ぱちん、と景気良く音を立てながらキーボードを叩いて、それで終わりだった。
 ようやく仕上げた仕事に息を吐いて折原は長時間パソコンと向かうときだけつけている眼鏡を外した。凝り固まった筋肉をほぐすようにして背伸びをすると骨が鳴るような音がして自然と息が漏れた。適度な疲労に意識が揺れる。瞬きを繰り返し、眼鏡を手にしたままであることに改めて気が付き眼鏡を置く。
 するとふいに腕を引かれた。されるがまま、バランスを崩して椅子から転げ落ちそうになるが、すぐさま伸びてきた腰を支える腕に折原の身体が実際に冷たい床に沈むことはなかった。腕を引いたのは誰かなど、そんなことはわかりきっていることだから折原の驚きは少ない。けれど、こういった不意打ちはあまり好きではないからできることならやめてほしいと折原を平和島を振り返りながら思う。
 単純なことだ。ただ声をかけるだけでいい。いざや、と名前を呼ぶだけでも、おい、と愛想も何もない呼びかけでも、そこは別に何でも構わない。ただそのひと手間を挟めばいいだけであるのに、しかし平和島はそのひと手間すら煩わしいと言わんばかりに毎度毎度こうして折原の腕を引く。そうして米俵でも運ぶかのように折原の身体を肩へと担ぐ。それらはすべて折原にとって不本意ではあるのだが、もういちいち不満の言葉を告げるのも面倒になるくらいには慣れてしまっていた。


 折原を担いでもなお、平和島の足取りは軽い。ほんの少しだって折原の重さに上体を崩すこともない。どこへ行くのかと思えば、平和島の足はリビングに置かれていたソファへと向かった。そうして折原の身体はそのお粗末な運び方とは違い、随分と丁寧な仕草でソファの上へ着地させられた。
 疲労に満ちた身体を受け止めるソファは柔らかく、大人しくその柔らかに身を任せているとすぐに平和島がその大きな身体を覆いかぶせてくる。照明を背後に金髪がきらきらと音を立てそうな色をしながら煌めき、折原は何度か瞬きを繰り返した。
 大きな身体に見合った大きな手の平が伸びる。折原は逃げるわけでもなくその手の平を見つめた。もとより、抵抗するつもりはない。手の平は空気を間に挟むようにして頬を撫で、そのまま後頭部へと滑り指先がうなじを撫でた。促すように顔を上げさせられ、見上げれば平和島の顔が先ほどよりも近い。実直に見つめる瞳の無言の催促をすぐに理解して、折原は素直に瞼を伏せて見せた。暗くなる視界の中、さらに影が落ちる。次いで温かな感触が唇に触れた。
 ひそめた息すらも聞き逃がさないゼロの距離。ゆるゆると深く味わうようにして食んでくる唇に、まるで本当に食されてしまうような錯覚を覚えながら折原はそれを真似るようにして平和島の下唇を食んだ。すると、平和島は答えるようにして更に唇を押し付け、その表面を舌先で舐めた。そのまま何かを確認するように舌は左右に往復を繰り返す。ぞわぞわとしたくすぐったさについ声が洩れかけて、しかし唇はふさがったままであったから結局は行き場をなくし喉の奥の方で消えた。

 投げ出していた腕にそっと力を込めて持ち上げる。瞼は相変わらず伏せたまま、手を伸ばして平和島の頬に触れた。輪郭を確かめるように頬骨をなぞってから、下へ下へと指先を滑らせ首元を撫ぜる。突出した喉仏をその形を確かめるようにして何度か撫ぜると平和島がくふり、と静かに笑ったような気配がした。それがまるで心地よさに鼻を鳴らす犬のようで少し可笑しく、口元を舐める舌先も相まってか、折原は次第に大型犬にでも懐かれているような気分になり、思わずふっ、と口元が緩んだ。
 するとその少し開いた隙間から平和島の舌先が口内へと侵入した。より一層リアルになった感触に折原もまた舌を伸ばし、唇を合わせる延長線のような拙さで互いの舌先を触れ合わせた。生ぬるい他人の温度。しかし煙草の香りが残る苦みを感じて、慣れたその苦みに不思議と全身の力が抜けた。重力がなくなったような軽い心地よさが頭のてっぺんから爪先までじんわりと広がって、このままゆっくり眠ってしまいたくなる。そうすれば、きっと明日の目覚めは淡い色をしたような優しいものになるに違いない。そんな風に思えた。
 だが平和島は折原にそれを許さず、啄むようであった口づけを唐突に深いものにした。後頭部に添えられた手の平がくしゃりと髪を撫で、一寸の隙間すら許さないようにより強く引き寄せられる。全てを喰らいつくすように舌の根を強く絡められ息が詰まった。小さく聞こえてくる水音に背筋がぞくりと震える。
「ん……、」
 貪るような口づけに、意思とは関係なく声だ洩れた。もう何度と繰り返してきた触れ合いであったが、平和島のその緩急の変化を折原はいまだに正確に掴めないでいる。いい加減にしろよ、と思ってしまうほど長く唇を食むだけの口づけをする時もあれば、あわせた瞬間から舌を絡める時もある。その違いに何か基準はあるのか、ないのか知りはしない。ただ、呼吸もままならぬ口づけに根を上げるのはいつも折原の方であった。
「ん、んッ」
 頭の芯が、じんと痺れる。限界が近いのだと脳がチカチカと信号を出して、その信号に従い折原は平和島の胸を両の手の平で押した。それは平和島の長身を押し返すには弱すぎる力で、押すというよりも触れると言った方が正しかったが、意図を察した平和島はすんなりとその身体を折原から離した。かと思えば、ひゅっ、と息を大きく吸った次の瞬間にはぬるい温度を通り越し燃えるように熱く感じる唇が口づけを再開する。飲み込みきれなかった唾液が顎を伝うが、拭う余裕などなかった。
 後頭部に添えられていた手の平がいつのまにか胸元へと移動し、息苦しさからいつもよりわずかに鼓動を速める胸をするりと撫で、腹を撫で、わき腹を撫で、そうして腰へと触れた。衣服越しだというのに、まるで電流がびりびりと走ったような感覚がして意思とは関係なく身体が震える。
「なぁ、臨也……、」
 唇を離し、額を突き合わせた至近距離で平和島は折原を見つめる。触ってもいいか、と呟く声は低く掠れており、鷲色の目の奥には隠そうともしない情欲の色が滲んでいた。その眼差しに、いつもは胸の奥底で眠っている情欲がすべて引きずり出されたような感覚がする。衣服越しの手の平がじれったい。あぁ、けれど嫌いではないのだ。ぼんやりと揺れる頭で折原は思った。

 折原には平和島の嫌いなところがたくさんある。たとえば、そう。いくら言っても無言のまま腕を引くところ、物でも運ぶようにして人を持ち上げるところ、何も考えずに好き勝手に人の呼吸を奪うところ、そして圧倒的に抗うできない膂力の差が嫌いだ。上げていけばきりがない。
 けれど、嫌いではない部分も存在するのも確かで、たとえばそれは、この家では決して仕事の邪魔をするなと言う約束を一度も破らないところだったり、気性に見合わぬ丁寧な仕草でソファへ下ろすところだったり。触れる唇が心地よくあたたかいところや、偽りのない真っ直ぐな強い眼差しで見つめてくるところ。そして、露出のしない肌へと手を触れるとき必ず承諾を求めるところが嫌いではなかった。
 ムードがないと言ってしまえば否定しきる言葉はなく、野暮と言ってしまえば野暮であるのだが、たった一言の手間すら煩わしいと投げ捨てる平和島が繰り返す欲求の言葉をじれったいとは思えど鬱陶しいと思うことはない。まるで主人の言葉がなくては何一つとして自由にすることはできない犬のような、見る人が見ればこれがあの池袋最強と呼ばれる男のする顔かと馬鹿にするであろうその表情を笑い飛ばす気にすら微塵もならない。


「いざや」
 じっと見返したまま答えを寄越さない折原に平和島は焦れたような声で名前を呼んだ。待ちきれないと言わんばかりに、ちゅ、と折原のこめかみに口づけ頬に口づけ、繰り返し名前を呼ぶ。それでも腰を撫でる手の平は依然衣服越しのまま、それ以上の進展を見せない。出来る大人の男が持つような余裕なんて持っていないくせに。折原は思わず表情を緩ませた。
 平和島の手の甲に自身の手の平を重ね、耳元に口を寄せる。言葉と一緒に零れた吐息により一層の熱がこもるが、仕方のないことだった。だって、そうだろう。欲しい欲しいと欲に溺れて飢えているのは何も目の前の獣だけではない。
焦がして閉じない胸の穴