それは言ってしまえば不可抗力だった。殺そうとして行動した結果に、更にその結果がついてきたのだから、不可抗力も何もないのだが、しかしやっぱりそれは平和島にとってしてみれば不可抗力でしかない。こんな結果を望んでいたのかと、例えばそれを昔馴染みの闇医者や首なしの彼女に訊かれたら、平和島は小さな声で、しかし確固たる意思で違うと答えただろう。だが、違うと否定したところで、それがいったい何の意味をもつだろうか。平和島が望んでいたにしろ望んでいなかったにしろ、それはすでに起こってしまっている。

 平和島静雄が折原臨也の片目を潰した。
 それは、池袋では知らない者はいないのではないかというほど、誰にでも知れ渡っている噂だった。瞬く間に広がったそれは、めぐりめぐって平和島の耳にも届いている。噂なら噂で別にそれでよかった。くだらない戯言だと、平和島は鼻で笑っただろう。しかしそれは決して誰かがでたらめに流した噂ではなく、免れることも、ましてや消すことなどできないものとして平和島の前に立ちはだかる。折原臨也の片目を潰した。それは平和島にとってどうしようもない事実だった。
 その話を耳にするたび、平和島は歪んでしまう己の顔をどうすることもできずにいた。改めて聞くたびに胸糞が悪くなる。自然と眉間にしわが寄って、眼の奥が少し痛むような感覚がする。逆に折原はそんな平和島の顔を見て、ふっと笑う。誰もが思わず見惚れるような白く端整な顔にひときわ目立つ紅い瞳をした左目が細まる。一方で、肌と同化するように右目を覆う白い包帯がただでさえ不愉快な平和島の胸を無遠慮にかき乱す。衝動的に目の前の折原から視線をそらしたくなったが、平和島の意地が、はたまたプライドが、それを許すことはなかった。
 どうして会ってしまったのか。どんな時でも彼の姿を見失わない自身の両目が嫌になった。いっそのこと奴の片目と取り替えてしまうことが出来たなら。そう思った矢先、まるで平和島の思考を読み、そしてあざ笑うかのようなタイミングで折原ははははっと声をあげて笑った。

「あはははっ! しずちゃんなにその顔! すっごい笑えるんだけど! それ意識してそんな顔してんの? もしそうなら、君にしては凄く面白いよ! まるで人間みたいだよ !あぁ、でも君がそんな面白いこと意識してできるわけないっか。だって君って最高につまらない存在だもんね。いっつも何も考えないで本能でばかり突き進んでは、俺の予想の斜め上どころか更にその先を行く、筋肉だけの怪力馬鹿。そんなしずちゃんが、そんな人間みたいな表情、するわけないよね。あれ? じゃあ、なんでしずちゃんはそんな顔してるのかなァ?ねぇ、どうして? たかが、俺の片目を潰したぐらいで、おっかしいなー。だってここは喜ぶところでしょ? なんたって君は殺したくて殺したくて殺したくてたまらない俺の片目を潰したんだよ?君にそんなつもりはなかったのかもしれないけど、これは君にとって物凄いラッキーなことだよね。だって、これで君は今までよりも格段に俺を殺しやすくなったはずだからね。なんたって俺の右目、もう完全に何も見えないからね。しずちゃん、知ってる?片目が見えないってだけで、視野って驚くほど狭くなるんだよ。それに、遠近感やバランス感覚も前より悪くなっているからね、これでしずちゃんは確実にそのでたらめな攻撃を俺に当てやすくなったはずだよ。つまりより一層俺を殺しやすくなったってことね。フフ、嬉しい? 嬉しいよね? 嬉しくないはずがないよね? だって、しずちゃんは俺を殺したいんだもんね。息の根を止めたくてしょうがないんだもんね。いままでずっとずっとずーっと、そうだったもんね。こうして俺の片目が潰れたのだって、しずちゃんが俺を殺そうとした結果だ。殺したくないはずがない。ねぇ、しずちゃん。俺さ、もう一回訊くよ? どうしてシズちゃんは今、そんな顔をしているのかな?今にも 泣き出しそうな、なっさけない顔。ねぇ、まさか、まさかだよ、しずちゃん。俺を殺したくてたまらなかったはずの君がさー、まさか俺の片目を潰したくらいで罪悪感に駆られてるとか、そんなおかしなこと言うんじゃないよね?」

 ねぇ、しずちゃん?
 耳に纏わりつくような声で、一言、折原は口をつぐむと、左目で平和島をじっと見た。平和島は折原の言葉に何一つ答えることはなかった。否、できなかった。答える隙がなかったというのもあるが、最大の理由は答える言葉そのものをもっていなかったから。
 平和島には折原の言葉を肯定することはできない。折原の言葉を肯定すること、それすなわち今までの己の行動すべてを覆すことになりうる。それは平和島にとって、酷く恐ろしいことのように思えた。肯定してしまえば、それはもはや自分の知っている平和島静雄ではない。ならば、折原の言葉を否定すればいい。そんなおかしなこと言うはずがないと平和島が笑いながら言ってしまえば、いま彼とともにいる時間は、過去に彼と過ごした物騒で殺伐とした、しかしいつの間にか当たり前になっていた、日常の一つとなるだろう。折原の片目を潰したことすら、日常として記憶のなかに埋まり、そして変わらない不動の日々がまた二人の間に続く。どちらかが死ぬまで、半永久的に。
 そう、折原の言葉を、否定してしまえば。
「――――……ッ」
 けれど結局、平和島の口から言葉が生まれることはなかった。戸惑いなく口にする事ができたはずの言葉の数々が、喉の奥に引っ掛かって音にする事ができない。まるで声の出し方を忘れてしまったようで、先ほどからやけに息苦しい。そもそも、自分は折原に何と言葉を返すつもりだったのか、わからない。わからないが、きっと言葉を返した先に待っているものが恐ろしいものであることに変わりはないのだろうと、平和島は思う。


 風が吹く。夜の冷たい空気が髪を揺らし、折原のコートをぱたぱたとはためかせ目を引くが、平和島は目の前の紅だけをじっと見つめていた。折原はそんな平和島を見つめ返しながら、とんとんとんと、軽い足取りで平和島の方へと近づいた。平和島の横を通り過ぎ、少し離れては踵を返し、また平和島の横を通り過ぎる。ふらふらと歩いているようでいて、同時にまるで踊っているかのようなそれを、平和島は目で追いかけた。それは以前とまるで変わらない、飄々とした軽い動きだった。何の不自由も感じさせない、気ままな猫のような足取り。
 昔からそうだった。近づいては逃げる、そんな折原の背中を平和島は追っていた。追いかけて、この手に捕まえて、何がしたかったのだろうか。今となってはわからない。わかるはずなのに、理解することが難しい。理解してしまえば、きっとそれは素晴らしく単純なことなのだろうが、それを認めるには多大な労力や葛藤がいる。少なくとも平和島はそう推測する。自分と折原の関係は、そう簡単に改められるような、真っ直ぐなものじゃない。そのはずだった。自分が、彼の片目を潰すまでは。

 不意に、平和島の眼の前でたたらを踏んだ折原の身体が傾く。折原は慌てる様子もなく体制を整えようとするが、それよりも早く平和島の身体は動いていた。頭の中で何かを思うよりも早い、咄嗟の行動だった。何もかもを破壊できるその腕で、彼の右目を奪ったその手で、平和島は折原の身体を抱きとめた。冷たいアスファルトに片膝をつく。腕に重みがかかるが、平和島にしてみればそれはなんてことないくらいに軽い。
 無意識の行動。それに気がついたとき、平和島はひゅっと息をのみ、まるで金縛りにあったかのように、折原を腕にしたまま動くことができなかった。少しでも動けば、また彼の一部を潰してしまいそうな気がして、動けない。
 二人の間に沈黙が落ちる。重いのか軽いのかわからない、沈黙。永遠に続くんじゃないかと錯覚しかけた頃になって、折原がくつくつと喉を鳴らして声を出さずに静かに笑った。今はもう一つしかない紅い目を細めるそれは微笑しているようにも、呆れているようにも見える。
「あー、もうやめてよしずちゃん」
 そうして折原は平和島の腕を押しのけて一人立ち上がった。

「ほんと、たまらない。たまらないよしずちゃん! しずちゃんが! 俺を殺そうといつも躍起になっているあのしずちゃんがだよ! 俺の片目潰して傷ついているだけじゃなく! 転びそうになった俺を支えるなんて! そのうえ固まって動けないとか! なにそれ! はは! 気持ち悪いにもほどがあるよ! はははっ!ははははははっ! なに? しずちゃん俺を笑い殺す気? ふふっ、はははっ! あははははははっ!」
 折原は可笑しくてたまらないとばかりに、声をあげた。以前は、その声を聞いただけで腹が立った。耳が彼の声しか受け付けていないかのように、他の一切の声が聞こえなくなって、頭の中はいつもその声の主のことでいっぱいになる。しかし今は、無邪気ともとれるその声が、ただただ平和島の胸に深く突き刺さる。

「ねぇ、しずちゃん。こういうの、なんて言うか知ってる?」
 ぴたりと、笑い声が止まり、折原が平和島をじっと見た。いつもと変わらない、心底人を馬鹿にしたような声色。
「虫唾が走るって言うんだよ」
 折原はまるでチェシェ猫を思わせるような、それでいて、とてもきれいな表情で微笑み、平和島はぐっと顔をしかめた。そうしなければ、みっともなく泣いてしまいそうな、そんな気分だった。
僕の中の絶望