このマンションを訪れるのは当の昔に二桁台へと入っているというのに、呼び鈴を鳴らす指はいつも情けなく震えた。呼び鈴の表面に触れると無意識に指先が一瞬固まって、それを再度動かすには深く息を吸う必要がある。心臓がまるで全力疾走をした後のようにばくばくと鼓動して、逃げ出してしまいたいほどに呼吸が息苦しくなる。
 けれども、紀田の指が呼び鈴を鳴らさずに離れたことはただの一度としてなかった。ここに来るのはあくまでも紀田自身の意思であり、誰かに命令されたこともなければ、強制されたこともない。止めようと思えば、いつでも踵を返すことができる。
 しかし、だからこそ、紀田は怯む。強制されていたのなら、それのせいにしてさっさと呼び鈴を鳴らすことができただろうに、自身の意思でそれをするからこそ、怖気づいた指は惨めに震え続ける。きっと、この行為に慣れるなんてことはないのだろう。
 わかっていた。それでもきっと、自分がここを訪れなくなることもないのだろうということも全部、曖昧にだけれど、わかっていた。


 秀麗という言葉は、この男のためだけに用意されたのではないだろうかと、そんな錯覚を起させるような美しい微笑みで男はいつも紀田を迎え入れる。いらっしゃい、と決まって投げかけられる言葉はありきたりで、しかし、その声はどこまでも特別な音色をしていた。
「今日はどうしたの?」
「……これ、あんたがこの間調べるよう言ってたやつのまとめ」
 USBメモリを差し出すと、男はあぁ、と頷いた。
「なに?態々持ってきてくれたのかい?」
 返事はせずに、無言で頷いた。男は、じっと紀田を見つめた後、ありがとう、と一言言って差し出したそれを受け取った。呆気ないほどの幕引き。これで、紀田がこの場に留まり続ける理由はなくなった。ここでさっさと踵を返してしまえればいいのに、と紀田は思うが、せっかくだしお茶くらい淹れるよ、と言って目を細める男に紀田の頭が横に振られたことは片手で数えるほどしかなかった。

 華奢で繊細なカップが男の手によって目の前のテーブルに置かれた。おずおずと紀田は出されたカップに手を伸ばす。琥珀色をしたそれはどうやら紅茶のようで、ゆっくりと口にすると甘い香りがふわりと口内に広がったが、喉を通る頃には独特の苦みだけが舌に残った。それがまるで自分はまだまだ子供なのだと男に突きつけられているような気がして、被害妄想だとわかっていたが、衝動的に紀田は残りの紅茶を一気に喉奥へと流し込んだ。
 じわじわと舌を侵食する苦みを深く味わって、それを残すという選択肢を端から用意していない自身に気がつき、乱暴にカップを置いた。がしゃんと耳障りな音が鼓膜を叩いて、自身でたてたはずのその音に思わず身を固める。咄嗟に男へと視線をやったが、渡したばかりのデータを見ているのだろう、男はこちらのことなど意識してすらいない様子でパソコンと向き合っていた。
 細い指先がよどみない動きでキーボードの上をすべる様は男の容姿も相まって、まるで全てのお手本のように整って見える。紀田はすぐに視線をそらした。間に落ちる沈黙が重いと感じるのはきっと自分だけだと、わかりきっていたことに傷つくのはあまりにも馬鹿らしい。しかし、気がついたら片足は苛立ったように貧乏揺すりを繰り返していた。
 時計が時を刻む音が、キーボードをたたく音が、妙に耳障りで仕方がない。毎回そうだ。男と同じ空間にいて紀田が落ち着いていられることなどあり得ない。意味もなく目のやりどころに困って、己の指先を見つめた。苛立つとついつい噛んでしまう親指の爪が歪な形をしていて、酷く不格好だ。まるで今の自分そのものではないかと自嘲して、紀田はその歪な爪に噛みついた。子供っぽい仕草だと、わかってはいた。

「随分、イラついているみたいだね」
 男は唐突に話しかけてきた。どうかしたのかい?なんて言って、首を傾げる様は年の割にあどけないが、紀田からして見れば白々しいことこの上ない。きっと、先ほど紀田が視線をやったことも男はしっかりと気がついていたに違いない。紀田はそうとは見えないよう気をつけながら慌てて噛んでいた爪を遠ざけた。
「……別に、普段どおりですよ」
 下手糞な嘘をついてみる。無駄だとわかっていても、紀田は男を相手に本心を吐けない。
「そうは見えないけどなぁ」
「……仮にイラついていたとしても、あんたには関係ありません」
「ふぅん、そう?」
「そうですよ」
 冷たく返すと、そっか、と言って男は傾げた首をゆるりともたげた。そうして、嫌われてるねぇ俺、と囁くように呟いて、まぁわかっていたけど、と笑う。いつもそうだ。紀田の前で、男が笑みを絶やすことは極めて少ない。いくら紀田が辛辣な言葉を投げつけても、男はただ涼しい顔で肩をすくめるだけで、多少の反応の違いはあれど、男が本当の意味で紀田の言葉に反応することは皆無に等しい。
「まぁ、困ったことがあるなら、相談くらい乗ってあげるよ」
「……それだけは絶対に遠慮しておきます」
 紀田は男を睨みつけた。できるだけ険相に見えるようにと目に力を入れる。それなのに、男は容易くその紅を紀田に向けて、嫌われてるなぁと軽い口調で繰り返した。
「俺はこれでも君のこと、カワイイ弟のように思っているのになぁ」
 くすくすと男は笑みを深めた。出会った頃と一寸も変わらないムカつくほどに綺麗な笑み。紀田は再び男から視線をそらした。俺だって昔はあんたの事を。呟きそうになって強く手の平を握りこみ、代わりに嘘をつけとだけ吐き捨てて胸の内に広がる苦々しさに顔をしかめた。言葉で突き放しているのはいつも紀田の方なのに、こうして視線をそらすのもいつも紀田の方だ。

 本当のことを言うなら紀田だって、かつては男に対して妄信するまではいかなくとも、それなりの尊敬の想いを抱いていた。心の奥深くを見通す紅い双眸に小さな恐怖を覚える一方で、己の名を呼ぶ甘い声に耳を奪われ、白く緩やかに微笑む顔に見惚れた。ほっそりとした薄い手の平が優しく頭を撫でる感触が酷く心地よくて、兄という存在がいたならばそれはこんな感じなのだろうかと、そんな風にさえ思った。穏やかで優しい日々に、幸せに似た何かを感じていた。
 なんて愚かな錯覚だったのだろうかと、今ならわかる。男が紀田を弟のように思って接してくれたことなど、一度だってない。男が紀田に向ける好意は、男の言う愛しい愛しい人間に向けるそれと同じものばかりで、その中に、紀田個人に向けられた感情など、実際は男の整った爪先ほどだってなかった。
 それなのに男は言う。まるでそれが真実だとでもいうような音で、紀田を特別だと、弟のように思っていると嘘を言って、その甘い声で名前を呼ぶ。その度に、紀田は止めてくれと思う。何とも思っていないくせに、そんな風に名前を呼ばないでくれと、男の声が鼓膜を撫でるようにくすぐり揺らす度に思うが、実際に紀田が男の声を拒否できたためしはない。
 紀田の男に対する感情は憎しみと怒りばかりで、けれど、それ以外の何かが胸の奥深い場所に根強く位置していることも確かで、その想いに自身で気がついているからこそ、男を前にした時の紀田の心はどうしようもないほどに不安定になる。どう振る舞えばいいのか、どう接すればいいのかがわからなくて、言葉を音にした直後に後悔ばかりしていたりする。
 そんな自分が嫌で、そんな自分にさせる男が嫌で、男から離れてみようとするが、どんなに物理的距離を開けたところで紀田の心はいつもどこかで男を意識している。その存在が気になって、目を向けずにはいられない。いっそのこと、出会ってなんかいなければ今よりも幸せでいられただろうかなんて考えて、男の記憶に存在しない自分が思い浮かび身体が震えた。最悪だ。なんて恐ろしいことだろう。


「それじゃあ、沙樹ちゃんによろしくね」
 別れ際、やはり男はどこまでも美しく綺麗な顔で笑って、ばいばいと子供のように手の平を振った。以前、優しく頭を撫でた柔い手の平。その感触を紀田は今でも鮮明に思い出すことができたが、その手の平はもうあの頃のように紀田の頭を撫でることはない。
 優しいはずだった手の平は返されてしまった。あの日、男が紀田の中で兄ではなくなった、その時に。それなのに、紀田はまだ男の傍にいる。何故。自問しても明確な答えが出てくることはなく、まるで深い海の底に潜り続けているかのように苦しくなって、無言のまま紀田は男に背を向けた。そうすることによって絡みつく何かから逃れたような気もするし、傍にあった何かを手放してしまったような、そんな気もする。
 自分を取り戻した安心感と、掴み損ねた喪失感がぐるぐると胸の奥でめぐって、相変わらず紀田の心は男にかき乱され続ける。

 時折、紀田は思う。もしも、もしも、自分の身体を駆け巡るこの血の中にあの男と同じ血が少しでも交じっていたならば、理由なんて必要ないまま隣に立ち、誰よりも近いその位置でひたすらに男の存在を憎んで、けれど同時に、兄と呼んで優しい手の平をせがみ、何の弊害もなく慕い愛せることができたのに。
 そんな風に思って、そしてその度に身体の芯から沸き起こるような胸糞の悪さに舌打ちをしようとするが、紀田はいつもそれを失敗する。目の奥がツンと痛み、上手に目を開けていられなくなって瞼を下ろす。結局、どれだけの月日が過ぎても紀田はあの日のまま変われないでいた。男を兄と錯覚した、愚かしいままの自分。
 いつだって本当は、頭を撫でる感触が恋しくて仕方がない。
さよならの仕方を教えて