それがいつものことだった。何の疑問もなく、そうするものなんだと思っていたからそうしていたし、そうすることを好いていた。 平常よりもゆっくりと時間が流れていくような、そんな放課後。すべての授業を終えた教室で折原は窓の外を見つめていた。ばいばい折原君、と可愛らしく別れを告げるクラスメイトの声もおざなりに、愛しいものを見つめるような色をさせて人がまばらに散らばるグラウンドを見下ろす。 そうすることが折原のいつもで、それには一寸の狂いなどあったことはないのに、誰もいなくなった教室で窓際の席に一人ぽつんと残る折原の姿を見つけるたびに岸谷は意味もなく胸を撫でおろす。 折原の前の名前も姿も知らないような生徒の席に腰をかけて岸谷は折原を見た。折原は変わらずにグラウンドを見つめていた。岸谷の方をちらりとも見もしないが、岸谷は別にそれで良かった。構ってほしいわけではない。 ここに来る前に図書館で借りた本を取り出してパラパラと適当にページをめくる。目が痛くなるような小さな文字を表面だけで追い、そんな風にして岸谷は時間を潰す。今日選んだ本は図書委員のお勧めで、その字面に惹かれて借りたは良いが、実際にページをめくって見るとそれほど興味を引くようなものではなかった。 失敗したなぁと思いながらもページをめくり続けるが、どうしても目が滑る。一体何を思って図書委員とやらはこの本を勧めたのか。岸谷は考えて見るが、折原のようにそこまで他人の思考に興味がなかったのですぐやめた。 ずり下がってしまった眼鏡を持ち上げて、一緒に顔を上げる。大きく開け放たれた窓から風が吹いてページを勝手に先へ先へと進めるがもうどうでもよかった。それよりも見つめた先の折原の黒い髪が目元にかかっているのが気になって岸谷は手を伸ばした。そこでようやく折原の眼が岸谷を一瞥した。伸びてくる指を避けようとはせずにじっと見つめる。岸谷は構わずに目元にかかった髪を優しく払ってやった。 「目に入ったら危ないよ」 気をつけて、とついでのように耳を撫でる。折原はほんの少しだけ目の縁を緩ませると、またすぐに外へと目をやった。礼などないが、それでもやはり岸谷は構わなかった。 小さな満足感を胸に抱きながら折原の視線に釣られるようにして窓の外を見る。遠くの空が、根元をじんわりと暗く染めていて、その色に岸谷は愛しい愛しい首無しの姿を脳裏に描いた。忘れることなんてありえない。彼女の存在はいつだって岸谷の心を魅了して離さない。 ふわふわと意識が浮足立って、今すぐにでも彼女の許に駆けつけたい気持ちは彼女の傍を離れた時から常に岸谷の中にある。彼女の存在に勝るものなどあり得なくて、それでも、岸谷は今こうして折原の隣に座していた。折原がすべてに満足して動き出すその時を待つ。 ゆっくりと緩慢に流れる時間は永遠を思わせるかのように果てしなくて、しかし待つことだけを続けるこの時間を岸谷は一度だって苦に思ったことはなかった。折原とは、そういう存在なのだろうと岸谷は思っている。 グラウンドに誰も人がいなくなる頃になって、折原は大きくゆっくりと瞬きをした。長い睫毛がそれ以上に長く影を落とす。それを余すところなく見つめながら岸谷はろくに読み進むことのなかった本を閉じて鞄へとしまう。そうして自身だけが呼ぶことを許された折原の名前を正しく呼んだ。 いざや。折原は沈みゆく太陽よりも紅く眩しい色をした目で岸谷を見た。なに、しんら、と同じように正しく名前を呼び返して、その声に岸谷はにこりと微笑んで見せた。机の上に無造作に放り出された折原の手の甲に指を伸ばす。皮膚の下にある骨の形を確認するようになぞってからその手をとり、岸谷は立ち上がった。促す様にして軽く手を引く。抵抗などない。そうすることが当たり前のようにして折原は素直に立ちあがった。 「帰ろうか」 告げる言葉は昨日と一字一句違わない。ほんの少しの間をおいてから折原は頷いて、揺れる黒髪に岸谷は笑みを深めた。 「ねぇ、新羅」 「ん〜、なんだい」 「今日は何読んでたの?」 「図書委員のお勧め」 「面白かった?」 「ううん、臨也の横顔よりつまらなかったよ」 「ふぅん、そう」 「うん、そうだよ」 予定調和、変わらぬやり取り。ずっとそうだった。人を見ているのが好きなんだ、と柔らかな丸みを残した白い頬を夕日に染める横顔を見つめるのが岸谷のいつもだった。事前に図書館で借りた本を手に持って、それが面白くてもつまらなくても気にしない。 時間を忘れて愛しいものを見やる横顔を見つめながら、長い影を作るまつ毛が揺れる様を追い、伸びた前髪を気まぐれに払ってやって、満足して瞬きを繰り返す瞳に帰ろうと促しその手の平を引く。誰に言われた役割でも義務でもなんでもないが、そうすることが岸谷のいつもだった。 眠くなったら瞼を閉じるように、苦しくないよう呼吸をするように、この先もずっと続いていくものだと、漠然と曖昧に、けれどまったく疑いもせずに思っていた日常の一部、だった。 その日常を岸谷はきっと愛していた。たとえ、あの首無しへの想いに比べれば、到底足元にも届かないほどでも、それでもきっと愛していた。 がくん、と頭が揺れる感覚で目が覚めた。一瞬の浮遊感に思わず肩を揺らして、あわあわと辺りを見渡す。自身以外誰もいない教室に首をかしげ、窓から差し込む日差しの色が朱色を帯びているのを見てすぐにあぁ、と一人頷いた。結構な時間を眠っていたらしい。 開けたままの窓から、部活を終えたであろう部員の解散を告げる声が聞こえてくる。耳を傾けながら岸谷はずれた眼鏡を片手で直して、聞こえてくる見知らぬ声の中に見知った声が混じっていることに気がつき席を立った。窓の縁に触れてグラウンドを見下ろす。少し先の方で、金髪を夕日に照らす平和島と黒髪を風に揺らす折原の姿があった。 声が聞こえる。何を言っているのか、正確には聞こえてこなかったがそれを想像するのは酷く容易いことだった。平和島と折原の追いかけっこはいまに始まったことではなく、岸谷がふと眼をやるととかく二人は共にいた。朝の通学路、昼の屋上、放課後のグラウンド。日常の一部に二人の姿が共にある。平和島が折原の名を叫び、平和島の声に折原は笑う。伸ばされる手をするするとかわして、触れることのない指先に平和島がますます叫ぶ。そうして、二人の姿は岸谷の視界からどんどんと遠ざかっていった。 「……帰ろう、」 誰とはなしに呟いて、岸谷は小さくなりゆく二人の姿に背中を向けた。夕日が岸谷の背をじんわりと温めて、足元に長い影を作る。その影を見て、いつしかのように岸谷は愛しの首無しの姿を思い描く。家で待っているだろうと思うと自然と頬がだらしなく緩む。そうだ、はやく帰ろう、と胸の中で繰り返しながら鞄を手に取って教室を後にする。 歩む足が速度を増して、岸谷は人気のない廊下をほとんど走るようにして歩いていた。そうして流れる景色の中、自身の教室から三つ離れた折原の教室を前にして岸谷はほんの少し歩みを緩めた。立ち止まりはせずに視線だけをやって中を覗く。当然のことながらそこに折原の姿はなかった。 |
寂しくはないよ、ただ懐かしいだけ |