「胸の奥がね、酷く痛むんだ」
 聞こえるか聞こえないか、そんな小さな声で折原はぽつりと呟いた。冷たそうな色をした白い指先が胸元の服をぎゅっと掴んで、まるで彼の心情を表すかのように歪な皺を作る。月明かりもわずかにしかそそがない路地の裏。整った顔は無感動であるはずなのに、その瞳は今にも一滴の涙を流すんじゃないかと錯覚してしまいそうな、そんな色をしていた。
 男である割には長い睫毛を伏せ気味に、折原はこちらを見ようとはしない。微かな声で痛いんだ、と繰り返して、白い指先がより一層に色をなくす。よほどの力が込められているだろうことが伝わって、それとは逆に、平和島の拳からは無意識のうちに力が抜けた。
「……どうして、だ」
 そうして、それを自覚するよりも早く、同じようにして無意識に言葉が漏れた。喉も乾いていないのに声が掠れる。それを平和島はおかしいと感じた。馬鹿にされるだろうかとすぐに懸念するが、けれど、それでいつもの折原に戻るのならばそれは決して悪いことではないのかもしれない。むしろ、そうであるべきはずなのだ。それがいつもの二人の関係だった。目があったら互いに顔をしかめて、周りの迷惑も考えずにぶつかり合い、折原が言葉をよこせば、それに平和島は拳を返す。そうやって、馬鹿みたいに何年も繰り返してきた。
「わから、ない」
 しかし、返ってきたのは相変わらず小さく掠れた微かな声ばかりで、力の抜けた拳など返せるはずもなく、平和島はただその場に立ち尽くした。形作ることのできない指先が、役目を探して意味もなく服の表面を撫でる。
 どうしようもなく、落ち着かない。思いつく言葉がなく、それならばと意味もなく一歩足を進めると、折原の肩が小さく跳ねて、不思議とそれ以上足を進めることができなくなった。
 平和島は立ち尽くしたまま俯く折原を見つめる。その視線に気が付いていないはずがないだろうに、折原は顔を上げようとはしなかった。
「今も、痛むのか……」
「……痛いよ、凄く。すごく……、」
 折原はそこで初めて、本当に泣き出してしまいそうな表情を浮かべた。細い眉をきゅっと寄せて、苦痛に耐えるように唇を噛む。
「痛くて、痛くて……死んでしまいそうなくらい」
 痛い、と折原はゆっくりと息を吸って、同じようにゆっくりと息を吐く。平和島はそれを真似るようにして息を吸おうとして、ひゅっと喉が鳴った。どくり、と胸の奥で心臓が大きく音を立てる。
 それは、折原の言葉を脳裏で繰り返すと、まるで心臓が二つに増えてしまったかのように煩く音を増して、そして速さを増した。脈打つ音が明確で、ぐるぐると血が全身を駆け巡るのを実感する。
 それなのに、指先は酷く冷たい感覚がした。脳に酸素が行き渡っていないかのように頭の中がぐらぐらと揺れて、息をいくら吸っても収まらず、機能を低下させた思考はそれが唯一であるかのように折原の言葉ばかりを繰り返し続けた。やがてその言葉は質量を増して、大きなな意味を持って平和島の意識を覆う。死んでしまいそう。そう言った折原の声は、本当に弱弱しい声をしていた。

「死ぬ、のか」
 ようやくの思いで音にした声は今までで一番掠れた音をしていた。なんて突拍子のない、幼稚な問いかけなのだろうかと、自覚してはいたが今の平和島にはそれ以外の言葉が見つからない。
止めた足を踏み出す。先と同じようにして折原は肩を揺らしたが、今度は立ち止まることはしない。ゆっくりと、しかし着実に互いの距離を縮める。
「なぁ、死ぬのか……?お前、は」
 その間も、問いかける言葉は途切れなかった。答えが欲しくて仕方なく、それなのに折原は応えを返してはくれなかった。胸元をぐっと抑え直して薄い肩を震えさせる。折原のすぐ目の前で立ち止まって、平和島は、いざや、と名前を呼ぼうとして口を噤む。
 行き場のなくなった言葉を飲み込んで、代わりに手を伸ばして触れようとするが、結局それも途中で行き場をなくした。ぱたり、と力なく腕を垂らす。すると、それをきっかけにするようにして胸がずきりと痛んだ。どうしてだかわからないが、重い石が器官に詰まってしまっているかのように息がしづらい。こんな体感は初めてであった。
 平和島は戸惑った。ゆるゆると腕を持ち上げて胸を撫でてみるが痛みが消えることはなく、むしろ塞がれた器官にさらに水が注がれるような感覚で苦しさと痛みが増して、服に跡が残るのも構わないで指先に力を込めた。
「……いてェ」
「え……?」
 思わず呟いて唇を噛むと闇に溶ける髪を揺らしながら折原は顔を上げ、瞳を僅かに見開かせた。そこで初めて目があって、兎を思い出させるようなその赤色に一瞬、痛みが消えたような気がしたが、胸元に添えられたままの指先が視界に映って瞬く間に痛みがぶり返す。近くに物があれば今すぐにでもへし折ってしまいたい衝動に駆られて、それを押さえるのにはなけなしの根気を酷く必要とした。
「しずちゃん、も……痛いの?」
「……あぁ、」
「そっか……」
 折原はどうしてとは尋ねてこなかった。疑うことを知らない子供のように平和島の言葉を受け止めて、しずちゃんも痛いんだ、とぼんやり呟きながら再び顔を伏せる。そうしてすぐにあげた。
「俺と一緒だね」
 眉間に皺を寄せて、けれど折原の唇は弧を描いていた。胸元に手を当てたままではあるが、いつの間にか白かった指先は開かれて歪な皺は緩やかなものに変わっている。釣られて平和島も指先を開いた。しかし、だからと言って息苦しさが変わることはなかった。胸の奥では痛みが続いている。あまりにも痛くて痛くて、今すぐにでもこんな痛み消え去ってしまってほしいとそう思う。そのはずだった。
 それなのに、一緒だね、と笑った緩やかなその音を知覚した瞬間、胸を締め付けるその痛みが酷く愛しいもののように感じられて仕方なく、平和島はともすれば逃がさないようにと見える仕草でもう一度指先に力を込めた。
今日はもう眠れない