音も立てずに冷たい風が吹く。それはたいして強いものではなかったが、袖口から忍び込んだ冷気はするすると上手に衣服の合間を滑りぬけては幽の身体をひどく震わせた。鞄を手にしたむき出しの指先がかじかんで仕方がない。
 少しでも寒さを紛らわそうと、きゅっと全身の筋肉を強張らせるが大した働きはなく、代わりに真っ白な色をしたマフラーへと顔をうずめた。鞄を持つ手を入れ替えて、ポケットへと片手を突っ込む。あらかじめ忍ばせていたカイロを握り、ようやく得られた温もりにほっと白い息を吐いた。

 今日は会えるだろうか。会えないだろうか。胸の内側で呟いて、歩みを進める。
 するとまるで図ったかのようなタイミングで、小走りに駆け寄ってくる足音が背後から聞こえた。それが彼の足音だと決まったわけでもないのに、思わずポケットに突っこんだままの手の平を緩やかに握る。
 自然と歩む速度が遅くなり、幼稚園児でももっと早く歩けるだろう速度でゆっくりと歩く。そうして遂には、幽くん、と耳触りの良い声に呼ばれぴたりと立ち止まった。振り返るとそこには瞳と同じ色をしたマフラーを風に揺らす彼の姿がある。幽は彼の名前を小さく呟いて、軽く頭を下げた。彼は久しぶりってほどでもないかな、と微笑みながら幽の隣に立つ。
「隣いいかな?」
「はい、」
 もちろんです、という言葉は飲み込んで、代わりに幽は大きく頷いた。それを合図に彼は緩やかに足を進め、幽はその半歩後ろを着いていくようにして歩き出す。交わす言葉はいつも決まって他愛のない世間話だ。特別なものなどなにもない。彼が話して、幽が応えを返す。ただそれだけ。
 淀みなく綺麗なリズムで話す彼の言葉は心地の良く、対して自分の返す言葉は短い文字の並びだったり頷きだったりと我ながら無愛想で面白味のないものだったが、彼は一度だって嫌な顔を見せたりなどしなかった。彼は自身の呼吸を乱さず、かといってこちらの呼吸を乱すことなく、ただ、重ねるようにして息をする。
 やがて彼が口を閉ざし、互いの間に沈黙が落ちても不思議と気まずさは感じなくて、ゆっくりと時間が過ぎ去っていくような感覚に幽は無理に言葉を作ることはしなかった。


 風が相変わらず音もなく吹き続ける。道の隅っこの方で枯葉に似た何かが揺れた。かと思えば、不意打ちでもするようにして風が強く吹いた。ひゅっと鋭い音がして耳元を覆っていた髪が一瞬舞い上がり、むき出しにされた耳がきんと痛む。
 幽は思わず身震いをしながらマフラーを強く抑えた。見ると、彼も同じようにしてマフラーを押さえていた。両手をこすり合わせながら真っ白な息を吐いて、今日も寒いね、と独り言のように彼はぽつりと呟く。
 視線を少し下へと落すと白い色をしているはずの指の関節がところどころ痛々しげな赤色に染まっていた。彼には赤色がよく似合う。けれど、指の赤色はそこだけが不自然に浮き上がり、どう見ても彼には不似合いで幽は眉間にほんの少しの力を込めた。
「あの、」
 小さく息を吸って、ぎゅっと指先を握りしめて暖かさを確認する。じわりじわりと伝わる温度はいまだに変わることはなく、これならば、と吸ったばかりの息を吐いて幽は彼を見た。
「よかったら、使ってください」
「え……?」
 ポケットからカイロを取り出してそのまま彼へと差しだす。互いの足はいつの間にか止まっていて、彼は僅かに目を丸めて幽を見ていた。カイロへと視線を落とし、そしてすぐに見上げるようにして見つめ返される。良いの?とこちらを伺う声からはわずかな遠慮が感じ取ることができて、幽は会った時と同じようにしてすぐに大きく頷いた。
 腕を伸ばして彼の手に触れる。そのまま赤くなった指先をそっと開かせて、手の平の上にカイロを乗せた。彼はまだ少し何かを考えているようなそぶりを見せたが、幽がもう一度使ってくださいと告げて手を戻すとゆるりと頷く。
「それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
 そう言って彼は、ありがとう幽くん、と両の手の平でカイロを握りしめ、それこそ今すぐにでも雑誌のトップを飾れるような端整さでにこりと微笑んだ。温もりを失った指先が風に吹かれて途端に冷える。しかし、それとは反対に頬がギュッと血液が集まったような感覚がして熱い。
 触れてしまった事実を今更のように認識して、応えを返すのも精いっぱいに、幽はマフラーへと顔をうずめた。こんな時ばかりは変化の現れにくい自身の体質に感謝してやまない。そうして、そのきっかけをくれた兄にも。だとしても、その理由を実際に言葉にして兄に伝えれば、眉間に皺を寄せて大いに怒り狂うであろうことが容易に想像できたから、決して口にすることはないけれど。

 兄と彼が不仲だということを幽は知っていた。だが、どういう経由で知り合い、どのようにして今のようなスタンスを築いたのかまではよく知らないでいる。けれど、そんなことはどうでもいいことなのだろうと幽は思っていた。どれだけ兄と彼の関係が険悪なものであっても、幽までもが兄と同じ態度をとる必要はない。
 兄は兄で、自分は自分だ。兄という人間が多くの人たちの目からは恐ろしい乱暴者のように見えても、幽にとっては優しく頼りがいのある大切な家族の一人であるのと同じように、兄にとって彼という人間がどうしようもなく気に入らない最低最悪の存在であっても、幽からしてみれば彼という存在はいつだって兄の言う言葉とは全然違う色をしていた。
 白でも黒でもないような色。その色は十二分に幽の意識を引き付けて、いくら眺めていても飽きることなどない。


 顔を前に向けたまま、幽は視線だけを彼へとやった。気が付かれないようにしたつもりだったが、彼はすぐに気が付いてゆるりと首を傾ける。
「どうかした?」
 色彩の鮮やかな瞳で見つめ返され、幽は思わず肩を揺らした。あ、と小さく声を漏らすものの特にこれと言って告げたい言葉があったわけではなく、あえて理由を挙げるなら、ただなんとなく顔が見たかったから。
 素直に言葉にしようかどうかと少し考えてみて、しかしそれはなんだか照れくさいような気がして仕方なく、結局は、何でもないです、と幽は少しあわてながら返した。そうしてすぐに、じろじろと眺めておいて不躾な応えだと自身でも思い、気分を害させてしまったかもしれないと不安になった。
 何か言った方がいいかと思うが良い言葉が思い浮かばず、真っ直ぐに彼の顔を見ていられなくなって視線を落とす。
「変な幽くん」
 しかし、幽の懸念に反して彼の声はひどく穏やかな音をしていた。顔を上げると彼はくすくすと喉を震わせるようにして笑っており、弧を描いた口元があどけなく、細められた双眸が美しい。途端に、落ち着きかけたはずの頬が新たな熱を持った。

 彼の胸の内を一度も疑ったことがないわけではない。
 都合のいいように欺かれているのではないか、いつか突き放されるのでは、そんな疑惑が常に頭の片隅にひっそりと存在し続けていて、ふとした瞬間、いつしか兄が忠告したように遠く離れたところに立って深く関わらずにいた方が良いのではないかと思っていたりする。傷つかないでいられるのなら、それに越したことはない。
 けれど、疑うのと同じくらい、思っていることがあった。たとえば仮に、その美しい顔の下では仄暗い考えや自分を陥れる策略をしていたとして、実際に裏切り傷つけられたとしても、触れた指先の形だとか無為な眼差しだとか緩やかな歩調だとか、ありがとうと言って穏やかに微笑んだ甘さの全てが全て偽りだったわけではないのだろう、とそんな風に思って、いる。
 根拠も確信もないそれは、ただの願望と言ってしまったら返す言葉もなくそれまでだ。愚かなだけなのかもしれない。自覚はしていた。それでも、幽くん、と澄んだ声に呼ばれるたびに幽の鼓動は常よりも鼓動を速めて脈を打ち、まろやかで暖かい春のような色に染まる。
 できることなら、終わりの日など永遠に来なければいいのに。幽は想っている。
はじめての胸の色