無残にひしゃげたドアノブを見て、折原はため息をつき、必要のなくなった鍵を手の平からポケットへ滑らせ、ドアノブに手をかけた。引くとギィギィと耳障りな音がしてドアが開く。家中を覗くと、リビングに続く廊下に男のものであろう靴跡が転々と残っている。土足。折原は先ほどよりも長いため息をついた。自身はきっちりと靴を脱ぎ、来客用のスリッパを履いてリビングに向かう。背後で扉が、やはりギィギィと耳障りな音をたてて閉まった。扉が外れてないだけましか…。そんなことを思ってしまう自分は大分あの男に毒されている。冗談じゃない。折原は苛立たしげに舌打ちをした。

 リビングに近づくにつれて、折原は違和感を感じた。妙な雰囲気、誰かがいる気配。男の姿を思い浮かべて、折原は首をひねる。何かが違う。何が、というわけではない。けれど、何かが違う。そんな感覚がする。
 警戒を胸に抱いて、折原は歩みを進めた。リビングに足を踏み入れ、刹那、折原は彼にしては珍しく眼を大きく見開き驚きの表情を露わすると、その場で固まった。それはなぜなのか理由は。リビングのど真ん中。そこに折原の身長の倍近くはあるであろう全長をした虎が太い尾でパタパタと床を叩いている。毛色は金色がかったアンバー。所々黒い模様があり、腹のあたりは雲のような白。動物園やテレビでよく見かけるであろう普通の虎。それが何故か、自宅のリビングに、いる。
(……え、何このシュールな光景…)
 あまりの光景に折原は立ち尽くした。呆然と思考が固まる。その一方で、本能で身体が無意識に震えた。視線の先、ふと虎の頭が動く。まずい…。そうは思ったがどうすることもできず、折原は虎が自身の前足から顎を上げる様を黙って眺める他なかった。
 虎の耳がピクリと動いて、次いで、虎の顔が折原の方を向いた。ばちり、と、そんな音が聞こえてきそうなほど真っ直ぐに折原の視線と虎の視線がぶつかる。その間には、動物園にあるような柵も溝も強化ガラスも何もない。すぐ目の前、緩慢な動きで虎が起き上がった。途端に、ぐっと威圧感が増し、折原は手の平を強く握った。
 虎がゆっくりと折原に向かってその脚を動かす。その姿に折原の足は意図せずじりじりと後ずさった。袖にひそませたナイフの冷たさに触れながら、それを構えるべきかどうか迷う。敵うはずなどないとわかっているのに。それほど、折原の頭は混乱していた。同時にそれは事態の異常さをあらわす。当たり前だ。帰宅したリビングの先に虎が居座っていたなど、一体どこの誰が予想できようか。少なくとも、予測することを得意とする折原の頭は足の小指の甘皮ほどだってそんな事態予想していない。
 極度の緊張状態。息をするのでさえ、苦しかった。左足を引き下げようとつま先に力を入れて、しかし不覚にも折原はフローリングの床に足を滑らせた。わっ、と反射的に口を継いで出る声。どん、と鈍い音。うまく受け身が取れず背中が痛んだが気にしている暇などなかった。
 身体を起こそうと慌てて肘をつく。だが、折原が上体を起こすよりも早く、いつの間に距離を詰めた虎の身体が折原の上に覆いかぶさった。腰のすぐ両脇に太い前足が置かれ、獰猛な虎の眼が折原を見降ろす。折原は、ひゅっ、と息をのんだ。叫び声をあげなかった自分を褒めたくなったが、とてもじゃないがそんな余裕などない。ばくばくばく、と心臓の鼓動がやけに煩く聞こえた。こんなこと初めてだ。パルクールに失敗して三階の高さから落下した時も、怖い顔のヤがつくような男たちに初めて囲まれた時も、折原の心臓がこんな音を立てたことなどなかった。
 瞬間的にどっと湧いた冷や汗がこめかみを伝う。虎の鼻先が近づき、思わず折原は反射的に、ぎゅっ、と強く目を瞑った。首筋に鋭い牙が埋まるのを想像して、肌が総毛立つのを感じた。こんな最期をやはり一体どこの誰が予想できただろうか。誰かに問いかけたかったが、答えをくれる人などいるはずがなかった。

 唐突に首筋に冷たい感触が触れた。びくっ、と肩を揺らしたが折原は目をつぶったまま動けなかった。獣の呼吸音がすぐ近くで聞こえる。その後ろで、カチカチと時計の秒針の音が聞こえた。ともすれば強く震えてしまいそうな身体を、その音を数えることでごまかす。1、2、3、4……。それが二桁台に入り始めたところで折原は違和感を覚える。いくら経っても、牙が喉元に食い込む感触がしない。それどころか、ほんの少しの痛みだって感じない。
 そっ、と目を開けてみると、白と黒、そしてアンバーが混じった虎の頭が見えた。次いで、冷たい感触が虎の鼻先だという事に気がついた。虎は折原の首筋に鼻先を押しつけるようにして触れていた。ぐいぐいと何かを促すような動きに呆気にとられながらと目を向けると、気がついた虎が折原をじっと見た。
 折原は黙ってその眼を見返した。毛並みと同じ、アンバー色の眼。真ん中にぽつりと浮かぶ黒が力強く、ふと妙な既視感を覚えた。真っ直ぐ射抜く視線。壊された玄関の扉。そこで折原はいるであろうと思っていた男がいないことに気がつく。ぼんやりと脳裏に男の姿が浮かぶ。自分を睨む目、化け物じみた馬鹿力、白と黒の服に、そしてアンバーの混じった……金髪。
 はっ、と息を吐こうとして喉が引きつった。まさか、そんなはずない。あるわけがない。けど、もしかして……。冷や汗とは違う汗が首筋を伝うのを感じた。
「―――し、ずちゃん……?」
 思わずつぶやくと、目の前の獣が眼を細めてぐるると低く鳴いた。


【しずちゃんが虎になった】
 自分で打っておきながらあんまりな文章だなと思ったが、折原は気にせず送信ボタンを押した。返事はあまり期待していなかった。気休めみたいなものだ。しかし、そのすぐ後、携帯電話は着信の音をたてた。見ると、ディスプレイ画面に岸谷の名前が浮かんでいる。随分早い返信だなとメールを開くと、送った文章と同等の短さで返事は書かれていた。
【性的な意味で?】
 ……少し考えて、“死ね”とだけ送り返す。送信しましたの文字を見届けてから、折原はふぅと小さく息をつき、携帯電話を置いた。顔を上げると、真正面に虎が座っている。本当になんとシュールな光景だろうか。
「……あのさ、もっかい聞くけど、本当にしずちゃん?」
 尋ねると虎はぐるると鳴いた。ついでに、尾がいささか強く床を叩く。しつこいと苛立っているようなその反応に、あぁ、確かにこの虎はしずちゃんだな、なんて納得してしまう。どうしてそうなってしまったのか。それは早々考えないようにしている。考えたところで、答えを導き出せる気がしなかった。相変わらず、己の予想の内に留まろうとしない忌々しい存在だ。しかし今はそれ以上に、純粋な好奇心が勝った。
 折原はソファから立ち上がると、ゆっくりと平和島へと近づく。座っている状態だと言うのに、折原と頭の位置があまり変わらないそれは、見れば見るほど虎以外のなにものでもない。じっとこちらを見つめる獰猛な獣の眼。音を立てると微かに反応して動く大きな耳。柔らかな鬣が生えた首筋。隆々とした筋肉に覆われた胴体。がっしりとした前足はそれだけで折原の脚の太さを優に凌駕している。
 背後に回ると、黒とアンバーが均等に交互した尾が不規則に床を叩いていた。目や耳、手足はともかく、存在していなかったはずの尾があるというのはどんな感覚だろうか。尾に手を伸ばして触れてみる。……噛まれるかな。そう思ったが、実際に牙を剥かれることはなかった。
「……つーかさぁ、」
 尾を手の中で遊ばせながらつぶやく。力を込めずにぎゅっと握るとぎりぎり人差し指と親指の先が触れた。すると、平和島の耳がぴくっと動く。
「俺にどうしろって言うの…」
 虎になった人間の戻し方など、知らない。



***


「あー、ダメだ」
 疲れたぁ、と折原は椅子に背中を預けると、そのままぐっと身体を伸ばしたのち、脱力した。あれから独自の情報網やネットを駆使し、平和島の状態を調べているのだが、出てくるのはどれも神話や伝説の類ばかりで確かな情報などどこにも見つからなかった。
 ましてや虎になった人間の元の戻し方など見つかるはずもなく、早々に行き詰まり、折原はため息をつく。時計を見ると、いつの間にか結構な時間がたっていることに気がついた。ディスプレイを見つめ続けた目が酷く痛んで、目頭を抑える。
(一旦、休憩しよう……)
 椅子から立ち上がろうとして、視界の隅に虎の姿が映る。平和島は折原が情報を集めている間、初めこそはうろうろとくリビングを歩き回っていたのだが、その姿を鬱陶しく感じた折原が文句を言うと、珍しく殊勝とした様子でデスクのすぐそばで寝そべり、そのままじっとしていた。
 ソファに横になる。そこそこの値段がするソファは疲労に満ちた身体を受けて柔らかく沈んだ。その感覚にもう一度ぐっと大きく身体を伸ばしていると、平和島がそろそろと寄って来て、すぐそばに寝そべった。
 アンバーの眼が折原を見上げる。折原はそれを横目で眺めた。アンバーのずっと奥に位置する思考を読み取ろうとして、しかしすぐに止めた。獣に姿を変えてからも折原には平和島が何を考えているのか、相変わらず理解できないでいた。むしろ、虎になって一層、何を考えているのか分からなくなった。獣の顔は表情が読めず、声から感情を察するのも難しい。

 そもそも、なぜ平和島は自分のところに来たのだろうか。折原は不思議でならなかった。どうせ行くならなら岸谷のところにでも行けばいいのに。闇とは言え医者だ。人外の彼女もいる。少なくとも、折原が平和島の立場だったなら、そうするだろう。平和島だって、その方が賢明だと言うことは解かっているはずだ。本能で生きる男ではあるが、その程度の知恵はある。
 それなのに、彼はいまここにいる。天敵であるはずの、この自分の眼の前に。何故。尋ねてみようにも、今の平和島は言葉を持たない。使われる気配のない大きな牙を持つ口は空気を僅かに震わせる低い獣の声を吐き出すばかりだ。首なしの彼女のように文字を打たせようにも、今の平和島の腕はそれすらも不可能だった。本当に、この男はどこまでも自分の手を煩わせる。
(忌々しいなぁ…)
 思いながら、折原は平和島へと手を伸ばし、自分の手の平よりも広い額に触れてみた。さわり、とした感触に毛並みに沿うようにしてそっと撫でてみると、平和島は目を細めた。ぐるぐると低く鳴くそれは不機嫌そうに聞こえたが、振り払うような仕草はない。大人しく折原の好きなようにさせている。その様子にほんの少しの不気味さを感じないでもなかったが、指先に伝わる毛並みの感触は純粋に心地よく、折原は平和島と同じように少し目を細めた。
 ソファから立って折原は平和島の腹の辺りに腰をおろす。そしてそのまま、斜め後ろからその太い首筋に腕をまわして抱きついた。ふわりと柔らかい感触が、手の平だけではなく、衣服を通し全身で感じられた。鬣に頬を埋める。そっと息を吸ってみると嗅ぎなれない獣の匂いがして、抱きついている虎が平和島であることをほんの一瞬、忘れる。
 もしかしたら、実際にこの虎は平和島ではないのかもしれない。徐々に徐々に獣の意識が平和島の意識を押しのけて、本物の獣になってしまっているのではないか。そんなバカなことを考えてみる。
「しずちゃん、このまま戻らないのかぁ……」
 ぽつりと呟く。
 もしそうだとしたらどうなるのだろうか。折原は眼を伏せ、虎の姿である平和島が池袋を闊歩し、今まで以上に周りに恐れられるであろう様子を想像してみた。しかし、うまく想像しきることは出来なかった。あまりにも現実味がなさ過ぎてよくわからない。
 そもそも自分は平和島に元の姿に戻ってほしいのか、戻ってほしくないのか。それすらも折原はよくわからないでいた。こんなに疲労までして情報を集めているのはただ単に知的好奇心を満たしたいからなのか、それとも平和島のためなのか。後者などあり得ないと理解しつつ、断定できないでもいた。ただ、ふわふわとした曖昧な感覚だけが、胸の奥にぽつりと浮かんでいる。
 きっと、異常な状況に頭がついていかないのだろうと折原は思う。腹立たしいが、致し方ない。一般的ではないと自覚しているが、それでも折原は普通の人間だ。予期せぬことが起きれば動揺するし、不可解な事態が起これば懸念も抱く。天敵とは言え、知り合いの人間が獣などに姿を変えれば、本調子が出ないのも無理はない。気持ちが落ち着かないのも、そのせいだ。少なくとも、折原は自身の状態をそう論断した。加えて、平和島の様子がやけに大人しいのもそのせいだろうと推断する。

 折原は小さくため息をつく。疲労からか、先ほどから目の奥がちかちかとした。ぎゅっ、と眉間にしわを寄せて、眩暈にも似たそれをやり過ごそうとして、ふいに腿を何かが叩いた。目をやると、それは平和島の尾だった。ぱた、ぱた、ぱたと一定のリズムで、繰り返し叩いてくる。意図が分からず平和島へと顔をやるが、平和島ははそっぽを向いており、目が合うことはない。
「……しずちゃん、痛い」
本当は別に痛くもなんともなかったが、小さく文句を言えば、尾は最後に一度だけぱたりと腿を叩き動かなくなった。それを一瞥してから、折原は目を閉じた。そうすると頬を預けた暖かな身体から鼓動の音が聞こえた。
 平和島が呼吸するたびに、身体が穏やかな動きで上下する。それはまるで揺り籠にでもゆられているようで、眩暈の代わりに浮遊感にも似た心地のいい眠気がじわりじわりと折原の意識を包み込む。このまま寝てしまうか……。そう思った時にはもう、折原の意識は緩やかに溶けていった。



***


 深い水底から静かに息をしていた意識が、温もりに引っ張られるようにして水面へとゆっくり浮かび上がる。緩慢な動作で瞼を開けると、窓から差し込む日差しが眩しく、折原は一度、二度、瞬きをしてから、少し目を伏せた。
 意識がまだ半分ほどまどろみの中に浸かっている。欠伸が出て、目尻に生理的な涙がにじんだ。それを拭おうと手を伸ばしかけて、それがうまくできないことに気がついた。なにかが、自分の身体を束縛していた。何だろうと考えて、すぐにそれが人の腕であることを、ぼんやりとした意識のまま把握する。

 目を開くと、黒い何かが視界に映った。首をかしげつつ、視線をずらすと、散々見慣れてしまった顔が見えた。いつもかけているサングラスがなく、直にさらされた瞼が無防備に伏せられている。どうやら眠っているらしい。
 折原は、ぼうっとその顔を見て、また少し首をかしげた。何故しずちゃんが…。考えようとして、いまだまどろみに片足を突っ込んだままの思考はうまく回転しなかった。ただ、本能的に腕の束縛から逃れようと身をよじる。すると、頭上から低い唸り声が聞こえた。その声に顔を上げようとして、ぐっと身体を引かれた。そこで初めて折原は、自分が平和島の胸に頭を預けるようにして抱きしめられていることに気がついた。
「し、ず…ちゃん?」
 無意味に名前を呼んでみると、寝起きの声は掠れて小さかった。しかし、平和島の耳にはちゃんと届いたらしい。
「……ぅ、るせぇ、………まだ、寝てろ……」
 腕がより一層強く、平和島の身体を抱いた。だが、痛みは感じなかった。ただ触れた個所から平和島の体温が伝わって、思わず欠伸が漏れた。新たに浮かんだ涙が、拭えなかった涙と混じって頬を流れ、そのまま折原の頭を抱き抱える腕に落ちて白いシャツにじわりと滲んだ。
「……ねよう」
 急に何もかもが億劫に感じて折原は平和島の言葉に従うようにして目を閉じた。無意識に温もりの方へと身を寄せると大きな手の平が背中を撫ぜる。その心地よさにそっと息を吸うと、あの時のような獣のにおいではなく、妙に嗅ぎなれてしまった煙草のにおいがした気がした。あぁ、しずちゃんのにおいだなぁ、なんて最高に気持ちの悪いことを思いながら、折原の意識は再び穏やかなまどろみへと包まれた。
眠る獣