冷たい温度をしたドアノブに触れると、男はきまって声をかけてきた。低い声で、いざや、と名前を読んだり、ただ無愛想に、おい、と投げかけたり、形は様々であったが、とにかく男は折原を呼び止めた。帰るのか、と見ればわかるだろうと言いたくなる問いを投げかけて、折原の足を止めさせる。じっとこちらを見る目は真っ直ぐに、固い。
 折原は男の言葉に、帰るよ、と当然のように肯定の言葉を投げ返す。すると男は、そうか、と頷いてそれ以上の言葉を噤んだ。その癖いつもなにか言いたげな目をして折原を見た。告げる言葉を知らないのか、それとも隠しているつもりなのか、なに、と問い返しても、男は肯定も否定もせずに何も言わない。眉間に皺を寄せて、苛立ちではない何かを纏って立っている。無視してもいいのだがろうが、気にならないわけではないから無視しきることはできなかった。けれど、こちらから告げるような言葉は見つからない。

 明確な言葉が存在するような関係じゃなかった。曖昧な情緒のまま触れあって、気が付いたらそうすることが当り前になっていた。だから、互いに何も言えないのだろと思う。全ての感情を素直に口にするには何もかもが不安定すぎて、途切れず終わらない沈黙はひどく居心地が悪かった。だから、折原は出てこない言葉を作る代わりに数を数えることにした。一番初めの1から始まって、15秒。15秒したら、折原は男に背を向ける。



 かたかたと窓が揺れるようなな音が聞こえて、意識がするりと引きずりあげられた。一体なんだろうかと折原は瞼を持ち上げ、しかし、またすぐに下す。一度、二度と何度かそれを繰り返し、結局は瞼を下して長くゆるやかに息を吐いた。
 身体を横たわらせたまま、シーツの上に手の平を這わす。指先に自分のものではない携帯電話がぶつかって、折原はそれを指先で包むとしゅるりしゅるりとシーツに皺を作りながら胸へと連れ帰った。持ち主の許可も取らずにフリップを開き、淡い光に目を細める。
 寝起きにはいささか眩しいその先、ディスプレイの右上にぽつりと浮かぶデジタルな数字は五時を過ぎた頃を示していた。あくびを一つかみ殺して窓を振り返る。カーテンの隙間から除く向こう側はまだまだ暗く、かたかたと鳴り揺れるその窓の姿に折原は思わず眉間に皺を寄せた。
 携帯電話を元あった場所へと戻して、腰に回る重たい腕をどかし身を起こす。途端に冷たい空気が肌を撫で、剥き出しの肩が震えた。視線を辺りにやって、床に無造作に放られている白いシャツを見つけ手を伸ばす。そのシャツは先の携帯電話と同様自分自身のものではなかったが、折原はそれに頓着することはなく腕を通した。
 面倒だから、ボタンは閉めないまま。温もりなどとうに無くなっていたが、一時しのぎには十分であった。どうせすぐに吹きすさぶあの風の中へと赴くのだ。折原は自身の首筋をするりと撫でた。指先との温度差に息を吐いて、緩慢に瞬きを繰り返す。

「風が吹いてんな」
 ふいに、つい先ほどどかしたばかりの腕が再び腰へと回された。自分よりもよっぽど高い体温をしているくせに、まるで暖を取るようにして痛くない程度の力が腕に籠められ身体を引かれる。
 起きてたの、なんて解かりきったことなどわざわざ口にしない。後頭部に安物の枕の感触を感じながら、そっと視線を移して隣を見ると男の鷲を思わせる色をした目が静かに折原を見つめていた。そこに大きな感情の揺れは見えない。
 寝起きの男は存外穏やかだ。名も知らない誰かを前にした時のギラついた獣の気配が嘘のように、牙や爪を立てることはおろか、まるでそうすることしか知らない野良犬のようにうるさく吠えたてて威嚇することもない。それは初めての時から同じだった。もう両の指だけではもう足りなくなってしまったほど昔の出来事。けれど折原は、よく覚えている。

 言葉は返さないまま身体を起こしなおし、触れてくる男の腕をもう一度押しのけると、腕はその場からどく協力はしないものの、再びしつこく触れてくることもなかった。
 暖かな毛布を惜しみながら、男二人が眠るには少々狭いベットから抜け出す。毎晩のように男の体重を受けて僅かに沈んだ畳に足をおろして身体を伸ばすとどこかの箇所で小さな音が鳴った。痛みはないが、覚えのある気怠さが全身をめぐる。
 いつの間にか馴染んでしまっていた。しかし、それも最近は時折ほんの少し辛くなっている。その理由はあまり考えたくはない。だから全ては男のせいにして、折原は床に放られたままであった自身の衣服を一つ一つ拾い上げた。
 後ろでは、男が身を起こす気配がした。ごそごそと何かを探すような音がして、すぐに、かちり、と鳴るライターの音が聞こえる。その音に、煙草を吸っているのだとわかって、折原は男が吐き出す煙がこちらに届く前に洗面所へと向かった。


 空の洗濯籠に衣服を置いて、洗面台の前に立つ。目の前の鏡にうつる首元には3つの淡い色が散りばめられていた。指で触れてみても痛まない、ただの色。折原はすぐに視線をそらして鏡の手前に置かれた歯磨き粉を手を伸ばした。
 強いミントの香りのするその歯磨き粉は折原のお気に入りだ。これでなければ不思議と磨いた気になれない。興味をひかれたらしく一度だけこの歯磨き粉を使った男は辛すぎて嫌だと文句を言っていたが折原はどうしてもこれでなければ嫌だとごねて唯一男の部屋に物を持ち置いた。今もそれは捨てられることはなく、まるで二組の双子のようにして二つずつの歯ブラシと歯磨き粉は並んだままでいる。
 折原は、適当に歯磨き粉をのせて歯ブラシを口に含んだ。ゆるゆると手を動かして、歯を磨く。徐々に口内を刺激する強いミントの香りに、ようやく折原ははっきりと目が覚めたような感覚がした。

 両手で水を掬って口をゆすぐ。ついでに一緒に顔を洗って、はぁ、と息をついた。ぽたぽたと顎を伝う水滴に気をつけながら手探りでタオルを掴み、そっと顔に押しつける。しっかりと柔軟剤も使われて洗われただろう柔らかなタオルからは、あの男にはまるで似合わないような優しげな洗剤のにおいがして少し笑う。
「なに、わらってんだ」
 振り返ると上半身だけを裸にした男があちこちにはねてぼさぼさになった髪をかき回しながらそこに立っていた。もう吸い終わってしまったのか、煙草もなにも持たぬ両手は僅かなにおいだけを残している。洗剤なんかよりもよっぽど男に似合ったにおいだ。思いながら折原は首を横に振る。
「べつに、なんでもないさ」
 言って、無造作にタオルを洗濯機の中に放った。男は訝しむように表情を変えて、けれど特にこれと言って追及してはこなかった。代わりに、折原のものとは違う歯ブラシと歯磨き粉に手を伸ばす。狭い空間だというのに無理に身体を詰めるから、男の胸に背中を押されて前かがみに身体が丸まった。
 ちょっと、と文句を言って折原は身をよじってその場から離れる。男は少し笑ったような息を吐きながら折原を見て、すぐに鏡へと向きなおった。その反応に思わず、広い背中を叩く。それでもやはり男は笑ったような息を吐いた。
 面白くない。しかし、それ以上の反応は子供すぎるだろうから、折原は黙って男に背を向けると、洗濯かごに置いた衣服に手をとった。洗ってもいない衣服を再び身に着けるのに抵抗を覚えないわけではないが仕方ない。流石に下着ばかりは以前に用意しておいた新品を使用して、折原はジーンズへと足を通し、自分のものではないシャツを脱ぐ。
 そのまま先ほど使ったタオルと同じように洗濯機の中に突っ込もうとして、それよりもはやく男の手にシャツを奪われた。振り向いてみると、白色に青色が混じった歯ブラシを口に突っこんだままの男は、折原が肩をひどく余らせて着たそのシャツをぴたりと上手に合わせて着てみせた。本来の持ち主であるのだからそれは当たり前なのだけれど、ほんの少し忌々しく思いながら折原は自身のものであるシャツを頭からかぶると今度こそきっちりと男に背を向けその場を離れた。



***


 リビングに戻ると強く煙草のにおいがした。辿ってみると、机の上に置かれた灰皿にまだ半分以上残ったままの煙草が火をつけたまま放置されていた。どうせなら、吸いきるか消すかしてしまえばいいのに、と思いながら折原はコートを手に取った。
 寒さで少しかじかむ指先でコートのボタンをかけて、すぐに玄関へと向かう。外はまだ日が昇らず薄暗く、風が強く吹いたままであったが関係なかった。早朝であろうとなかろうと、たとえば雨が降っていてもいなくても、一度目が覚めたらこの場には留まらない。そう決めていた。でなければ、きっと背中を向けるタイミングがつかめない。
 綺麗にそろえた靴を履いて、ドアノブに指をかけ一呼吸。ひやりとした感触に少し二の足を踏むが、それもすぐ消える。じゃあ、またね。形ばかりのあいさつをひっそりと吐き出して、折原はドアノブを回す。そうすれば、声が聞こえる。
「いざや」
 わかっていたから、驚きは無いに等しい。いつものことだ。振り返ってみれば、やはりそこには男が立っていた。折原は瞬きを繰り返して男を見る。髪は相変わらずぼさぼさのままで、シャツが少し濡れていた。いったい何をしに洗面所まで行ったのか、少しあきれる。数は、まだ数えない。数えるにはまだ少し早い。
「帰るのか」
「…うん、」
 帰るよ。いつもの言葉にいつもの言葉を返す。男はそうか、と頷く。徐々に眉間によっていく皺をぼんやりと眺めながら、なに、と折原は問いかけた。男は答えない。男はただゆっくりと瞬きをして、口を一文字に結ぶ。折原はドアノブから手を放して、男に向き直った。ポケットに両手を突っ込み、その中で軽くこぶしを握る。そうして、そこでようやく折原は数を数え始めた。
 いち、にぃ、さん。時計の秒針に比べるといささか遅いが、常に一定の間隔でなれた数字を声に出さずに呟く。全てが、いつもと同じ。折原も、そして男も、何も言わないで互いの色の違った目を見る。まるで録画した映像を流しているような感覚だった。繰り返し続けて、いい加減擦り切れてしまいそうなほど。
 いい加減、潮時なのかもしれない。最近、折原はよく思う。目覚めが悪くなった朝や消えづらくなってきた痕を見ると、特に。嫌になったわけではない。終わらせたいわけでもない。それでも、いつかは終わらせなければいけないのだろうと思う。このまま二人で永遠を過ごすには、互いの間にあるものがあまりにも曖昧すぎた。今はまだ大丈夫でも、きっといつか辛くなる。
 だったら、離れるのは早い方がいい。無駄なことに時間を割いてはいられない。恐らく、目の前の男も同じことを考えているに違いなかった。ただ、言葉にすることができない。そもそも、簡単に口にできていたのならこんな関係にはなっていなかっただろうから、今さらなことなのだけれど。考えながら、折原は数を数え続ける。あともう少し。そのはずだった。だが、今日は違っていた。

 がしゃん、と外から音が聞こえた。何かが割れるような音。不意打ちのように聞こえたそれに、折原は肩を揺らした。見えるわけもないのについつい玄関を見た。かた、かた、と扉が揺れ、小さな隙間からびゅうびゅうと風の吹く音が聞こえる。恐らく外に置かれた植木鉢か何かが強風にあおられて倒れでもしたのだろう。
 折原は検討をつけて、すぐに、あ、と思った。意識がそがれて、数えていた数を忘れてしまった。たったそれだけのことだったが、今まで何度も数を数えてきて、途中で途切れてしまったことなどなかったから折原はほんの少しだけ動揺して思考を揺らす。だからだろうか。折原は唐突に腕を引かれた感覚に対応することができなかった。
「えっ……、」
 思わず声が漏れた。バランスを崩した足がたたらを踏んで、玄関の段差を乗り上げた片足が土足のままフローリングを汚す。しかし、それを気にすることはできなかった。高い体温がやけに近くに感じる。それは、もうすっかり慣れてしまった男の温度であるはずなのに、折原は自身の心臓が大きく跳ねたような気がした。
 なにするの、と口にする声が震える。抱きしめられて条件反射のようにして腕を突っぱねたが、男の身体はびくともしなかった。それどころか、背中に回された腕を引かれて一層強く抱きしめられる。痛くはなかったが、少し息が詰まった。なぜこんなことになっているのか、意味が分からない。こんなこと、一度もなかったはずだ。

「なん、なの…」
 ほんの少しの沈黙を挟んで、いささか落ち着きを取り戻した声で折原はたずねる。身体は変わらずに男に束縛されたままであったが、触れ合うこと自体は何度も繰り返した来たことだからすぐに慣れた。ただ状況だけがわからず動揺する。男を見ようとするものの、肩に埋めるようにして後頭部を抑えられてそれすらもままならない。ねぇ、ともう一度呼びかける。すると、ようやく男は一文字に結んだその口を開いた。
「帰るなよ」
 折原の問いなど端から端まですべて無視した言葉だった。なに言ってるの。そう言おうとして、煙草のにおいがする指先に首筋を撫でられ折原は肩をすくめた。
「な、なに」
「だから……、帰るな、よ」
「……なんで」
 つ、と押されるような感覚がして、残した痕に触れているのだとすぐに気が付く。だが、男の言葉はわからず、折原は首をかしげた。
「なんで、って、」
 男は言葉に詰まらせた。後頭部の手の平から徐々に力が抜けて、ようやく顔を上げることができて男の顔を見る。男はじっと折原を見ていた。目が合うと分かりやすく視線を揺らして、そのくせ逸らしはしない。
 だから、折原も視線を逸らさないように、と気を付けて男を見た。意味がわからないよ、と呟いて、続けて男の名前を呼ぶ。すると男はただでさえぼさぼさの頭を乱しながらあー、もー、だから!と声を荒げた。
「一緒に暮らさねぇか、っつってんだよ!」
 びりびりと耳がしびれた。それが声音のせいなのか、それとも告げられた言葉のせいなのか、わからないまま、折原は呆然とその言葉を脳内で繰り返して、男を見上げる。触れられた肌が熱い。今度は、何言ってんの、とすら返すことはできなかった。
「………」
「………っ、」
「………、……」
「な、んか、言えよ」
 今しがたの怒鳴り声が嘘のような情けない声。そのうえ、隠し切れない焦燥をにじませた声だった。触れた男の身体からじんわりと鼓動が伝わる。いつもより速いその振動に、無意識のうちに強張らせていた肩の力が今度こそ完璧に抜けた。
 はっ、と息を吐くと頭が落ち着きを取り戻すのを感じる。今更のように言葉の意味を理解して、間違いではないのかと一瞬思うが、男の表情にそれはないとすぐにわかった。すると途端に笑い出したくてしょうがなくなって、折原は更に息を漏らした。

 いきなりどうしたの、だとか、いろんな順序すっ飛ばしてない?だとか、告げる言葉は沢山あったはずだった。けれど、その数ある言葉の中で折原は一つ、ばかみたいだ、と選んで呟く。自分が潮時だと考えている一方でこの男はそんな言葉をずっと噤んでいたなんて、そんなこと、ばかみたいだとしか言えなかった。
 案の定、男は怒ったように眉間に皺を寄せた。いざや、今日何度目かになる名前を呼ばれて、腰を引き寄せられる。そういう意味で言ったわけではないのに、と折原は弁解する気にもなれなかった。それよりも大切なこと。


 男と出会って、人生の半分と同等の年月が過ぎた。その中で更に数えきれないほどの夜を一緒にして、同じ数だけその傍を離れた。その度に男は折原を呼び止めて、呼ばれるままに折原は歩みを止めた。そのまま、噤み続けられる音にならない言葉の先を一体どれほどの間、待ってやったことか知れない。
 確かに、こちらから言葉をやることはしなかった。できなかった。それでもしっかりと折原は、足を止めて、振り返って、目を見返して、一度も逃すことなく、なに、と問い返し続けた。初めて男が呼びとめたその時と、そして今日のこの瞬間を除いて、二度目の時も、三度目の時も、ぎしぎしと全身の筋肉が辛い時も、ついつい寝すぎて仕事の待ち合わせに遅れそうな時も、きっかり15秒、折原は数えた。ばかみたいに数え続けた。
(ねぇ、このいみをきみはわかってる?)

 男が更なる言葉を口にしようとして、しかし、それが音になるよりも先に折原は手を伸ばした。男の髪に触れて、そして耳元に唇を寄せ囁く。
「     、        」
さよならはまた明日
42138hitリクエスト、from豆腐小僧さん
(関係がうやむやなまま人生の半分以上を一緒に過ごして30という節目に突入し、静雄が交際すっ飛ばしていきなりプロポーズ)