いつも凛として微笑む折原の瞳がまるく瞬くのをひどく近い距離で見つめていた。誰もが消え失せた二人きりの教室では何もかもが沈黙を貫いて、そのくせドクドクと脈打つ音が耳の後ろでうるさくて仕方がない。 チョークの白い色が残る黒板に触れて乾いた手の平が汗で濡れて気持ち悪く、思わず爪を立てると猫が悲鳴を上げたみたいな不愉快な音がしたが、そんな音も気にならないほど、ただひたすらに必死だった。一挙手一投足、全てを逃したくなくて折原をじっと見つめ続ける。すぐ目の前で長く重たげな睫毛が上下に揺れて、独特の色をした瞳が一瞬隠れたかと思うとまたすぐに見つめ返され、思わず息が詰まった。 白い頬が赤色に染まって、二つの赤と足りない酸素にじわりと脳が痺れる。逃げられないようにと退路を塞いだのは自分自身の両腕の方だというのに、本当の意味で捕らわれているのは間違いなく平和島自身の方であった。 身長も体格も腕力も全て平和島の方が勝っていたが、この場ではそんなものになんの意味はない。名前を呼ばれる。たったそれだけで情けなく肩が跳ねた。しかし、それすらも気にしている余裕はなく、期待と恐怖が混じった感情が心臓をより一層うるさく鳴り響かせる。自分ではどうすることもできないものだった。 びっ、と破れる音がした。小さくではあったが、それはとても無情な響きをしていた。じっと見つめる指先のすぐ下では、空の色とよく似た色をした淡い色紙が些細な役目を果たし損ねて無残な姿をさらしている。思わず、ぐっ、と息を飲んだ。目の前のありさまを受け止めきれないようにして瞬きを繰り返し、すぐに息を吐く。未練がましく歪な切れ端を見つめるが、一度破れてしまったものはどうしたって直すことはできず、紙飛行機にすらならないそれを平和島は無駄に強張っていた指先でぐしゃりと握りつぶした。 手の平の中で、折れ尖った紙の角が肌を柔く突き刺す。その感覚に、無性に腹が立った。もう何枚の色紙をだめにしたかわからない。数を数えることは3枚目に破った黄色の折り紙を境に早々にやめた。周りには何にもなれなかった紙屑が無造作に転々ところがっている。見た目だけは色とりどりの光景はとても皮肉気で、その紙屑の残骸が増えるたびに連動するようにして胸内の苛立ちがじわりじわりと強さを増した。 しかし、平和島はただ黙ったままだめになった屑紙を脇にどけるとすぐに新しい色紙を手に取った。まだだ。まだ、諦めきれない。 教師の一人が病気で入院するのだという。 その話を平和島は岸谷の口から聞かされたのは、クリームパンを密閉するビニールを大した力も入れずに開けたのと同じタイミングだった。あぁ?と適当に言葉を返しながら目をやると岸谷は珍しく人並みの好奇心をあらわにした表情で同じ言葉を繰り返してから、その入院する教師の名をフルネームで言ってみせた。 だが、あいにくと平和島には岸谷の言う教師の名前と脳裏に思い浮かぶ顔がどうしても一致させることができず、ふぅん、と気のない返事しか返すことができなかった。命に別状はないが完治するには時間がかかるらしいと続けて知らされたそれにも答える返事は変わらない。 クリームパンを喉奥へ押し込んで、昼のチャイムがなり、そのまま全ての授業が終わったころには話を聞いたこと自体忘れているだろう。平和島にとって教師とはその程度の認識だった。ただ一人を除いて。 岸谷と別れて、平和島は一人で廊下を歩む。特に威嚇したわけでもないのに避けるようにして同じ生徒が道を譲るが、それに対していまさら思うことはなにもない。すれ違う人を無感動に視界に収めて、食後の満腹感にあくびを一つもらす。自然と浮かぶ一滴にもならない涙を拭うと、僅かに滲む視界の向こうに、自分を避けて通る生徒とは別によどみない足取りで進む人の姿が見えた。 平和島にはそれが折原の姿だとすぐに判断することができて反射的に足が止まった。だからと言って、かける言葉があったわけではない。開きかけた口をなんの音も生まないままに閉じて、ただその場に立ち尽くす。どうすればいいのかがわからない。まるで親とはぐれた幼児のような気分だった。ともすれば眼球の奥底からあくびの時とは違う涙が零れ落ちてしまってもおかしくはないような、そんな感覚する。 平和島はぐっと目を強くつぶった。彼の前でそんなみっともない姿は見せたくない。くだらない意地だったが、それだけが危なげに平和島の意識を常に繋ぎ止めていた。 徐々に近づく足音に目をあける。すると、いささか遅れてこちらに気が付いた折原が、やぁ、と軽い挨拶とともににこやかに頬を緩ませた。赤い色彩が真っ直ぐに平和島を見上げる。それを真っ直ぐに見返すことができなくて無意味な言葉を返しながら思わず視線を落とした。折原の手の平が視界の隅にうつる。爪先まですべてが整って見える手の平。無意識に焦点をそこへとあわせると教材と思わしき本と一緒に不自然に色鮮やかな紙を持っていることに気がついた。折原の目と同じ色をした赤色だ。 じっと見つめているとそれをどう思ったのか、平和島と同じように視線を下へと落とした折原は、あぁ、と小さく息を吐くようにして言葉を紡いだ。そうして、入院した教師のために鶴を折るのだと告げた。女子生徒に頼まれちゃったと色紙を顔の横にまで持ち上げる。追いかけて顔を上げると逸らしたばかりの赤い瞳が再びうつったが、互いの視線が絡むことはなかった。ただ折原は色紙を見つめたまま、生徒みんなで協力して折鶴制作だなんてなんだか小学生みたいだと、そう言った。その声はまるで馬鹿にするみたいな音に似ていたが、色紙を見つめるその表情は思いのほか柔らかく、ひどく楽しげな笑みをしていたように見えた。 思えば、なんて子供っぽい動機だろうと思う。そんなことでしか、気を引く方法が思いつかなかった。実際、折原の目から見れば自分など正しく子供であるのだろうけど、その事実を正確に認識するたびに平和島は時の流れをもどかしく感じた。 大人であったなら、もっと近くに立つことができただろうか。毎朝、少しくたびれかけた制服の袖に腕を通すたびに考える。対等な位置で、隣に並んで、恐れることなど何もないように触れることができるだろうか。考え続けるが、絶対的な矛盾とどうにもならない事実を含んだ思想に答えは出ない。 びっ、ともう何度として聞いた絶望的な音がまた聞こえた。ほんの少し、心持ち力を込めただけで容易く折り紙はその身を裂いた。あの時と同じ、赤い、折原の目の色をした色紙だった。じわりと、途端にどうすることもできない無気力感が心に滲む。 どうしても諦めきれなかった。だから、何枚色紙をだめにしてもやめることなどできなかった。けれど、あの日から擦りに擦り減ってしまったが心がいい加減諦めてしまえと囁きかける。だってそうだろう。どうすることもできないんだから、諦めるしか選択肢は寄越されていない。 この世には努力だけではどうすることもできないことが多くあることを平和島は知っていた。きっとこれも、そのどうすることもできないものの一つなのだ。いくら続けても、結局はなんの形にもなりはしない。きっと。 「なにしてるの」 そうわかってはいたけれど、愚直な心はたわいのない言葉に容易にはねあがった。弾かれるようにして顔を上げると折原が扉に手をかけた状態でそこにいた。白い頬が夕焼けで淡く染まっていて、いつの間にそんなに時間が経ったのだろうかと気づかされる。 「居残り補修?」 首を緩やかにかしげて、折原は静かな足音を立てながら歩み寄ってきた。ほんの少しの沈黙を挟んでちげぇよ、と否定の言葉を返すと折原は、わかってるよ、なんて言って目を細める。だったら訊くなと思うが、言葉はうまく口にできなかった。 中途半端に息が漏れて、しかし、途切れるようにして終わる会話を折原は気にしない。すぐ目の前にまでやってきて微笑の絶えない表情で見下ろしてくる。いつもとは違うその視線の位置がやけにくすぐったくて、見上げた首元とあわせて背中が少しざわついた。 「下手くそ」 机の上に転がった残骸を見つめて、折原はそれを指先でつつく。 「……うっせぇよ」 「本当のことじゃん」 声低く言葉を返しても、折原は怯まない。それどころか、てかさ、ちゃんと敬語使ってよね、なんて今さらなことを言う。教師相手なんだからさ、なんて、本当に今さらだ。そんなこと、態々言われなくとも痛いほど理解している。誰よりも、何よりも。しかし折原にとっては何げない言葉にすぎないだろう。 うっせぇよ、と口悪く同じ言葉を繰り返しても折原は形ばかりの呆れを見せるだけで生徒にしては横暴な態度をそれ以上叱るわけでもなく、代わりに何枚か床に落ちてしまっていた色紙に手を伸ばし拾い上げた。指先で弄ぶようにして揺らしながら、本当に下手くそだ、と人の気も知らないで繰り返す。 気恥ずかしさに手を伸ばして奪い返そうとするが、折原は平和島の手の平をすべて器用に避けてから、口角を緩やかに釣り上げた。 「けど、しずちゃんさぁ」 「あぁ……?」 「口は悪いけど、優しい所あるね」 からかいの混じった声。笑う折原に、羞恥ではない感情で平和島の全身はかっと熱くなった。勢いのまま立ち上がりそうになって、寸前でぐっと堪えた。深い意味などないことはわかっている。先の何気ない言葉と同じで折原はただのいち教師として、入院した教師のために鶴を折っているだろう生徒を褒めただけにすぎない。 それでも、まったくとして違う意図を持つ平和島にとってしてみればその言葉は特別な響きを持っていた。それは今に限った話ではない。いつだってそう。折原の言葉は特別だ。 ひどい男だと思う。勝手な押し付けだとは分かっていたが、それでも思わずにはいられない。折原はひどい男だ。人が一番触れてほしくないところを無神経に無自覚にナイフ以上に鋭く傷つけるくせに、次の瞬間には暖かなベールをまとったような柔らかさで誰もが触れようとしない心の奥底に触れてくる。そうやって、何でもないことのように平和島の全てを奪う。 想いも焦燥も努力も、妥協癖の付いた情けない心も、せっかく訪れかけた諦めも、全て奪って、そうしてそれと同じくらいの多くのものをくれる。安らぎだったり、怒りだったり、悲しみだったり、喜びだったり、色紙のような色とりどりのもの。そんなんだから、自力では何一つ振りほどけないでいる。 どうしようもなく好きだった。 だからあの日、あの時、この教室で、好きだと告げた。同じようにして夕陽が滲んだ世界の中で、ありがとう、と返された笑顔もまたいつもと同じように美しいものであった。小さな子をあやすようにふわりと頭を撫でる指先のなんて優しいことか。分け隔てなくそそがれる温かさを言葉に表すことはできなかった。 ただ異質ではないことを喜べばいいのか、それとも特別ではないことを嘆けばいいのかわからない。それくらい本当に好きだった。きっと愛してもいた。なのに、頬を染めた赤色は太陽が沈めば消えてしまう。 |
優しいと泣いてしまうよ 42138hitリクエスト、from ymさん (静→臨。パラレル。高校生は全く恋愛対象外の臨也先生と諦めの悪い生徒静雄) |