手近にいい獲物がなくて、平和島は男を素手のままで殴りつけた。ばきり、なんて耳障りの悪いが鬱陶しく、それ以上に拳にこびりついたどす黒い血が妙に生温かくて気色悪い。上着で擦って落とそうとするものの、執着にこびりついたそれは綺麗に拳から離れることはなく、不快指数は無造作に上がる一方だった。平和島は本能のままに腕を振り上げる。込められるだけの苛立ちを込めて、けれど、十二分に手加減はして殴りつける。再び聞こえる耳障りな音、拳の先から感じた生きものの温度に平和島は顔をしかめた。あぁ、気色悪い。苛立たしい。 最初こそはしっかりと施錠されていたはずなのに、気がついた時には常時鍵の掛かっていない扉をあける。ぎぃ、と立てつけが悪いせいで鳴る音は煩わしく、しかし、緩やかに吹く風が髪を揺らす感覚は酷く心地よくて、その感覚に平和島は自身の苛立っていた気持ちがいくらか落ち着くのを実感する。視線をぐるりと辺りにやったが、人の姿はなかった。そのことにほっとしながら、平和島はいつもの場所に足を進める。入口からは死角になったそこはちょうどよく日陰になっており、平和島は腰を下ろすと自らの腕を枕に横になった。 束の間の穏やかで平和な時間。すぐに訪れる緩やかな眠気に素直に眼を閉じた。ふわふわとした感覚が心地よく、人がいないことをいいことに隠すことなく大きな欠伸を一つこぼす。そのまま眠ってしまおうと平和島は身体の力を抜いた、ちょうどその時だった。扉が開く音が耳に飛び込み、穏やかだった空間に罅が入る。すぐにその罅から人がくる気配がした。 最悪のタイミング。せっかく独りで静かにいられたのに、と平和島は思わず舌打ちする。これでは何のためにここに足を運んだのかわからない。軽く睨んで追い返してしまおうかと、横にしたばかりの上体を起こし扉の方を覗く。直後、平和島は覗いたことを後悔した。重い扉を開けて姿を現したのは平和島の見知らぬ男と、そして大の天敵である折原臨也、その人だった。 折原の顔を認識した途端、平和島の身に反射的に力がこもる。よりによって一番イヤな男がきやがったと平和島はもう一度舌打ちした。視線の先で、折原と男の二人は扉から少し歩いた先で立ち止まった。向かい合って立つ二人はどうやら平和島の存在には気がついていない様子で、その様子に平和島はその場から動こうかどうしようか迷った。いつもなら問答無用に折原へと殴りかかっただろうが、見知らぬ男の存在が平和島にそれを戸惑わせた。男はやけに神妙な顔つきをしていた。思い悩んでいるような、そんな顔。 折原が自身より背の高い男を見上げ、何か言葉を交わしている。折原が口を閉じると次は男が口を開く。少し長い言葉。折原はじっとその言葉を聞いている様子だった。やがて、男の口が閉じられる。また折原が何か言って、すぐにその口を閉じた。そうして、二人は互いの顔を見たまま何も言わない。ほんの少ししてから、折原がことりと首をかしげた。一言、二言。折原が何か言う。すると男の顔が苦しげな表情へと変わった。一体折原は男に何と言ったのだろうか。平和島が思った刹那、突然男が折原の身体を抱きしめた。平和島は反射的に、なッ!?と言葉にならない声が出してしまいそうになって慌てて飲みこんだ。目の前の光景がすぐに理解できなくて、しかし理解できた瞬間、平和島はまさしく言葉を失った。 華奢といっても差しつかいないだろう肩に男の腕が回り、折原は特に抵抗することなく、大人しくされるがまま男に抱かれている。それどころか、縋りつくように抱きしめてくる男の首に片腕を回し、もう片方の手で男の頭を優しく撫でた。遠目から見えるその表情は平和島が今まで一度も見たことがないほど穏やかで、優しげなものだった。まるで愛しいものに触れているかのような、そんな表情。男の方は折原の肩に顔をうずめているせいで表情は見えなかった。だが、折原の腰の回された男の腕は彼の目立つ赤いシャツに皺を作るほどで、それ相応の力が込められていることを知ることはこの距離を持ってしても容易いことだった。天敵を見て力の入った身体が、違う理由で固くなった。怒りとは違う、何か別のものが身体中を駆け回るような、そんな錯覚がした。しかし、平和島自身はそれに気がつかない。ただ茫然と目の前の光景に目を奪われ、漠然とした苛立ちを胸に宿していた。二人は依然、互いを抱きしめあったまま、平和島の存在に気がつかない。 そのままどれほどの時間が経っただろうか。少なくとも平和島にはやけに長く感じた時が経過した頃、ようやく二人の身体が離れる。気がついた平和島は今更のように日陰に身を隠した。折原と見知らぬ男が何か話している声が聞こえ、無意識に聞き耳を立てるが、生憎何を話しているのかまでは聞こえない。囁くような音だけがいたずらに平和島の耳をくすぐって、それがまたやけに苛立った。 やがて、会話が終わったのだろう。代わりに微かな足音が聞こえ、そのすぐに後に扉が開く音がした。その音を聞きながら平和島はじっと身を潜め続ける。獲物を陰から狙う獣のように、ひっそりと息を殺す。足音が遠ざかり、続いてバタン、と重い音を立てて扉が閉まる。その音に何故か安堵のような気持を覚え、ふっ、と息を吐いた。そうして、それは聞こえた。 「覗き見は感心しないなー」 しずちゃん、と呼ぶ凛とした声。聞き間違えることなどあり得ないその声に平和島は吐いた息をまた一気に吸い込んだ。それはどう聞いても明らかに自分に向かって発せられているもので、まさか気がつかれていたとは思っていなかった平和島は盛大に肩を揺らし、しかしすぐに顔をしかめた。人が我慢して身を隠していたというのに、あっさりその存在に気がつき、わざわざ名指しで声をかけてくるとは、なんて忌々しいのだろうか。平和島は本日三度目となる舌打ちする。 非常に不本意だが、観念して日陰から一歩二歩、平和島は足を踏み出した。降り注ぐ日差しに少し目を細めた先で折原は悠然とした佇まいでそこにいた。 「……別に覗き見なんざしてねぇ。テメェが後からきて勝手に変なことし始めただけだろ」 「変なことって何それ、凄い心外なんだけどー」 「心外も何も事実だろうが」 実際、男同士で抱き合うなど、平和島にしてみれば異様以外の何物でもなかった。例えばそれが二人とも見知らぬ人間だったのなら平和島もそこまで気にしなかっただろうが、相手が折原となると話は別だ。一体何を思ってそんなことをしていたのか、平和島は気にせずにはいられない。その理由を平和島はあまりよく理解していなかったが、そんなこと折原と向かい合った今はどうでもいい。 「またなんか企んでやがんのか」 「やだな企んでるなんて人聞きの悪い。別に何も企んでないよ。彼さ、どうしようもなく落ち込むことがあったんだって。哀しくて哀しくてしょうがないって今にも死にそうな顔で言うもんだからさぁ、俺はただちょっと慰めてあげただけだよ」 「…慰めるために野郎と抱き合ってただぁ?ハッ、そりゃ、驚きだ。テメェにそっちの趣味があるとは知らなかったぜ」 「ははっ、ちょっと何それー。抱きしめあってただけでホモ扱い?うっわー、それってどうかと思うよーしずちゃん。ちょっと考えか堅いっていうか古いんじゃない?今時珍しいことでもないでしょー男同士で抱きしめあうくらい。握手の延長線、スキンシップの一つだよ」 くるくるくると、猫が喉を鳴らすようにして折原は嘲笑った。本気で言っているわけではないとわかっていて返してくる言葉全てが平和島の神経を逆なでする。珍しく怒鳴り声で始まらない会話したと思ったらこれだ。やはりこの男は腹立たしい。そう思って一発殴ってやろうかと考えた時、計ったようなタイミングでフフッと折原が小さく笑う。肩をすくめ、馬鹿にしたように。 「まぁ、しずちゃんだしねー、しょうがないか」 「あぁ?どう意味だテメェ…」 平和島は折原を睨んだ。幾人もの人間が恐れるそれを、しかし折原はまるで気にしない。眼をそらすことすらなく正面から、鋭く凶暴な色をした平和島の眼を見返す。 「そのまんまの意味だよ。ねぇ、しずちゃん。しずちゃんは知ってるかなぁ?理解しているかな?誰かを抱きしめることが、誰かに抱きしめてもらえることがどれだけ素晴らしいことかってことを」 「自分という存在がいて、誰かという存在がそこにいる。一体どれだけのものが自分とその人の間にはあると思う?目に見えるものだけじゃないよ。色々なものが、そこにはあるんだ。何重にも何重にも、分厚くね。それを取り払うのはとても大変なことで、幾千もの時間と幾万もの言葉、そして限りないほどの想いがいる。でも、誰もがそれら全てを持っているわけじゃない。どれか一つが欠けてもダメなのに、それら全てを所有する人はほんの一握りしか存在しない。でもね、実はそんなのいらないんだよ。本当はほんのちょっとの時間と言葉と想いだけで大丈夫なんだ。そう、とても簡単なこと。そんなの、触れ合ってしまえば良いんだよ。腕を伸ばして互いを抱きしめる。優しく、けれど力強くね。それだけで自分と相手の距離は限りなくゼロになって、そこには空気だって割り込むことができない。お互いの呼吸が、鼓動が、体温がまじりあって、時は早く、けどゆっくりと流れて、まるで世界にその人と二人だけのような不思議な感覚。腕の中の存在がどうしようもなく愛しいものに思える錯覚。誰も自分を傷つけない。いや、傷つかないよう暖かく守ってくれる、絶対的な安心感に身体はつつまれる。このまま緩やかな眠りについて二度と覚めなければいいのにと誰もが考えずにはいられない!あぁ、それはなんて素晴らしいことなんだろうか!ねぇ、しずちゃん。そんな素晴らしい感覚を、君は知ってる?理解している?」 やけに芝居がかった台詞、動作で折原は平和島を仰ぎ見た。無駄に様になっているのがムカついて平和島は何馬鹿みたいなことを口走っているんだと一笑したかったが、それは叶わなかった。何故なら、誰かと優しく触れ合うような素晴らしい感覚とやらを、平和島は知らなかったから。 平和島が知っている人の感覚などたかが知れている。殴りつけた時の肉が波打つ感触、骨が折れる振動、血の生ぬるい温度。優しさも暖かさからも程遠いそれだけ。それを別に悲しいことだとか、不幸なことだとか、そんな悲観的にとらえたことはないが、自然と平和島の表情は苦虫を噛みつぶしたようなそれになる。いつだって自分と誰かの間には詰めようのない距離が存在することを平和島は理解している。折原は平和島が言葉を返さない理由も、返せない理由もすべてわかっていると言いたげに目を細め、軽く肩を震わせた。はははっ、と軽い声が空にとける。 「そっか、知らないよね。そうだよね。知らなくても、しょうがないよね。だってしずちゃんだもんね。その身体一つで自販機持ち上げちゃったり、片手で標識抜いちゃうような、しかもそれを人に向かって投げつけるような、暴力の塊のしずちゃん。そんなしずちゃんがこんな素晴らしい感覚、知ってるわけないか。だって、そんな人いないもの。しずちゃんを抱きしめてくれる人なんて。ましてや、その腕で抱きしめさせてくれる人なんて!だってそんなの、殺してくださいって言ってるようなもんだもんね」 余りな言い草だったが平和島には言い返す言葉が見つからなかった。悔しいほどに折原の言葉は正しくて、星を指していて、何をどう返せばいいのかがまるでわからず、平和島は沈黙し続けざるを得ない。折原はそんな平和島を見てクスクスクスと笑う。同じ笑みなのに、男を抱きしめていたときとはまるで違う、愉快で仕方ないと隠さない、冷たい笑み。 (―――クソッ) イライラした。折原の声も、折原の笑みも、そしてなによりも、折原の言葉と表情に揺らいでいる、自分自身に苛立った。ざわざわと胸が騒いで、何かを吐きだしたくてたまらない。だが、それをうまく吐きだす術を平和島は知らない。 「可哀想なしずちゃん」 ふと止む笑い声。憐れむような声色とは逆に、折原はまだ笑っていた。そうして、ねぇ、シズちゃん、と折原の薄く形の良い唇が、恐ろしいほど柔らかな音を紡ぐ。それは、平和島の鼓膜を通して脳を揺らし、平和島の中の何かを刺激する。 「俺が抱きしめてあげようか……?」 それは予想だにしなかった言葉だった。自身でも気がつかずはっと息をのむ。一体何を言ってやがる。そう言い返そうとして上手く音に出来なかった。一瞬、青年を抱きしめ、青年に抱き締められる折原の姿が脳裏にフラッシュバックする。 「あぁ、それとも――抱きしめさせてあげようか……?」 ―――ほら。 そう言って折原は平和島に向かって両手を軽く広げて見せた。おいでと、まるで誘うようなそれを、平和島はうまく思考できない頭のまま、見つめ続けた。何を馬鹿なことを、と思う。自分が折原を抱きしめるなんてそんなこと、会話するだけでも友好的にできたことなどないのに、ついさっきの会話でだけでも何度も殴り飛ばしたいと思ったのに、それなのに、あり得ないと、平和島は確かにそう思った。 頭の片隅で今にもナイフを振り上げる折原の姿を思い浮かべる。それは平和島の肌をほんの少し傷つけて、まっさらな刃に微かな血をつける。頭の裏側で何かが切れる音がして、拳を振るう。そんな自分を平和島は想像した。それなのに、それなのに、だ。不思議と平和島の足はゆっくりと吸い込まれるようにして折原のもとへと緩徐に近づいた。折原は逃げることも引くこともなく、ましてや攻撃してくることもなくそこに立っていた。じっ、と見上げてくる顔の角度に、以前から当たり前のように知っていたのに、改めて己との差を感じる。 無表情に限りなく近い微笑。己を見上げる紅い目は哂っているのか、睨んでいるのか、判断がつかない。一体何を考えているのか。まるでわからなかった。折原が何を考えているかなど、平和島には理解できたことなど一度もない。だから、平和島は折原が嫌いだ。幾度、人を食ったようなその顔を殴り飛ばして、その真っ黒な腹のうちに隠してある本性を引きずり出してやりたいと思ったことか。平和島はぎりぎりと拳を握る。この距離なら、確実に平和島の拳は折原の頬をとらえるだろう。折原がナイフを振り上げるよりも早く、確実に、白く傷一つないその頬を殴れる。 しかし、気がついた時には平和島の拳からは力が抜け、手はゆっくりと折原の方へと伸ばされていった。恐る恐ると言ったそれは最初に黒髪の毛先を触れ、頬を素通りし、折原の後ろ首に触れた。その瞬間、折原の身体がピクリと動くが、やはり逃げることはない。それを確認してから平和島はもう一方の腕で折原の腰に触れ、そのままゆっくりと抱きしめた。 ゼロになる距離。自分よりもはるかに細いそれは、いかにも脆く弱そうなのに、けれど、じんわりと確かに暖かく、首に触れた手の平に伝わる脈打つ鼓動が小さく力強い。平和島は薄っぺらい肩に額をのせる。鼻腔をくすぐる微かな香りは決して不愉快なものではなく、いつもは遠い折原の呼吸がすぐ近くに聞こえた。密着した身体から、更に確かな温度を感じ、こんなにも人の身体は暖かかったのかと、いつも手にする無生物との違いに、今更のように気がつき、そして驚いた。 平和島は無言のまま、折原の身体を抱きしめ続ける。呼吸が重なって、鼓動が同調し、体温が混じりあう。それは実際、折原の言うとおりだったが、これが素晴らしいことなのかは平和島にはいまいちまだよくわからなかった。でも、例えば、そう例えば、自分を誘った折原の腕が背に回らない事実が、何故か少し、ほんの少しさびしいような、そんな錯覚が陥るほどには、本当にそれは暖かかった。あの名前も知らぬ男がやけに憎く思えてしょうがなく、それを打ち消すようにして平和島は腕の中の温もりをひたすらに抱きしめた。 |
君と僕の境界線 |