「おれぁね、いざやさん、」
 今日はあんたに言いたいことがあってきたんです、と本日何度目かになる言葉を告げる声は随分昔に記憶していたそれに比べて若干低い音で吐き出されるようになったが、呂律の回っていないその声はまるで無垢な子供のように幼かった。そのくせ、ぐっと勢いよくビール缶を煽る喉元はしっかりとした男の形をしているのだから、酒の力とは凄いものだなと無意味な感心を抱きながら折原は自身もゆるりと酒を煽った。
 テーブルの上に転がる潰れた空き缶は目測で数えるにはいささか面倒な数に達しており、ぐしゃり、と飲み終えた缶を潰したかと思えばすぐさま新たな缶へと手を伸ばす紀田によって今もなおその量を増やし続けている。
「いざやさん、いざやさん!」
「あー、はいはい、聞いてるよ」
 言葉を返すとふにゃり、といった音が似合うであろう様子で情けなく紀田の表情が崩れた。見るからに容易く機嫌を上昇させ、より一層の勢いで酒を煽る。何がそんなに嬉しいのか、疑問に思わなかったわけではないが、酔っぱらいの相手などするだけ無駄だと決めつけ折原はソファにその身を深く沈めた。やわらかなソファは程よくアルコールを摂取した身体には酷く心地よい。
「いざやさぁーん」
 いらえを返さなくとも紀田の声が途切れることはなかった。BGMにしてはいささかうるさいが、それが人間の声だと思えば許容範囲と言えないものではなく、壊れたテープレコーダーのように名前を呼び続ける紀田を折原は好きにさせた。
 紀田の言う“言いたいこと”が少々気になりはしたが、何度も何度も繰り返す割に先ほどから一向にその続きを言おうとしないのだから、その言葉に意味を求めることはだいぶ前に放棄した。

 腕を投げ出して目を伏せる。聞こえる音が遠ざかって、ふわふわとした意識はそれだけで簡単に夢の世界へと沈んでいけそうだった。いっそこのまま眠ってしまおうかとふっと息を吐く。しかし、遠ざかる意識を引っ張るかのようにして不意にタイミングよくがんっ、と重く大きな音が鳴った。
 何事かと音のした方へ視線をやれば、紀田がテーブルの上に金茶色の頭を沈めていた。紀田の右手から缶ビールが逃げ出して、残り少ない中身がしゅわしゅわと小さく弾けながらテーブルの上を濡らす。
「……、」
 なにしてるんだか、と折原は微かに眉を上げ、心配するどころか少々の呆れを含んだ眼差しで紀田を見た。うぅ、うぅ、と小さな唸り声が聞こえる。気分でも悪いのかと思えば紀田の手は次なる缶ビールを求めてか、そろりそろりとテーブルを這った。払われた空き缶同士がぶつかって、耳障りな音を立てる。折原は思わずため息をついた。
 ソファから腰を上げ紀田のもとへと歩み、倒れた缶ビールを起こして紀田の手の届く範囲から遠ざける。それでもなお缶ビールを求める手の平を叩くと沈んだ頭が緩慢に揺れた。わずかに長さを伸ばした金茶色の髪先が小さなビールの水たまりに触れじわりと湿った色を作った。
 タオルを持ってきた方がいいだろうか。考えてみたが、そこまでするのは面倒で放置する。掃除は紀田が酔いから醒めた時にやらせようと決めた。テーブルを濡らしたのも、空き缶を散らかしたのも自分ではない。けれど、紀田をこのまま放置することは得策ではないのだろうと思う。放っておけない、などという良心というよりも、放っておいて悪化することが面倒だった。
「紀田君」
 呼びかけると肩が大きく揺れた。折原はその肩を揺すろうとして手を伸ばす。もうやめておきなよ、と言うつもりで、けれど、それよりも早く、無造作に放り出されていた紀田の手の平が折原の肩に触れた。
 なに、と聞き返す間もないまま、遠慮も気遣いもなしに強く押されて折原は反射的のように目を瞑る。一瞬の浮遊感。次の瞬間には身体は床へと沈んでいた。肩甲骨がフローリングにぶつかって音を立てる。じわじわとした鈍痛が背中を這うが、痛み自体はさほど大きなものでなく、折原はすぐに閉じていた瞼を押し上げた。天井で光る灯りに目を細めると、すぐに影が覆った。
 何度か瞬きを繰り返して折原は影を見上げる。その先には、やけに真剣な眼差しをした紀田の顔があった。

 思えば、紀田と出会ってから結構な時間が過ぎたと、今さらのように折原は実感する。自動販売機の甘いジュースばかりが似合っていた少年が、今では苦い酒を飲む青年へと成長し、それに伴い、昔は心持ち見下ろすようにして眺めていた顔は今ではわずかに見上げなければ見ることができなくなった。
 小さな子犬を思わせた瞳は徐々に深い色を生み出すようになり、幼さを捨てきれないでいた緩やか肢体はいつの間にか大人のそれに形を変えていた。現に折原の肩を押した手の平は十分すぎるほどに大きくて、自身のものよりも大きいであろうその感触に、随分と立派に成長したものだと、まるで親戚のおじさんにでもなった気持ちで折原は紀田の顔を見上げる。
 いつもと違う雰囲気。けれど、そんな紀田に対して折原が警戒心を抱くことはなかった。別に紀田のことを信頼しているわけではない。ただ、唐突の行動にナイフも拳も向けないくらいには、許していた。
「いざやさん」
 さんざん酒を煽り続けた丸みの削れた頬は真っ赤に染まっていた。おれ、は、と途切れ途切れに言葉を音にする声は相変わらず呂律が回っておらず、最早間抜けなほどである。それなのに、先に比べてその芯は揺るぎようのない意志で固められていた。
 意識すればぎょっとするほど近くにあった紀田の顔が更に近づいて、しかし折原はそれを避けることもとどめることもしないで、ただ紀田を見つめたままでいた。肌と肌が触れ合って耳のすぐ横に熱い息がかかる。
「すき、です」
 多分その瞬間は世界が止まってしまったかのような感覚に似ていたのだと思う。わずかに酒のにおいがする口元から紡がれた言葉はひたすらに真っ直ぐな音をしていて、無駄に着飾らぬだけに折原の鼓膜を強く揺らした。


 どれほど経ったのかはわからない程度の時間が過ぎた頃になって、覆いかぶさる紀田の全身から力が抜けた。隙間もないほどに身体と身体が密着してぐっとのしかかる体重に折原は一瞬息をつめる。
 大方の予想をつけながら首元に落ちた顔を覗き込むと案の定、瞼は上下がぴったりと閉じられており、半開きにされた口元からはすぅすぅと規則正しい寝息が漏れていた。ゆるゆると手を伸ばし、いっそ生意気な程がたいのよくなった肩に今度こそ触れて揺すってみる。だが、聞こえる寝息は一向に途切れることはなく、しばらくその様子を見つめ、折原はそっと息をついて天井を仰いだ。そうして折原は自身が長く息をひそめていたことに気が付いた。
 動いた拍子にビールで湿った髪先が首筋を撫で、くすぐったさに身をよじる。のしかかった身体を押しのけようとして、けれど実際に折原の白い手の平は紀田の肩を離れたのち、当てもなく宙をさまよいやがて自身の目元を覆った。

 酔っぱらいの戯言だと一笑することは容易いことであるはずなのに、じんわりと暗くなった瞼の裏に紀田の眼差しが浮かび上がって折原は眉をしかめる。
「子供だったくせに……、」
 苦し紛れのように呟いてみて、酒に飲まれることなどないはずの頬が妙に熱くなったような、そんな気がして、どうしようもなく声が掠れた。
旅立つ子供