猫のような子供だ。磨けばどんな血統書つきの猫よりも美しく輝くだろうに、頬に血をにじませてきゅっと目を細める仕草は野性の本能を忘れない野良猫を思わせる。それでいて、無防備に寝顔を晒してソファで丸くなる姿は警戒心の薄い飼い猫に似ていて、まとう雰囲気のギャップに目を向けずにはいられなくなる。 「猫」 初めて子供をそう呼んだ時、子供はあどけない疑問の表情を浮かべたが、すぐにその意味を理解して微笑した。口端に絆創膏が貼ってあったが、優美というには十分な笑みだった。随分前から定位置となったソファで膝を抱きながら、ぐるぐると喉を鳴らすような声で、なんですか?と言って首をかしげる。 「珈琲でいいか」 問いかけはしたが、初めからそれ以外は淹れてやるつもりなどなかった。珈琲はあくまで自身の分のついでで、わざわざ子供のためだけの飲み物を四木は用意しない。その必要などないと思うし、子供もそれを要求したりなどしなかった。子供はただ、四木の問いかけに高さの残る子供特有の声で、お願いします、控え目に頷く。それを確認してから、四木は手元に視線を移した。このやり取りをした回数はいつの間にか二桁目に入っていた。 子供はあれから何度となく四木の前に姿を現した。白い肌に何かしらの色をつけて、初めて対面した時と同じ笑みと声で、こんばんわと笑う。音のない夜空の下で子供の声は耳によく通るが、四木がその声に対して明確な言葉を返すことは少ない。ただその存在を認識するように足を止め、子供の肌を鮮やかに彩る色に眼をやってから、再び歩みを進める。 子供は決まってその背中をついてきた。いつかの夜のように二つの角を曲がって、マンションのエントランスを通り、エレベーターに乗り込む子供の姿を視認してから、“閉”のボタンを押す。丁寧に迎え入れてやる義理などないが、逆に言ってしまえば、特別追い返す理由もない。 四木は気まぐれに少年を家に上げ続けた。気まぐれに怪我の手当てをしてやって、気まぐれに珈琲を淹れてやって、気まぐれにソファの上で丸くなることを許した。 「ありがとうございます」 珈琲がなみなみと注がれたマグカップを渡すと、子供は両手でそれを受け取った。子供の味覚にはまだ苦いだけであろうそれを表情を変えずに口にする姿は生意気以外のなにものでもないが、ちびちびと咀嚼する様はやけに小動物じみていて笑みを誘った。 自身も珈琲を一口すすって人一人分の距離をあけて隣に座る。テレビをつけようと机に視線を巡らせると、ふいに横から五本中四本を絆創膏で覆った細い指がリモコンを差し出してきた。目をやると、指の主は相変わらずちびちびと珈琲をすすっており、特徴的な紅はぼんやりと曖昧に目の前の空間を眺めていたが、四木の視線に気がつくとゆっくりと顔を上げた。四木を見て、手元を見て、そして再び四木を見てから、ことりと首をかしげる。 「違いました……?」 「……いや」 ゆるく首を横に振って、四木は子供からリモコンを受け取った。そのまま黙ってテレビをつけると、ニュースキャスターの淡々とした声がここ一週間ほどで起きた事件事故を連ねる。窃盗、傷害、殺人、交通事故、詐欺、小火。四木にしてみればいつも変わり映えしない退屈な出来事のように思えたが、隣りの子供はどこか興味深そうな面持ちでテレビ画面をじっと見つめていた。 変わった子供だと四木は思う。同時に、察しの良い子供だとも思う。呼び名の通り、猫のように自由奔放で自分勝手なのに、不思議とこちらの領域を無遠慮に踏み荒らすことはない。好奇心の強い幼子を思わせるような態度で興味心身に身を寄せるくせに、まるで成熟した大人のような仕草で引くべきところでは引いて適度に距離を取るのがうまい。意識して振るまっているのか、それとも無意識に本能で感じ取っているのか判断できないが、いちいち踏み入るなと警告しなくてすむ関係は酷く楽で、心地いいとさえ思える。少なくとも、リビングで好きに振る舞うのを許すくらいには四木は子供の存在を受け入れていた。 目を離したすきに何かしでかすのではないだろうかとは思わない。この子供が何を思っているのか、そんなこと考えたことも理解したいと思ったこともないが、子供が自分を相手にそんな愚かしい真似をしでかす馬鹿野郎でないことぐらいは理解しているつもりだ。現に、四木が眼を離した隙に子供が愚かしい行動をとったことなど一度としてない。行儀のいい猫のようにソファの上に乗り上げているだけだ。 珈琲を飲み終えて、ソファから立ち上がる。空になったカップをシンクに放ってから、適当にシャワーを済ませ寝室に向かった。その際、子供を振り返って見たが、子供はすでに空になっているだろうマグカップを抱えたままテレビを見続けていた。動く気配のないその姿に、きっと今日もソファの上で丸くなって眠り、朝にはその姿を消しているのだろうと思ったが、四木は特に声をかけることなくいつものように背を向けた。いつの間にか、子供がそこにいることが日常の一つになってきていた。 眠っていた意識が、ふと暖かな気配を感じて浮上した。 ゆっくりと目を開くと、暗闇の中に見慣れ始めた白い肌が間近に見えた。珍しく、傷をこさえていないまっさらな頬。少し視線をずらすと、長い睫毛を施した瞼がぷくりと僅かな山を作ってその下にある紅を覆い隠している。小さく開かれた口元から申し訳程度の息が規則正しいリズムでこぼれて、子供が深く寝入っているのが知れた。 いつの間に忍び込んだのか、子供が己に身を寄せるようにして自身のベッドに横たわっているのを、覚醒したばかりの頭で認識した四木は軽く眼を瞬かせた。ゆっくりと息を吐いて、無意識のうちに子供を起こさないよう気を使っている自分に気がついて苦笑した。 なんとなく動物に触るようにして目の前の黒い髪に触れてみる。余計な手を加えられていないそれはさらさらと流れるようにして手のうちから滑り、子供の頬へと落ち着いた。耳の方へとかきあげてやれば、子供はくすぐったがる様に小さく身をよじる。その拍子に白い首筋があらわになって目を引いたが、細く幼いだけのそれにセクシュアルな想いを抱くようなことはない。 眠る子供はどこまでも純粋に子供らしくて、ゆえに、なぜ急に距離を詰めるような行動に出たのか、わからなかった。何か大人びた打算があってか、それとも、子供らしくただ単に人肌恋しくなっただけなのか。もしくは、もっと別の何か…。子供の寝顔を見つめたまま思案する。 「……ぅ、…ん」 すると、ふいに子供が小さく呻いて身体を丸め、温もりに身を寄せるようにして額が胸元に擦り寄せられた。害を与えられることなど微塵も思っていないような、ひたすらに無為で無防備な姿。例えば、ここで四木が悪意を持って子供を傷つけようとすれば、子供がそれを回避することは不可能に限りなく近いだろう。 そう考えてみて、四木は自身の中の何かが急速に沈下していくのを実感した。眠るだけの子供相手にあれこれ模索する自分が酷く滑稽に思えて声を殺して笑う。 結局、すぅすぅと安らかな寝息を立て続ける子供をベッドから追い出すような気にはどうしてもなれなくて、四木はベッドの端で眠る子供が落ちないようにと薄っぺらいだけの身体に腕を伸ばして抱きよせてやった。 らしくないと思う。いくら相手が子供とはいえ、素性のわからぬ者をここまで懐に許すなど、まったくもって自分らしくない。わかっていたが、それでも結局、腕の中の温もりを突き放すことなどできないのだから、随分とほだされてしまったものだと四木は小さくため息をついた。いつの日か、こうして子供と眠ることも日常の一つになるのだろうか。そんなことを思いながら、静かに目を閉じた。 |
気まぐれに任せて目を瞑る |