随分昔のことだ。たった一度だけ、男の物を壊すばかりの大きな手の平が折原のほっそりとした華奢な腰と背中に添えられた場面を見たことがある。
 誰もいない放課後の教室で、二人はまるで隠れるようにして抱き合っていた。とても静かで、ただ身体を寄せ合うだけの、そんな幼い抱擁。男も折原も門田の存在には気がついていないらしく、折原に触れたままでいる男の肩は遠目で見てもわかるほどガチガチに固まっていて、甘やか雰囲気に反して彼は大層緊張している様子だった。
 まるで薄いガラスでできた陶器に触れるような慎重さで男は折原の背中をそろりと撫でる。折原の肩がぴくりと揺れて、その反応に男の手が不自然に止まった。彷徨う手の平が酷く不格好でともすれば情けなく映るその手を、しかし門田は笑うことなどできなかった。ただ、さらりと流れる黒髪から覗く白いはずの耳が、夕陽のせいだと言い張るには無理があるほどに赤く染まっていることに気がついて、思わず目を見開いた。
 抱き合う二人を見つけた時とは違う衝撃が重い音を立てて身体の芯を揺らし、息をすることすら一瞬忘れ、その赤色に魅入った。耳の後ろでドクドクと鼓動が脈打って、動揺していると、自分でもわかった。わかっていたが、だからといってどうすることもできなくて、結局、門田は音をたてないようにと気をつけながら足早にその場を後にするなんていう、ありきたりな選択をするしかなかった。

 それなりに知っているつもりだった。折原臨也がどういう人間なのかを。感情のそぎ落とされた無表情、あざとさがにじみ出た微笑み、苛立ちに細まる双眸、無垢にほころぶ笑顔、見下すような尖った赤い眼、抱きつく腕の細さ、撫でた頭の小ささ、冷たい指先も衣服を通した温かさも、自惚れではなく、知っているつもりだった。近くに立っているつもりだった。
 けれど、あんな折原の姿を門田は見たことがなかった。あんな、触れ合って美しい赤色に染まる白い肌など、今まで一度も見たことがない。



 折原を迎え入れた門田は一番に、つい先ほどまで娯楽として自身をそれなりに楽しませていたテレビの電源を落とした。その動作にはほんの少しのよどみもない。ただそうすることが当たり前のように、映っていた映像に微塵の興味も未練もなく電源を落とす。壁に立てかけたアナグロ時計の針はそろそろ深夜と呼べるだろう数字を指しており、外部からの物音は無いに等しい部屋はしんとした静けさに包まれた。リモコンを置く、たったそれだけでも音が大きく響いて聞こえる。
「わざわざ消さなくても良いのに」
 俺は気にしないよ、と折原は小枝で羽を休ませている小鳥がそうするようにして首をかしげた。邪さが混ざらない微笑は年の割に幼くて、愛らしい。上辺だけを見たなら、きっと折原は多くの人間から無条件に愛されるに違いない。けれど、折原は限られた人間の前でしかこうした表情を浮かべないから、それが実現することは極めてあり得ない。
「暇つぶしにつけてただけだ」
「そう?」
「あぁ、だからお前こそ別に気にしなくていい」
 床に腰をおろしながら門田が言うと折原は、うん、わかった、と聞きわけの良い子供のように頷いた。のろのろと緩慢な歩みで折原は門田に近づき、普段よりもいくらか柔らかく見える双眸で門田を見下ろしたかと思うと、すぐに胡坐をかいて座る門田の足の隙間に横を向いた体勢で腰を下ろした。ささやかな力しかこめられていない腕を腰に回し、胸元に片耳を押しつけてぴったりとくっ付いてくる。身体の方はじんわりと暖かかったが、腕の方は少し冷たい。
 門田は何も言わなかった。ただ、首筋をくすぐるあどけなく純粋な黒髪を手の平の表面だけで軽く触れて、指に絡まないさらさらとした感触を楽しむように、一度だけ上から下へと撫でつけた。折原は瞼をそっと下ろした。門田はその横顔を見つめていた。

 折原は時折こうして門田のもとを訪れる。日数も曜日も時間帯もまちまちに、気まぐれな猫のような身軽さでひょいと姿を現して、訪れた理由も話さず擦りよるようにして身をよせる。そこにはきっと折原なりの意味があるのだろうが、門田はそれを知らない。明確に真意を尋ねたことなどないが、折原が素直にそれを口にする事はないだろう。
 しかし、門田は折原のその行為を許せる範囲で許し続けていた。気にならないと言えばそれは嘘になるし、事前の連絡もなしに尋ねられるのは困ると言えば困るものだったが、甘えられている、そう思えば、当然悪い気などしなかった。例えるならば、誰にも懐くことのなかった孤高な野良猫に懐かれているような、そんな感覚。
 ねぇ、ドタチン、と随分昔につけられたあだ名で呼ぶ声は甘く、じっと見上げる瞳は鮮やかで、門田にとって折原は良い意味でも悪い意味でも特別な存在だ。少なくとも、甘えられていることを嬉しく思うくらいには、そして、甘えてくるその身から微かにかおる嗅ぎなれないにおいに嫉妬するくらいには特別だった。


 煙草のにおいがした。
 細く柔らかい猫毛を撫でたその拍子に、ほんの僅かにかおる独特のにおいが門田の鼻先をくすぐる。折原が普段つけている香水とは違う、喉の奥を痛く刺激するような苦々しい煙草のにおい。そのにおいに今更のように気がついた門田は、あぁ、と息を吐く。
 折原が煙草を吸わないことを門田は知っている。学生の頃は持ち前の好奇心から何度か吸っていたようだったが、それもほとんど片手で数える程度のもので、実際、数回ほど訪れたことのある折原の自宅で灰皿の姿を見かけたことはない。それなのになぜ折原が煙草の匂いをさせているのか、その答えは考えるまでもなく明白で、途端に門田は呼吸をするのが苦しくなった。
 そっと息を吸う、それだけで煙草のにおいがする。あの男が意識しているかは知らないが、マーキングのようにつけられたそのにおいは十分にその効果を発揮している。

 なぁ、臨也。呼びかけると折原はそのスッとした眼差しを門田に向ける。その眼差しに言おうか言うまいか迷って、それでも、口を閉ざすことはできなくて、門田は折原の眼を見つめ返した。
「……いい加減、」
 こういうことは俺とじゃなくて、静雄とした方がいいんじゃないか。言いながら門田は折原の髪から手を離して、代わりに重みを感じさせない細身をいつもより余所余所しい手の平で触れた。
 本当はずっとずっと前から思っていて、けれど、今日の今日まで言えないでいたその言葉は門田が思っていたよりもどこか素っ気なく、それでいて少し弱々しくも聞こえた。折原にはどう聞こえただろうか。考えて見るが、門田にはわからない。
 折原は門田の問いには答えず、嫌になった?と目を細めた。口元は僅かに釣り上がっていたが、笑っているとは感じさせないようなその表情に余計なことを言ってしまったのだと気がついたが、告げてしまった言葉を取り消す術はなく、それならばと門田は首を横に振る。
「なんとなく思っただけだ」
 嫌になんてなってないと告げる言葉には嘘なんてほんの少しだって含まれていない。折原は喉を鳴らすようにして笑った。良かったと、相変わらず甘さを含ませたような声で呟いて門田の胸元に額をくっつける。
「俺、ドタチンとこうするの好きだから、拒否なんてされたら凄いショック」
「……そうか」
「うん、そう。ドタチンの心音ってさ、聞いてると凄く落ち着くんだよ。優しくて緩やかな音がして、思わず眠くなってきちゃうくらい。……けど、しずちゃんは、しずちゃんはだめだよ。だってしずちゃんの心音っていつも早くてどきどきうるさいんだもん。その音聞いてるとさ、なんか釣られて俺の心臓までうるさくなっちゃう気がするから、全然落ち着かない……」
 だから嫌なんだ、と折原は首を振り、駄々をこねるようにして抱きついた腕に力を込める。抱擁というには少し力の入りすぎたそれを門田は振り払わなかった。折原の言葉に喜べばいいのかそれとも悲しめばいいのか迷って、結局両方がぐちゃぐちゃに混ざったような気持ちで、あやすようにして折原の肩に触れる。
 男にしては華奢な、けれど、しっかりとした温度を持ったそれを、あの男が一体どんな気持ちで触れているのかを折原はわかっているのだろうか。男の心音が早い理由を、釣られて早くなる自身の心音の理由を。折原の言葉を聞いて、門田が今どんな気持ちを抱いているかを、わかっているのだろうか。
 なぁ、臨也。胸の奥深いところで門田は何度も問いかけてみるが、声にならないそれが実際に折原の耳に届くことはない。


 うつらうつらと折原の頭が揺れる。支えるようにして首の後ろに腕をまわしてやると何の疑いもなく折原は頭を預けた。眠いのか、と声をかけると、ぅうん、と曖昧な言葉だけが帰ってくる。それがあまりにも幼くて、あまりにも無防備で、門田は笑おうとして少し失敗した。
 仕方ないな、なんて、思ってもいないような言葉を誤魔化すようにして呟きながら立ち上がろうとして、だがそれは唐突に鳴り響いた着信メロディの音に邪魔された。
 腕の中に収めた身体が大げさなほど震える。見ると、先ほどの寝ぼけ眼が嘘のように独特の赤色を見開いた折原が部屋に上がってからも脱がずに着こんだままでいたコートから携帯電話を取り出した。フリップを開かずにサブディスプレイだけを見つめて、整えられた眉が不機嫌そうに歪められる。
 どうかしたのか、と門田が問いかける暇もなく折原は鳴り止む気配のないそれを再びコートの中へと滑らせた。くぐもった音が酷く耳ざわりで門田は、出なくていいのか、と尋ねようとして、結局口を噤んだ。やがて、メロディは同じサビを二度三度繰り返して止んだ。
 再び部屋には静寂が訪れて、しかし、またすぐに折原の携帯電話が音をたてた。門田が聞いたことのない、先ほどとは違う軽快なメロディ。それはどうやらメールの着信を知らせるものだったらしく、今度は無視することなく折原は携帯電話を取り出しフリップを開いた。
 重そうな睫毛を揺らすようにして瞬きを繰り返し、ディスプレイを見つめた紅い虹彩が左から右へと僅かに、そしてゆっくりと動く様を門田は不思議な感覚で眺める。いざや、と、形だけで呟くが、その紅い色が門田の方を向くことはなかった。
 食い入るようにディスプレイを見つめ続けて、折原はぱちり、と軽い音を立ててフリップを閉じる。そうして、携帯電話をコートへと戻すことなく両方の手の平で包み込むようにして胸元に抱え込むと何も言わずに門田の胸元にすり寄った。
「静雄からか」
 それは疑問ではなく確信だった。折原はゆっくりと瞬きを繰り返し続け、最後に緩く息を吐いて瞼を閉じる。
「……うん、」
「なんだって……?」
 迎えに行くから待ってろ、だってさ……、と少しだけ間をはさんでから、折原はぽつりと言った。最後の方はほとんど掠れるような小さな声だったが、静寂な部屋の中でその声はしっかりと門田の鼓膜を揺らした。
 門田は短く息を吐く。ぴくりと折原の肩が揺れたが、気がつかない振りをして、よかったなと優しさばかりを詰め込んだ声でささやいた。折原は無言でいた。ただ、抱えた携帯電話を強く握りしめ、胸元に顔を寄せたまま小さく頷いた。その拍子に髪が流れ、どこまでも整った形のいい耳が露わになる。見慣れたその白さに門田は折原と同じように黙って眼を伏せた。

 幾度も折原は門田のもとを訪れた。その度に門田は折原を迎え入れた。幾度も幾度もその肌に触れ、その髪を撫で、その温度を感じ、蜂蜜を淹れた暖かなミルクをかぎ混ぜるようにして甘やかした。
 けれど、あの日以来、美しい赤色に染まる白い肌を門田は見たことがない。どれほど強くその色を渇望したところで、想いを口にすることが出来ない門田の手の平ではどうしたってその色を作り出すことはできなかった。どうしたって、絶対に。
 折原の美しいあか色はどれも門田じゃない男ばかりに向けられている。
遠い色彩