイだから、エルヴィンは表情を緩める。
「よっ、と……」
 動くどころか下手したら段差に躓きかねないリヴァイをエルヴィンはけっきょく腕の中に抱きあげることにした。見た目の割には重たい身体だが苦はない。
「……なん、だ」
「いいから、大人しくしていろ」
「……ん」
「よし、いい子だ」
 さきほどとは違い、リヴァイは頷くと大人しく腕の中に納まった。すぅすぅ、と聞こえてくる深い呼吸の音に耳を傾けながら、静かに階段をのぼる。できるかぎり、音をたてないように、揺らさないように。階段をのぼりきったあとも、リヴァイがなにも言わないのをいいことに、エルヴィンはその身体を抱えたままにした。

 そのあともリヴァイは抱えられたままエルヴィンの部屋へと運ばれ、最後まで文句を言うことはなかった。構わないと思ったのか、ただ眠すぎて気がついていないのか、それとも面倒なだけだったのか。まぁ、なんであれ、エルヴィンは構わなかった。どんな理由であったとしても、無言の信頼であることに違いはない。
 ベッドにリヴァイをおろし、座らせる。すると、早速身体がぐらりと揺れた。しかし、ベッドに沈みかけた身体を、エルヴィンは寸前で引き止める。
「あぁ、リヴァイ。もう少し我慢してくれ」
「……んん?」
「ほら、上を脱がないと」
「んー……」
 返ってくるのは変わらない生返事だ。だが、はじめからまともな返事は期待してはいなかったから別に気にはしない。リヴァイの腕を上げさせて、休日だと言うのにしっかり付けている立体機動のベルトを外した。そのまま人形のようにされるがままのリヴァイの首元からクラバットを解き、つづけて腰布を外す。最後にブーツを脱がせて、ようやくリヴァイの身体をベッドに寝かしてやった。
「ん……んん」
 感触が気持ちいいのか、リヴァイはすりすりとシーツに頬を押し当てる。その姿を微笑ましく見守りながら、エルヴィンは上着を脱いだ。そのままベルトもぱぱぱっ、と乱雑に外して、適当にそこらに放る。リヴァイが見たら速攻でお説教が飛んでくるところだが、今のリヴァイはシーツに夢中である。そのかわり、あとでうるさく言われることが容易に予想できたが、まぁその時はその時だ。
 エルヴィンはブーツを脱ぐと、さっさとベッドに乗りあげ横になった。シーツに懐くリヴァイを抱き寄せて、一緒にシーツに包まる。するとリヴァイはすぐにシーツからエルヴィンのほうへと頬を寄せてきた。
 心臓のちょうど真上、シャツ越しに柔らかい頬の感触がする。顎下にはリヴァイの頭頂部が位置して、髪先が当たってくすぐったい。だが、エルヴィンは顔を背けようとはしなかった。むしろ、顔を寄せて誰かさんのようにすんと鼻を鳴らして、鼻腔をくすぐる甘いにおいに微笑を深めた。
 胸の奥から、きゅう、とした感覚が湧きあがる。たまらなくなって、さらにリヴァイを抱き締めた。そうすれば、あつらえたように腕の中にぴったりと収まる身体にきゅうとした感覚が増す。単純なものだ。けれど、悪くない。悪くあるはずがない。

「…………」
「ん? なんだリヴァイ」
 ふとちいさく声が聞こえてきて、耳を澄ませた。もぞもぞと胸元でリヴァイが身じろいで、寝返りたいのかと少し腕を解いてやる。しかし、違った。リヴァイは寝返りを打とうとはせず、逆にいっそうエルヴィンの胸元へとくっ付いてきた。リヴァイの髪先が、顎を撫でてきてくすぐったい。だが、リヴァイに離れる意思がないのなら、エルヴィンにもまた離れる意思などなかった。
「……おとが、するな」
 再度、ちいさくリヴァイは言った。
 音がする。今度はしっかりと聞き取れたその言葉に、エルヴィンは首をかしげた。
「なんの音だ……?」
「ん……、心臓のおと……」
「あぁ……。うるさいか?」
「いや、……」
 ふるふると、胸元で頭が揺れる。さらさらと一緒に揺れる髪を撫でて、エルヴィンは無言で続きを促した。リヴァイは、くわぁ、と何度目かになる欠伸を零す。そしてむにゃむにゃとしばらく言葉にならぬ声を漏らしてから、ぽつりと言った。
「いい、おと、だな……」
 生きている音だ。
 その声はやはりちいさい。けれど、どこか穏やかさを含んだ声でもあった。次いで、深く息を吐く音が聞こえてきた。どこか満足げな深い吐息だ。そのまま本格的に寝入ったのか、その言葉を最後にリヴァイただ静かな寝息を零すだけとなった。すぅ、すぅ、と緩く安らかな寝息。

「ふむ……」
 生きている音、か……。
 リヴァイの言葉を繰り返しながら、エルヴィンは聞こえてくるその寝息に自身の呼吸をそっと合わせてみた。ゆっくりと、吸って吐いて、吸って吐いて、何回も何回も。そうすれば、抱きしめたリヴァイの身体からエルヴィンの身体へと眠気が浸透してくるようにして、あっという間に睡魔は襲ってきた。
 堪えきれない欠伸を一つ零して、ふたたびリヴァイの身体をぎゅっと抱き寄せる。ゼロまでに縮まった距離に、寝息がさらによく聞こえた。心音とは違う、だが、同じでもある“生きている音”。あぁ、とエルヴィンはとろりとした意識で思う。
「たしかに、いい、な……」
 リヴァイの生きている音。
 それは確かにとてもいい音で、きっとなによりも耳触りのいい音であった。
口をそろえて君に君へ