みんみんみん、と五月蠅く鳴き続ける蝉の声の中、折原君って笑った顔が素敵よね、と話すクラスメイトの言葉を不覚にも聞き拾ってしまった平和島は3個目のパンの袋を開けようとして逆に握りつぶしそうになった。
 寸前のところで押しとどめた指先が僅かに震える。ざわりざわりとさざめき立つ神経を落ちつけようとゆっくりと息を吐くが、にやにやと笑っている岸谷の顔が飛び込んでそれは無駄になった。
 自分でも露骨に態度に出ていたと自覚していた平和島のこめかみに自然と血管が浮き上がる。んだよ、と睨みつけると岸谷は笑った表情のまま、いやいやいや、と忙しなく手を振り、その仕草が余計に平和島の神経にさわる。
「僕は別に何も言ってないよ」
「目が思いっきり笑ってんだよ」
 むかつくから止めろ、と吐き捨てながら平和島はいささか乱暴な動作でビニールの袋を破り開けた。大粒の砂糖がちりばめられたメロンパンに大きく噛みつく。メロンパンの大きさが一気に三分の二になる。その間も名前すら覚えていないような女子の口から折原君折原君と小さくこぼれる声が聞こえてきて、甘いはずそれを平和島は正反対の表情でろくに味わいもせずにごくりと飲み込んだ。
「そんな怒ることじゃないでしょ」
「うっせぇ、飯時にアイツの名前なんざ聞きたくねェんだよ」
 平和島は顔をしかめてメロンパンに再度噛みつく。あっという間にメロンパンは三分の一の大きさとなって、それもすぐさま平和島の口内へと消えた。苛立ちを隠そうとしない平和島に岸谷はへらりへらりと笑う。僕はあの子の言うこともわからなくもないけどなー、と呟きながら、空になった弁当箱のふたを閉める。
「臨也は中身は難ありだけど、見てくれは最上級だからねぇ」
 僕も臨也の笑った表情は賞賛するに値すると思うよ。岸谷は弁当箱を包み鞄にしまうと、頬杖をついた。何かを思い出す様に目を細め、それに釣られるようにして平和島の脳裏に折原の顔が浮かんだ。
 三日月に細まる紅い瞳に口角の釣り上がった薄い唇、ちらりとのぞく犬歯は白く整っていて、同じく綺麗に整えられた眉は見下す様にして中央に小さな縦皺を作る。平和島は咀嚼していたメロンパンを飲み込むと、はっ、と蔑むようにして鼻で笑った。
「どいつもこいつも見る目がねぇ…」
 あんな底意地の悪い、ましてや演技がかった胡散臭いだけの笑みのどこが素敵なものか。吐き捨てて牛乳パックのストローを咥えると岸谷がより一層にやついた妙に意味ありげな表情で笑うから、思わず平和島は空になった牛乳パックを岸谷の額に向かって投げつけた。もぎゃ、とあがる奇声をまるっと無視して本日4個目のパンへと手を伸ばす。



 アイツの、笑顔の、どこが素敵なもの、か!
 手近にあった消火器を掴みあげながら平和島は改めて思う。びきり、と血管が浮き上がってそれを見た折原が濃い青空をバックににこりと笑う。無駄にさわやかな、けれど腹立たしさしか感じさせない笑顔。
 平和島はいぃざぁやぁ、とどすの効いた声で叫びながら消火器を折原に向かって投げつけた。膂力に任せた消火器は一直線に折原へと向かっていって、しかし寸前のところで折原はそれをするりと避ける。ガラスが割れる音がして、それを合図のようにして折原は平和島に背を向けて走り出す。
 ちょうどその時、本日最後の授業の開始を知らせるチャイムが聞こえ足が止まりかけるが、一瞬振り向いた折原の笑みにすぐに授業などどうでもよくなって平和島は折原の背中を追いかけた。折原が廊下の角を曲がって階段を下る。
「いーざぁやぁぁあああ!!」
 遠慮も羞恥もなしに叫んで平和島が続けて角を曲がると、折原は踊り場の窓に手をかけた所だった。先ほどと同じようにして折原は平和島を振り返る。口角を釣りあげて見せ、そのままひょい、と身軽に飛び降りた。自転車置き場の屋根の上を伝い向かいのプール場へと走る背中。同じようにして窓から飛び降りた平和島はその背中を追い続けた。

「っは、ちょっと、今日のしずちゃん、なんかしつこく、ないっ?」
 肩で大きく息をしながら、折原は見慣れた笑みを浮かべる。その後ろでは、つい先週に掃除を済ましたプールが涼しげに水面を揺らしている。
「うっせぇ、いいから一発殴らせろ」
 わざとらしくこぶしを握って見せると折原は、はっ、いやに決まってるでしょ、といつかの平和島のように鼻で笑って吐き捨てた。いつの間にか取り出したナイフを構えて、切っ先を平和島へと真っ直ぐに向ける。ひゅん、と風の切れる音がして銀色の刃がと凶暴に光る。眼球を容赦なく狙ったそれを避けて、平和島は目の前にひらりと映った白い手首を掴んだ。
「う、わ……っ」
 小さな悲鳴が上がり、折原の身体が宙に浮く。そうして次の瞬間には折原の身体は水面へと叩きつけられていた。ばしゃん、という音とともに派手に飛んだ水飛沫が平和島の足元を僅かに濡らす。水面に大きな波紋ができて、その波紋が消えるよりも早く、折原が水面から顔を出した。
「ちょっ、しずちゃん最悪!」
 折原は悪態をついてから、げほげほ、と小さく咳を繰り返す。それを平和島はいい気味だと笑い、折原が平和島をきつく睨みつける。お得意の笑顔をはぎ取ったその表情に昼間の女に見せてやりたいと無意識に思って、平和島はさらに笑みを深めた。
「あー、もうびしょびしょじゃん」
 愚痴りながら折原は手にしていたナイフを折りたたむ。黒髪から滴る水を鬱陶しそうに目を細めながら髪を撫でつけて、ふいにはっと表情を変えた。口元が小さく動き、音にもならないような言葉を呟く。呆然、といった表情で自身の手元を見て、日に焼けていないその白い肌をさぁっと青白くさせた。

 突然のことだった。
 急に顔色を悪くした折原は髪の先から滴り続ける水を拭おうともせずわたわたと辺りを水面を見渡しはじめた。平和島がすぐそこにいると言うのに、目もくれないどころか焦燥の表情を取りつくろうともしない。
 折原の珍しいその表情に平和島は笑みを引っ込めて目を見張った。どうかしたのかと、らしくもない思いが胸に浮かんで、しかしそれを実感することはないまま折原を凝視するが、それすらも折原は気にかけない。折原しばらくじっと手元を強く見つめたかと思うと、次いで大きく息を吸い込み、そのままその濡れそぼった頭を再び水中へと沈ませ平和島を酷く驚かせた。
 おい、と思わず声をかけながら平和島はプールの縁へと近づく。プールの水面はゆらりゆらりと小さな波を立てながら、太陽の日差しを反射させてきらきらと眩しく光っていた。じっと注目すると底の方で折原の黒い影が見える。なにをしているのか、平和島にはわからない。
 怒りは折原をプールに投げ込んだ時点で大方消え失せていた。汗でべったりと背中に貼りついたシャツが気持ち悪くて仕方なく、さっさと帰って涼しい部屋で横にでもなりたいと思う。けれど、このまま折原を放って背中を向ける気にはどうしてもならなかった。
 これがほかの違う誰かならなに訳わかんねぇことやってんだとあっさり立ち去ることができるのに、折原相手ではどうも上手くいかない。それどころか水中に潜ったまま顔を出さない折原の様子に胸の左側がぎりぎりと妙な音を立てた。潜る前に見せた表情を思い出して、平和島は強く舌打ちをする。
「あぁ、くそ!ノミ蟲がッ!」
 苦々しく吐き捨てて、平和島は上履きを脱ぎ捨てると制服が濡れるのも気にせずそのまま水面へと飛び込んだ。纏わりつく水をかき分けて、折原のもとへ近づく。そうして水中に腕を突っ込むと、指先に触れた腕を掴んで腕力にものを言わせて引きあげた。
「っ、てめぇは何してんだ!」
「…………」
「おい!」
「……ゆびわ、」
「あぁ!?」
「指輪、落とした……」
 ぽつりと呟いて、折原の視線が掴みあげた腕を見上げる。釣られるようにして腕の先を見れば確かにいつも人差し指の付け根にはめられている指輪が姿を消していた。はっ、と平和島は無意識のうちに強張っていた肩から力を抜いた。
 そんなことかよ。思わず零しかけて、しかし俯く折原の頭に寸前のところで飲み込んだ。滴った水が涙のように伝う頬は依然として青白いままで、平和島はその色を見つめていた。折原は平和島を見ない。ひたすらに不規則に揺れる水面を見つめて、失くした指輪を探している。

「大事な物、なのかよ」
 手の平に収めた腕が僅かに震えた。小さな頭が一度だけ縦に揺れて、頬を伝った水滴が水面へと帰る。小さく揺れる水面。それに連動するようにして平和島の胸がまたギリギリと妙な音を立てた。平和島は再びちっ、と舌打ちをして折原の腕を離した。
 苛立っている時のように乱暴に頭をかき、大きく息をつく。うろうろと無意味に視線をさまよわせ、俯く頭に焦点を合わせてからもう一度大きく息をついた。次いでそれ以上に大きく息を吸った。肺に空気をためて息を止める。そうして平和島は意を決するようにして目を瞑ると水中へとその身を沈めた。
 全身を覆う水の感触にすぐ目を開く。ゴーグルも何もつけずに見る水中はゆらゆらとしていて随分と見づらく、じん、とした痛みにも満たない感覚が角膜をくすぐる。しかし、平和島は気にしない。底の方へと手を伸ばして指先を這わせる。凹凸のない手触りに三度舌打ちをしようとしてごぼり、と唇の端から空気が漏れる。それすらも気にしないまま指先を這わせ続け、次第に息が苦しくなって水中から顔を出すと、折原が目を見開いて平和島を見ていた。
「な、に、してるのしずちゃん」
 滴り落ちる水をざっと拭いながら、平和島は顔を逸らした。
「うるせぇ。良いからテメェも黙って探せ」


 一体俺は何をやっているんだ。
 幾度目かの自問を頭から意図的に追いだして平和島は息を吸って水中へと潜る。碌に見えもしないのに目を開き、手を伸ばして小さな小さな指輪を探す。あそこにはない、ここにもない、こっちにも見当たらない。何度も何度も繰り返して、平和島は息を止め続ける。
 消毒液の染みた水にさらされた眼球がいい加減小さな痛みを訴え、その痛みに実はこれも折原の策略かなんかじゃないだろか、と考えなかったわけではないが、それでも不思議と止めようとは思わなかった。どうして、と考えた所で答えは簡単には見つからないから、平和島は言葉を飲み込んで指先の感覚に集中する。

 ごぼりごぼりと酸素が逃げる。あと10秒したら息継ぎをしよう、と決めながら水底をなでた。1、2、3、と数えはじめて、5秒目のところで初めて爪の先に何かが触れた。その感触に平和島ははっと目を大きく見開いた。残り5秒分の酸素を一気に吐き出しながら指先でそれを掴む。
 息が苦しい。しかしそれを実感するより早く平和島は水中から顔を出した。掴んだそれを見ると間違いなくそれは折原の細い指から逃げ出していた指輪だった。
「臨也ァ!」
 名前を呼んで、その姿を探す。折原は少し離れた場所にいた。平和島の呼び声に肩を震わせて、何事かと振り返る。掴み拾った指輪を掲げて見せるとわかりやすく折原の紅い眼が大きく見開かれた。
 今日は折原の珍しい表情をよく見る、と思いながらバシャバシャと水をかき分けて平和島は折原の許へ近づき、指輪を掴んだ手を突き出した。折原がおずおずと両の手の平を広げる。平和島はその手の平に指輪を落としてやった。これだろ。尋ねると折原は頷いた。
 やけに拙い動作で指輪を掴んで、それを人差し指へとはめる。無駄な装飾がされてない指輪は折原の白く細い指に酷く似合っていて、その指輪が本来あるべき場所に戻ったのを見届けた平和島は妙な達成感を感じた。そしてそれと同時に、それと同じくらいの気恥しさを感じて、つい折原から視線を逸らす。
 何をやっているんだと、放置し続けた問いが今更のように帰ってきて気まずく感じて仕方がない。誤魔化す様に声をかけようとするが肝心の言葉が見つからない。良かったな、なんて言うのは自分のキャラではなく、だからと言ってここぞとばかりに高飛車に礼をせびるのも違う気がしてならない。情けなくあぁー、だ、うぅ、だとうめき声をあげると、ちょうどよくチャイムが鳴った。どうやら一限近くもの間、平和島と折原は失くした指輪を探していたようだった。

 らしくないことをした。改めて実感して、居心地の悪さが増加する。言葉は見つからないままどうすることもできず、さんざん悩んだ挙句、最終的に平和島は無言のまま折原に背を向けた。さっさと帰って、シャワーでも浴びて横にでもなってしまおう。きっとそれが無難な選択肢だと言い聞かせながらプールから上がる。
「……しずちゃん」
だが、呼ばれた声に途中で動きを止めた。無視することは、できない。
「……、んだよ」
「しずちゃん」
「……だから、なんだよ」
 呼ばれたのだからしょうがない、とわけのわからない言い訳を胸に抱きながら平和島は折原を振り返って、そのままぎしりと身を固めた。べつに油断していたところにナイフを突き付けられたとか、そんなわけでは、ない。けれど、受けた感覚としてはそれによく似ていたかもしれない。
 折原はただ、笑っていた。三日月に瞳を細めて、口角を上げて、けれどそれはいつもの人を食ったような底意地の悪いものではなく、ましてや演技がかった仮面のようなものでもなかった。うっすらと頬を上気させ、まるで無邪気な子供のような、笑顔。瞬間、耳の裏側の方で血液が脈打つような音が聞こえた。
「ありがとう」
 重ねられた言葉に平和島はいらえを返すことができなかった。馬鹿みたいに呆けて、折原を見ていた。酷使した目が痛んで、けれどそれ以上に心臓が熱くて五月蠅く、平和島は手の平を強く握りしめる。そうして不意にクラスメイトの女子の言葉を、岸谷の言葉を思い出した。

 あの時、平和島は笑った。見る目がないと、見下して軽い優越感すら抱いていたかもしれない。けれど今、折原の笑みを前にして平和島の意識はぐらりと揺れた。なんてことだろう。平和島は思う。もしかしたら、本当に見る目がなかったのは名も知らない女子でも、ましてや岸谷でもなくて、それは、それは――。
カルキの海で窒息死
(自分の方だったのかもしれない、なんて)