銀色の刃に自身の紅い眼が映って見えたかと思えば次の瞬間、手の平にひやりとした感触がした。あ、と声に出したつもりで、しかしそれはナイフがフローリングに落ちる音によって掻き消され実際にはどうだったのかわからない。折原はとり落としたナイフへと視線を落とした。美しくまっさらだったはずの切っ先を汚す赤色を視認して、次いで手の平を広げて見ると親指の付け根がざっくりと切れていた。 ナイフを汚した赤と同じ色をした血が傷口から溢れ手首を伝う。そのままぽたりぽたりと滴ってはフローリングを汚すから、片手で握りこむようにして傷口を押さえた。けれど、愛用していたナイフは思いのほか肌を深く切りつけたらしく、止めようと力強く抑える折原の意思など関係ないまま傷口からは血があふれ続けては指の隙間を軽々と抜け出し、音もないままフローリングへと零れ落ちていった。 無造作に転がるナイフが白刃に夕陽を反射させて折原の目を焦がす。外に目をやれば、空の根元から影色が伸びており、すぐに夜が訪れることが知れた。それでも、目元を照らし続ける夕日は眩しくて仕方なく、折原は落としたままであったナイフを拾い上げるとその白刃を折りたたんだ。 ぱちり、と聞きなれていたであろう音が鳴って目元を照らす光が消え、その代りのようにして、手を放した傷口がより一層に強く脈打ったような感覚がした。伴うように手首を伝う血液の量が多くなる。手当てしなければと思いはするが、いつからかぼんやりと胸の内に浮かぶ倦怠感に全身を支配されて動き出す気になれず、手首を擽りながら滴り続ける血を折原は好きにさせた。 フローリングに手の平の大きさにも満たない小さな泉ができる。それは到底死に至る量ではなかったので、どこまで大きくなるのかな、と意味もなく観察しよう目を向けるが、不意に大きな手の平が傷を負った手の平を奪いそれは叶うことはなくなった。 「どうした、これ」 低い声に振り返ると、いつの間にか男がそこに立っていた。じわりと眉間に皺がよった表情。けれど、怒っているわけではないのだと折原はわかっていたから素直にナイフを受け取り損ねて切ってしまったと告げた。なにしたに来たとも、なんで来たとも、今更もう聞きはしない。 いつ切った。ついさっき。痛いか。別に。そうか。うん。短い単語ばかりの会話を交わして男が弱い力で手を引くので折原はフローリングから腰を起こした。男はさらに腕を引き、そのまま歩みを進める。 どこに行くのだろうと大きな背中を眺めながら素直について行くと洗面所に連れて行かれ、絵の具の赤色でもぶちまけてしまったような両の手の平を洗われた。傷口に冷たい水が触れて、そのピリピリとした感覚に折原の肩が反射的に跳ねる。すると男が小さな子供をあやす様にしてするりと肩を撫でた。我慢しろ、なんていったい誰に向かって言っているつもりなのか、それすらも今更すぎて尋ねる気になどならない。 男の指先は少し震えているように見えた。きっと器用という言葉からはひどく遠い場所に存在しているからだろう。じれったくなるほど慎重な手つきで男はガーゼを傷口へと当てる。覆うようにしてテープを巻いて、男はキツくないかと尋ねては折原を見た。何度も、何度も。しつこい、といくら文句を言っても、自身の膂力を正確に理解していた男は決して尋ねることをやめようとはしない。 だから、折原はその度にしつこいと文句を言い続けた。不器用な指先ではあれど、そんなことを何度も訊かなくとも男の指先は綺麗に力を使えていることを折原は知っている。 そうやって幾度も同じやり取りを繰り返しながらテープを巻き終えた頃には、窓の外で日はその姿のほとんどを向こう側へと沈めていた。男は余ったテープを白い箱にしまうと、折原をその場に残したまま立ち上がりそれを定位置に置きながら視界から姿を消す。 遠くの方から足音が聞こえて、それはまばたきが二桁にも満たないうちに戻ってきた。見上げると男の手にはどことなくくたびれた色をしたタオルが握られており、フローリングに残されたままであった折原が作り出した赤い泉はそのくたびれた色をしたタオルによって跡形もなく姿を消した。 まるで初めからそこには何もなかったかのように消されていくその様を折原はじっと見つめていたが、いざや、と不意に男が名前を呼ぶから、折原はその顔を上げた。なに、と尋ねると男は手の平を差し出す。もう一度、なに、と繰り返そうとして、その前に男はナイフと一言だけ告げた。 折原はそこで初めて自分が片手にナイフを持ったままであることに気が付き、手元に視線を落とした。いざや、と男が呼ぶ。言い聞かせるような声色に、ああぁ、それはナイフを渡せという意味かと理解して折原は差し出された手の平と自身の手の平を見比べたのちに、ゆっくりとナイフを差し出した。 「もう触るな」 男の手の平がナイフを奪う。男の言葉に折原は肯定も拒絶もせずにいたが、きっとあのナイフが自身の手の内にかえることはないのだろうと、漠然とした思いを抱きながら折原は遠くにやられたナイフを見つめた。 いつからだろうか。膂力に恵まれていない折原にとってナイフとはまさしく己の身を守る武器の一つであった。それなのに気がつけば、ナイフの扱いがままならないことはおろか、初めてそれを手にした日のことすら思い出せない。もう、ずっと前から。 一番初めに零れ落とした記憶は何だったのか、折原は覚えていない。取るに足らない記憶だったのか、それとも何か大事な記憶だったのかすらわからないまま、いつの間にかそれは指の隙間から上手に抜け出す血と同じようにしてぽたりぽたりと折原の頭から零れ落ちていってしまった。 あとに残るのは零れ落としてしまったという僅かな感覚だけで、最近ではその感覚すらも忘れ始めているようなそんな気がしてならず、深く眠れない日々が続いている。浅い眠りは一時の逃避すら許さず、だからと言ってそれをどうにかすることは不可能に限りなく近くて、まるで幼児が足を進めるような速度でゆっくりと記憶が零れ落ちる感覚は折原にとっては恐怖でしかない。 どうせ零れ落としてしまうのならすべて一思いに、零れ落としてしまったという感覚すらまとめて自分の方から捨ててしまえればいいのに、そんな風に思っては、叶うはずもできるはずもない淡い希望にただ黙って目を伏せざるを得ない。 身を小さく丸めて息を潜ませる。できることなら最後のその時まで一人でそうしていたかった。けれど、男がそれを許さなかった。 ほんの少しの重みも感じさせない動作で男は折原を抱き上げた。ぶれることもなく安定した足取りで進むそれは安心感を生むには十分ではあるが、同時にどうしようもないほどの理不尽さをも生み出すから、折原はたったの一度だって男の首元には腕を伸ばさない。 迷うことなく、男の足は一直線に寝室へと向かう。不器用な指先をしているくせに、折原の身体を片手だけで器用に抱え直して扉を開けた。そうして片手ですら揺らぐことのない力強さとは裏腹に、恐ろしく優しげな仕草で折原の身体をベッドへと横たわらせた。 男の腕が遠ざかって、代わりにさわり心地のいいシーツがするりと肌を撫でるが、無人のベッドはひどく冷たく感じて折原はシーツに片頬を押し付けて背を丸める。それをどう思ったのか、それとも最初からそうするつもりだったのか、ぎしりとわずかにベッドが音を立ててすぐに確かな温度を持った男の腕が折原の身体を抱きしめた。 身体と身体が隙間なく密着する。衣服を通して男の温度を感じ、距離を取ろうと身じろぎすると、腰に腕を回されて引き寄せられた。するすると布が静かな音を立てて、耳のすぐ近くでは男が穏やかに呼吸を繰り返す音が聞こえた。 背筋がざわざわと不安定に揺れ、手の平を握る。男に手当てされたばかりの傷がわずかに痛んで、もう一度身じろぎをすると今度は頭の天辺から毛先へと滑らせるようにして髪をゆるりと撫でられた。まるで怖い夢を見た子供を寝かしつけるような仕草。 思わず、何も怖いことなどありはしないのだと錯覚してしまいそうになって、けれどそれは逆に折原の呼吸を苦しくさせた。どこかの器官をぐっと鷲掴みにされたような感覚に脳が揺れ、あまりにも苦しくて苦しくて、止めてほしいと強く思う。 いまさらそんな風に優しくて、一体何のつもりなの。そんなことをしてみせたって、全部全部無駄なことなのに。優しさしか知らない人間みたいに、真っ赤な手の平を綺麗にしたって、何度も何度も声をかけ続けたって、その身をもってこの身体を温めたって、どうせ、どうせ。 「ぜんぶわすれてしまうのに、」 蚊の鳴くような声で思わず呟くと、それは随分と鋭利に折原の胸を傷つけた。手の平を切り裂いたナイフなんかよりも、ずっとずっと鋭く深く。そして、恐らくそれは男も同様だっただろう。むしろ、男の方が痛みは強かったのかもしれない。折原が泣いて喚いて暴れても、結局はいずれ忘れてしまう。恐怖に震える身体も、髪を撫でる男の手の平も、たった今しがた呟いた言葉でさえ、いずれは折原の頭から音もなく零れ落ちていく。けれど、男は違う。折原が忘れてしまっても、男は忘れずに覚えている。 忘れることと忘れられることのどちらが辛いかなんて折原にはわからなかった。だが、忘れてしまったことと忘れられてしまったことならば、きっと忘れられてしまった方が辛いのだろうと思う。誰にも知りえず誰にも共感されない記憶はきっと存在しないも同然だ。 互いが互いに忘れられたなら、それが最悪中の最善であったのかもしれない。しかし、気は短いくせに妙に情の深い男だ。忘れたくとも罪悪感が胸を巣食って忘れられないだろう姿が容易に想像することができた。だから、ねぇ。折原は閉ざされゆく唇を開く。俺が忘れてしまった分だけ君も。 「きみも、わすれてしまうといいよ」 きみ、と示す言葉が随分と余所余所しい音をしていた。けれど、折原にはどうしても男の名前が呼べなかった。呼ぼうとして、もしその名前すら気がつかないうちに忘れてしまっていたら。そう思うと、以前のように呼ぶことなどできはしなかった。目を逸らしているだけだとわかっていたが、そのほうがきっと楽だから。 誰ともなしに言い訳をして折原は男の手の平を拒むようにして膝を折り、更に身を小さく丸めた。それなのに男は手を伸ばして折原の身体に触れた。全身を使い、包み込むようにして折原の身体を抱きしめ、忘れねぇよ、と絞り出すような声で言った。なんて下手くそな音。上手に音を作り出すことができないのなら黙ってしまえばいいのに、男は言う。 「てめぇの分まで俺が全部覚えてる」 温かな手が震える背中を撫で続ける。眠りたくなどないのに優しいばかりの温度に自然と瞼が下がっていった。否応なしに意識が遠ざかって、ゆらりゆらりと揺れる意識の合間、馬鹿じゃないの、と思わず告げると、うるせぇよ馬鹿、と男は苦々しい声で笑った。 「ほんとうに、ばか、だね」 君が全部覚えていたところでそれがいったい何になるの。 思い浮かんだ言葉は、けれど実際に音になることはなく、目じりから溢れた透明な雫と一緒にどこかへ零れ落ち消えた。 いっそのこと、男が大嘘つきの法螺吹き野郎であったのなら一緒になって笑えたかもしれない。それなのに、そうしてしまうには男の下手くそな音をした声はあまりにも真実味を帯びていて、今しがた告げた言葉が決して覆されることはないであろうことがわかってしまったから、溢れた雫は次第にその量を増して一向に止まりやしなかった。 |
ひびの隙間に花ひとつ |