風が強い夜のことだったと、よく覚えている。 肌寒い風に交じって鼻をくすぐるその臭いに、反射的に足を止めた。それは常人では気がつかずに通り過ぎてしまうようなほんの僅かな臭いだったが、職業柄か、その手の臭いに敏感になった四木の鼻は正確にその臭いを嗅ぎ取った。鉄と若干の生臭さが混じった独特の血の臭い。 四木は短く息を吐いた。どうするか……。声に出さず呟いてみて、目を伏せる。意味のない問答だとわかっていた。どうするかなんて、本当は考えるまでもなく決まっている。 星が点々と輝く夜空の下を弱い血の臭いだけを頼りに足を進める。四木のほかに人影はなく、辺りに誰かがいるような気配もなかった。しかし、時間にしてほんの数分にも満たないほど歩き進めた先、ちかちかと不定期に明滅する街灯の下に、それによりかかるようにしてうずくまっている人間の姿を見つけた。 四木は一旦立ち止まる。人間の顔は俯いていてよく見えない。体格や黒の学ランを着用しているところを見ると、まだ十代前半の少年だろう。ぐったりとしているそれは、街灯の光がなければただの黒い塊にも見える。 四木はゆっくりとその少年へと近づいた。服の所々が血で滲んでいるのを目に収めながら、こつ……、とわざと足音を響かせてすぐ傍で立ち止まると少年の肩が僅かに揺れた。 「おい、生きてるか……」 声をかけると少年はゆるゆると顔を上げる。闇にとけるような黒髪から覗く肌が暗がりに白くぼんやりと浮き上がり、不思議な色をした紅い双眸が四木を見上げて三日月を思わせる形に細まった。 「……生きて、ますよ」 「……そうか。そりゃ何よりだ」 まったくですと少年はまだ幼さの残る、それでいてやけに大人びた声色でクスクスと笑った。恐ろしいほど整った顔をした少年だった。子供であることに変わりはないが、成長途中の幼さの中に完成しつくされた美しさが見え隠れし、その妙なアンバランスさが酷く眼を引く。こめかみに血が滲んでいなければ、よく出来た人形のように見えたことだろう。 「警察を呼んだほうがいいか?それとも救急車が先か?」 少年は目を瞬いた。少し首をかしげて、しかしすぐに目を細め微笑した。 「いえ、結構ですよ」 「……そうか」 頷けば、少年は微笑を浮かべたまま、はいと答え口をつぐんだ。四木はそんな少年を、その場から立ち去ることなく見下ろした。そうしてよく見ると少年の額にはうっすらと汗が浮かんでいることに気がついた。思いのほか、軽傷ではないらしい。笑っているかのように細まる眼は、同時に痛みを誤魔化す意味を持っていたのだろう。四木は誰か呼ぶか?ともう一度尋ねた。しかし少年は変わらず、結構ですよと笑って答えた。 少しの沈黙。そののちに四木は、はぁ、とため息にも似た息を吐くと、少年に手を伸ばした。胸を張って誇れるような良人のつもりなど毛頭ないが、かといって、怪我をしてうずくまっている子供を捨てておくほど冷血漢なつもりもなかった。もちろん、時と場合によれば子供相手にも容赦するつもりはない。が、今はその“時と場合”からは大きく外れている。 骨の感触が目立つ細い腕を掴む。少年は身を固くしたが、そのまま構わずに力を込めて引けば薄っぺらな身体はあっさりと引き上げられた。痛みからか、少年の顔が歪んだ。紅い目がなんなんだと無言で問いかける。そこに戸惑いの色はあれど怯えの色はない。大した餓鬼だと胸の内で呟く。 「来い」 「――いッ」 更に腕を軽くひくと、少年は素直に足を一歩踏み出した。しかしその直後、小さく呻いた。見ると少年は足首に手を押さえるようにしてうずくまっている。痛めているのか、尋ねると言葉ではなく沈黙が返ってきた。 ……仕方がない。四木は軽く息をつくと少年の腕を離した。代わりにその華奢な身体に腕をまわし、そのまま肩に担ぎあげるようにして持ち上げた。これにはさすがに驚いたのか、え、ちょっ、と少年はうろたえたように声を上げた。しかし四木がそれを気にするようなことはなかった。 「大人しくしてろ」 「い、ッた……!」 ぞんざいに少年の身体をソファに投げおろすと、すぐに少年は足首を押さえてまるくなった。ふるふると震える肩を一瞥してから、四木は少年に背を向け部屋を出る。少しして、若干の埃をかぶった救急箱を片手に戻ると、少年は少々の不機嫌と警戒を織り交ぜた顔で四木を見た。 怪我をしている方の足を無造作に取ると少年は小さく息をのんだが、声を漏らすようなことはしなかった。裾をたくしあげると青黒く変色した踝があらわになる。痛みを与えない程度に触れるとじんわりとした熱が伝わった。医者ではないが、一般人よりかは怪我には慣れている。見た目は酷いが、骨は折れていないようだった。しかしかなり酷く挫いたのだろう、最悪、罅ぐらいははいっているかもしれない。四木は黙々と手当てを続けた。 「……どういうつもりで?」 相変わらず、幼さの残る子供らしからぬ声で、少年が問う。四木は少年に少し視線をやった。 「さぁな……」 静かに答えれば、少年は更に眉間にしわを寄せ四木を睨む。美しさばかりが目立つ迫力のない顔。四木は素知らぬ顔で少年の足首にだけ集中した。触れるたび、痛みの声は我慢するくせに、ぴくりと反応する仕草がやけに子供っぽくて少し可笑しかった。 一通り手当てを終えると四木は救急箱を元の場所に戻してから、煙草を吸おうと胸ポケットに手を伸ばした。そこでジャケットの肩から腕にかけての部分が少年の血で汚れていることに気がついた。色の濃いジャケットだったのであまり目立ちはしないが、そのままにしておくわけにはいかないだろう。四木は煙草とライターを取り出してからジャケットを脱ぎすてた。 煙草に火をつけ、一息吐く。その間、こちらの動きを随時うかがうような鋭い視線がずっと背中に突き刺さり続けたが、暫くして無意味と悟ったのか、ごそごそと身をよじる音がしてから、刺さる気配が消えた。煙草を吸い終えてからソファの方へと目をやると、少年はこちらに背を向けるようにして丸まっていた。 規則的に上下する肩。近づくと、少年は静かに寝息を立てていた。警察も救急車も警戒していた割には、やけに無防備だと思ったが、ふと見ると、白かった頬が若干赤かった。傷の熱に引きずられたのだろう。濡れタオルを用意した方がいいかと少し考えて、しかし結局止めた。流石にそれはお節介が過ぎる。そう思った。かなり今更な話だが。 翌日。寝室を出て一番にソファに眼をやったが、そこにあの少年の姿はなかった。それともう一つ、すぐそばに落としたはずのジャケットがなくなっていた。まるで初めから怪我をした少年など拾っていなかったような、そんな錯覚に陥るほどに、そこには何の形跡も残されてはいなかった。だが、それは所詮、錯覚にすぎなかったのだと四木が実感するのは、それから十日ほどの日数が過ぎ去った日のことだ。 「こんばんは」 あの日と同じ街灯の下で少年はしゃがみこんでいた。灰色の紙袋を腕に抱き退屈そうに夜空を眺めて、四木の姿に気がつくとソファの上で警戒をにじませていた顔が嘘みたいな笑みを浮かべ立ちあがった。大きな絆創膏を貼ってやったこめかみは何もなかったように白い肌を晒している。その代り、丸みを残した柔い肌に擦ったような赤い跡があった。 「これ、返しに来ました」 そう言って少年は持っていた紙袋は差し出した。何だ?と目だけで問いかけると、少年は生意気にもそれを正確に読み取り、汚したジャケットです、と首を傾けながら言った。そんなことわざわざしなくてもいいと思ったが、まぁ、それこそわざわざ口に出して言う必要はないだろう。 四木は素直に差し出された紙袋を受け取った。その際、差し出す少年の手の甲に頬と同じ擦り傷があることに気がついた。いつ負ったのかは知らないが、手当てもされずに放っておかれたそれは若干変色している。少年の紅い眼とは似ても似つかない薄汚れた赤茶色。似合わない色だと思った。 四木は空いた片手で少年の頬に手を伸ばした。肩を揺らした少年を気にせず赤茶色を親指の腹でぐっと拭うと傷口から真新しい赤色が浮かび出る。じわじわとにじみ出る鮮やかな色。それは少年の双眸とよく似ていた。だが、やがてその赤色も拭ったそれと同じようにくすんだ赤茶色へと姿を変えるだろう。 四木は指についた汚れを見て、それから少年を見た。 「来い」 返事を聞かずに背を向ける。少年が素直についてくる確信などなかったが、あの日のように腕を取るようなことはしなかった。 足を進めてから少しして、背中に気配がついてくるのを感じた。ひっそりとした静かな気配。それを振り返って確認するような真似などしない。足を酷く痛めていたはずだが、聞こえる足音は規則的で、途中で乱れることもなければ途切れることもなかった。 黙ったまま歩みを進め、二つの角を曲がる。マンションのエントランスを通って、エレベーターに乗り込む。目的の階を押して、そこでようやく四木は少年の姿を視認し、少年がエレベーターに乗ったのを確認してから“閉”のボタンを押した。 「そこ、座ってろ」 ソファを指さすと少年は無言で頷き、そろそろと近づいて大人しく座った。四木は埃の被っていない救急箱を手にしてから、少年の隣りに腰かける。手の甲を差し出すように告げると、真っ白な指先が向けられた。先ほどは気がつかなかったが、人差し指と中指の爪先が割れていた。 消毒液をしみこませた脱脂綿を無造作に傷口へ当てると、少年は器用に右目だけを細めた。声は出なかったが、一瞬震える肩はあの日と一緒だった。絆創膏では覆いきれない傷にガーゼを当てて、テープを貼る。赤茶色を完全に隠したそれは同時に少年の手の甲と片頬をほぼ丸々と覆った。 「他に怪我は……?」 問いかけると少年は甲に傷がない方の手を差し出して袖をめくった。晒された手首は赤紫色で、擦り傷とは比べ物にならないほど濃い色をしていた。あの日の足首といい、どうしたらこの短期間でこんな酷い色をした怪我を中学生とも高校生ともわからない子供が負うことができるのだろうかと、その時になって初めて四木は疑問に思った。 しかし、四木はやはりその原因を少年に訊くようなことはしなかった。ただ黙って、目が痛くなるような赤紫を白い色で覆い巻いてやった。 手当てを終えても、少年はあの日のように寝入ることはなかった。ただ、ソファに座ったままぼんやりと目を伏せている。眠る気配も、帰る気配もなかった。四木は何も言わず、少年の好きにさせた。 |
猫を拾った話 |