見慣れることなんて永遠にないだろうその背中は闇夜に溶けてしまうかのように黒く染められているのに、いつだって平和島の目を痛いほど鮮やかに引きつける。何事もなかったかのように目を逸らせれば、きっと自身も折原も今よりかずっと楽になれるのだろうとわかっていたが、彼の存在を無視することなど平和島にはできるはずもなく、いつだって平和島はその身体に腕を伸ばす。
 たった一つの名前を噤んで、今はもう音にするのも忌まわしいだけの呼び名を口にしながら、手だけですっぽりと覆ってしまえそうな細い腕を掴む。表面だけの嫌悪をまとって、できる限り乱暴に見えるよう、けれど必要以上の痛みは与えないようにと、なけなしの用心をかき集めて手を引く。
 それなのに、消しきれなかった焦燥に釣られた強すぎる力は上手いこと平和島の配下におさまってくれなくて、振り向かせた折原はその美しく整えられた眉を歪にしかめた。
「ぃ、ッ」
「ッ、……」
 その表情と声に平和島は、腕は離さないまま咄嗟に手の平から力を抜いた。途端、歪められた眉が弱々しい線をえがいた。触れた腕から身を固める気配が伝わって、平和島は自身が選択を誤ったことに気がつく。
 だが、今更それ以上の力を込めることなんてできなくて、かと言って、自身の方から手を離してしまったらこれ以上に取り返しのつかないことになることがわかっていたから、平和島はただ情けなく眉間にしわを寄せて不機嫌を装うことしかできなかった。
「……しずちゃん」
 折原が呼ぶ。感情の籠らない冷たい氷のような声。けれど、その芯は恐れるように揺れている。そんな声が聞きたかったわけではないのに、なんて自分の失敗を棚に上げて嘆く一方で、その声が作る音が己の名前であることに浅ましい歓喜がわき上がる。
 初めこそは否定していた感情。だが一度受け入れてしまえばそれは恐ろしいほどに平和島の心に調和して、以来離れることなくそこに存在し続けている。拳を振り上げられないほど根強く深く。
「はなして」
 折原の薄い唇が戦慄く。わかりやすい拒絶の言葉に平和島はいらえを返さずに目を細めた。望んでいるのはそんな言葉では、ない。平和島が望んでいるのは、欲しているのは。
「離して」
 先ほどよりもいくらか強い声。きらりと鈍い光を放つ刃が折原の腕をつかんだ平和島の手を切りつけた。ちりっと走る小さな痛みに条件反射のように手を開いて、その隙を逃さず熱を持った腕がするりと手の平から逃げる。
 あ、と呟く暇もなく黒いコートをまるで蝶の羽根のようにひらりと舞わせて、小さな背中が人ごみに紛れて消えていく。それでも、平和島の眼は正確にその背中を捉えていた。いざや、とその名前を呼ぼうとして、しかしそれが音になることはない。
 ともすれば追いかけてしまいそうになる足を手の平にに爪跡が残るほど強く握ることで押さえつける。今ならばまだその背中に追いつくことは出来るだろう。そうしてその腕を捕えて抱きしめることなど、平和島の膂力を持ってすればきっと赤子の手をひねるように容易い。
 化け物じみた力を持つ身体だ。一生傍に置き続けることだって本当は不可能ではない。だからこそ、平和島はより一層強く己の手の平を握った。力だけで手に入れたって、それでは何の意味もないとわかっていたから。

 脈打つ感覚に視線を落とす。折原に切りつけられた箇所が赤く滲んでいて、しかし、痛みなどなかった。苛立ちも悲しみもない。ただ寂しさを一緒にした喪失感だけが胸の奥をぎゅうぎゅうと締め付ける。


 傷つけたくないと言えば何言ってんの、と眉をひそめた。好きだと告げれば冗談言わないでよ、と顔をしかめる。触れてしまいたくて腕を伸ばせば恐れるように身を引いて、愛していると囁くとまるで世界の滅亡を宣告されたかのような怯えた表情をする。今にも泣き出しそうに揺れる紅が恐ろしいほど綺麗で目を奪われるが、悲しみで濡れる頬など見たくなくて告げる言葉に酷く迷う。
 傷つけないよう上手に言葉を選んで正確にこの胸の内の想いを伝えられたらいいのに、思い浮かぶ言葉はどれも質素でありきたりなものばかりで口を噤むほかに選択肢がない。嫌いなら嫌い、憎いなら憎いとはっきり示してくれればいいのに、変化を戸惑うだけの態度に淡い期待が振り払えない。
 ただ大切にしたいだけなのに何もかもが上手くいかず、どうすればいいと解決の糸口を探して必死に思考を巡らせても、言葉一つだって満足に思い浮かばない頭で最良の答えなど出るはずがない。いっそのこと正しい答えとやらを問いかけてしまいたかったが、その答えを持つ唯一の人間がそれを許さないから結局どうしようもできないでいる。
 この想いに気がついた時からずっと。
耳鳴りは止まない