「――――――」
 一体この男はいま何といった?男の言葉をすぐに理解することができなかった。まるで自分が存在すら知らない国の言葉のように聞こえて、は?と言う一言が思わず口を継いで出ていた。
「――――――」
 男がもう一度言う。折原が理解できなかった言葉を。折原の脳裏で男の言葉が繰り返される。まるで壊れてしまったテープのように、勝手に何度も何度もリピートされる。数え切れないほどの言葉が反復したころになってようやく折原は言葉の意味を意味として理解する。そして、改めてその言葉を告げた男を見て、その言葉の意味を否定した。だってそうだろう。この男が自分を?ありない。ありうるはずがない。ありえる要素がない。
(なんだよソレ…なんなんだよッ)
 何をどうすればそうなるのかが、折原にはほんの一握りですら理解できなかった。折原の胸に、ふつふつとした熱く苦々しいものが湧いてくる。それは、紛れもない、苛立ちだった。理解できない言葉を発する、男への苛立ち。怒り。

 あぁ、まったくもってなんということだろう。相も変わらず、この男は折原の予想の斜め上以上を行く。勿論、良い方向ではなく悪い方向でだ。この男の予想外な行動で、折原にとって良い方へと転んだことが果てしてあっただろうか。折原は熱くなる頭の片隅でぼんやりと男との過去の出来事を思い出してみるが、その答えはやはりどれも折原にとって腹立たしいものばかりだった。
 ちっ、と心中、舌打ちをしながら折原は、目の前に立つ己よりもはるかに背が高く、強靭な肉体をもつ主の顔を憎々しげに見上げる。視線に嫌悪がこもるのはしょうがない。実際、今の折原は果てしなく機嫌が悪いのだから。一応、隠してはいるつもりだが、この男はそれに気がついているだろうか。どちらにしても、腹立たしいことに変わりはない。それほどまでに男が告げた言葉は意味不明かつ理解不能で、理解できないという現状に折原はどうしようもない怒りを覚える。
 積もった苛立ちをぶちまけるように、不意に折原はコートに忍ばせていたナイフを振り上げ、男の胸めがけて振り下ろした。ひゅんと風を切る音。そのまま折原の手にはナイフが刺さる振動が伝わるはずだった。だが、その切っ先は男の素肌はおろか服にさえ触れることはなかった。理由はいたって単純明快だ。男が折原に手首をつかみをそれを止めた。ただ、それだけ。
(ムカつくムカつくムカつくムカつく…ッ!!)
 発散できなかった苛立ちのあまり折原は隠すことなく大きな舌打ちを一つ打つ。何よりも折原が忌々しく思うは、攻撃をふさがれたということよりも、己の手首をつかむ男の手にまるで力が入っていないという事実の方だ。男の手はいともたやすく自分の手首を折ることができるのに、ほんのわずかな痛みさえ感じさせないその触れかたに折原はナイフを握る指に力を込めた。じわじわと伝わってくる男の体温が気持ち悪い。
(嗚呼、嗚呼、違うだろ違うだろ違うだろ。そんなの違うだろ違うんだよ平和島静雄。そんなのお前じゃないだろ。お前じゃない。いつの間にそんな奴になった。そんな、まるで人間みたいに。どうして怒らない。殴らない。傷つけない。どうしてそんな優しい手つきで触れる。どうしてそんな眼で見る。そんな殺意のこもらない目で、どうして。己を忘れたか。俺を忘れたか。今まであったことを忘れたか。そんな関係じゃないだろ。そんな間柄じゃないだろ。そんな可能性あり得ないだろう。何度俺がお前に刃を向けたと思う。何度俺がお前を陥れようとしたと思う。何度俺がお前に死んでほしいと告げたと思う。それなのになぜなぜなぜなぜ!)
 思わず唇を強く噛む。ぷつり、と耳の裏で音がして唇に血がにじむ。けれど、痛みなど感じなかった。こんな些細な傷よりも、以前男に投げつけられたゴミ箱の方が何倍も痛かった。男に殴られた腹部の方が何十倍も痛かった。それなのに、なぜ今男が掴む手首は微塵も痛くないのか。いくら考えても分からない。いくら考えても男が告げた言葉の意味が理解できない。苛立たしい。苛立たしい。苛立たしい…。

「臨也……」
 男が名を呼ぶ。折原が今まで聞いた覚えのない、酷く柔らかな声。空いていた男の片手が折原の口元に伸ばされる。その手の目的を察した途端、折原の肌はざわりと総毛立った。それ以上、暴力を含まない手で触れられたくなくて、柔らかい声の続きを聞きたくなくて、折原はジワリと滲んで玉になった血が唇から伝うよりも早く男の手を振り払った。そして、そのままわき目も振らず駆けだした。怒った男が青筋を浮かべ、いつものように自販機を投げつけてくればいいと思いながらただ駆けた。
愛してるとか言うな気色悪い