ざわり、とわずかに空気が振動するような人々の気配を感じて田中は振り返った。見れば、そこには後輩である平和島の姿がある。いつもいつもと変わらぬバーテン服姿。しかし平和島を知らぬ者にしてみれば物珍しいものでしかなく、また平和島を知る者にしても珍妙とも言える力はそれだけで一瞥するに値するのか、よく人の目を引いた。 何も知らぬ少女は長身で男らしい顔の平和島に微かに頬を愛らしく染め、その名を知る者は一瞥したのちに無言で足を進める速度を増す。そんな人々の視線も態度も気にせずに、平和島はただ前を向いて歩く。それがいつもの風景だった。 けれど、今日は違った。平和島の姿に、何も知らぬ少女は微笑ましそうに頬を緩め、いつもは一瞥するだけの視線がまるで何かに引っ張られるかのようにして平和島の元へと戻る。その表情は少女と同じ微笑みだったり、妙なものを見るような怪訝そうな表情だったり、笑いをこらえるようなものだったり、様々なものであった。それに対して平和島はいつもはまっすぐ伸ばしてきびきびと歩く背筋を心持ち丸めた姿勢で、なおかついつもより緩やかな速度で歩んでいた。そしてその肩には一匹の猫がいた。 一言で言ってしまうならそれはとても“美しい猫”であった。耳の天辺からすらりと伸びた尻尾の先まで何一つ混じりっ気のない真っ黒な色に覆われた毛並みはエナメルの光沢が輝き素晴らしく、小さな顔にぽつりと浮かぶ二つの双眸はその輝きに負けない爛々とした赤い色をしており、まるで宝石のルビーを思わせる。詳しい品種はあいにくとそこまで猫に詳しいわけではないからわからなかったが、雑種にしては何から何まで整った本当に美しい猫だ。 「どうしたんだ、その猫」 挨拶も後回しに、思わず田中は尋ねた。器用に平和島の肩を足場に尻尾を揺らす黒猫は近くで見てもなおその美しさを保ったままである。こう言ってしまってはなんだが、月末になるたびに一日に吸う煙草の本数が減る後輩にはいささか不釣り合いな黒猫だ。 例えばそれが見るからに薄汚れて弱った子猫であったなら、道端にうずくまる子猫を放っておけずに拾ってきたのかと想像することができたが、その黒猫はどう見ても成獣であり、またその首回りに首輪自体はつけていなかったが餌を求めてうろつくような野良猫にはない独特の気品なようなものを感じる取ることができた。 「や、その、何つうか……」 しどろもどろに言葉を続けながら平和島はちらりと肩の黒猫を見る。黒猫はつんと顎を澄まして周囲の視線など気にしない様子でゆらりと尻尾を揺らす。そんな黒猫に顔をしかめながら平和島は、知り合いに押しつけられて、と今一はっきりとしない声色で言った。 かちゃかちゃと無意味にサングラスに触れる姿は落ち着きがなく、それが実際に落ち着かなかったり、動揺している時の後輩の癖だと知っている田中はそれ以上黒猫を手にした経緯を追及することは避けた。何事もはっきりとものを言う後輩が説明を口ごもるという事は話せない理由が、もしくは話したくない理由があるに他ならない。 しかし、仕事を共にする以上、その仕事に黒猫を連れてきたことに関しては追及せざるを得ない。田中が言うと平和島は相変わらずはっきりとしない口調のまま。答える 「その、こいつ、家に一人で置いとくとすぐに勝手にどっか行っちまうんです。や、別にこいつがどこで何をしてようが俺の知ったこっちゃねぇんですけど、万がいち車にでも引かれたり、知らねぇ野郎に連れていかれでもしたら俺も胸糞が悪いっていうか、その、押し付けられたとはいえ俺にも面倒みる責任があるっつうか、それにこいつがいねぇと俺も晩飯が食えない、って別に俺としては一人で食う方が食費もかからなくていいんすけど、いや、だから、その、仕事に連れてくるのは俺も嫌だったんすけど、でもこいつ家で一人にするとすぐどっか行っちまって――」 「あー、はいはい、わかったから、もういいもういい」 振出しに戻りかけた言葉をさえぎると後輩はやべっ、とでもいうような表情で口を噤み、すぐにバツの悪い様子で首の裏を擦った。すんません、と頭を小さく下げながら謝り、田中は気にするなと言う意味を込め片手を軽く上げて見せた。 後輩曰く、よほど賢い猫らしい。鍵という鍵を全てしっかりかけても、窓の鍵くらいならば自力で開けてしまえるのだそうだ。それもガラスの窓に引っ掻き傷の一つもつけずに、肉球だけで器用に開けてしまうらしい。 窓を開けてしまう猫ならば聞いたことはあるが、鍵のかかった窓まで器用に開けてしまう猫は初耳で、田中はほぉ、と感心して田中は改めて平和島の肩に乗る黒猫を見つめた。自分が話題の中心にいることを理解しているのかいないのか、その横顔は涼しげなものだ。赤い二つの色彩の真ん中、縦に細くくっきりと刻まれた瞳孔は鋭く、その眼差しだけでも確かに平和島が言うとおり利発そうであった。見れば見るほどに、美しい。 「なんつーか、美人さん、って感じだよなー」 「はぁ、……はぁっ!?」 猫相手に使うにはいささかおかしなものであったかもしれないが、その黒猫には美人という言葉が似合っているような気がした。なぁ、と同意を求めるように後輩を見ると、後輩は何とも言えないような表情をしている。苦虫を潰したような、そんな表情だ。 どうかしたのか。尋ねると平和島は、あー、いや、と三度目となる煮え切らない返事を返す。黒猫を飼い始めた理由と言い、一体何があると言うのか。気にならないわけではないが、やはり深く追求することはしないでおいた。 その代わりに、撫でてもいいか?と言うと同時に引き寄せられるようにして田中は黒猫に手を伸ばした。先ほどから密かに触ってみたくてしょうがなかった。気が付いた猫がくっきりとしたその赤く輝く目で見つめてくる。次いで、遅れて気が付いた平和島が慌てて声をあげる。 「あ、そいつ撫でようとするとすぐ引っ掻くんで、」 触らねぇほうが良いですよ、と言う言葉に、しかしそれを最後まで聞く前に田中の手は黒猫の頭に触れていた。それほど大きいというわけでもない田中の手の平にもすっぽりと収まってしまう小さな頭。ゆるりと撫でた毛並みは流石エナメルの光沢が輝くだけはあって、最高なものであった 。毛並みに逆らわずに撫で上げればさらさらとした感触が手の平をくすぐり、黒猫の温かな体温がじんわりと伝わる。ぐりぐりと撫でられ片目を細める黒猫は咽喉こそはならしはしなかったが、されるがままにぺたりと押しつぶされた耳が愛嬌に溢れ可愛らしいと言っても過言ではなかった。 なんだ、大人しいものじゃないか。田中はそう言おうと平和島を見て、すぐにぎょっと目を見開いた。見上げた視線の先、淡い色をしたサングラスの向こう側で、後輩の目がサングラスなどでは到底隠し切ることができていない不穏な色で満ちていた。いつも平和島が拳を振るう前にしている色だ。 田中は黒猫から手の平を離すと、静かにその場から二歩ほど後ずさった。やべぇ、なんか気に障るようなこと言ったか、と表面だけはいつもどおりを装って心当たりを探す。が、これと言って心当たりは思いつかない。しいて言うならば、返事を聞く前に黒猫に触ったことくらいだが、短気ではあれどそこまで狭量な男ではない。 「おい、静雄……?」 反応はなかった。しかしよくよく耳を澄ましてみるとぶつぶつと何か呟いているのが聞こえる。聞き間違えでなければ低いその声は、俺には素直に撫でさせねぇくせに、と呟いたように聞こえた。思わず田中は視線を下げて拳を握る平和島の手を見る。するとその手の甲にうっすらとほんのわずかに残る四本の赤い引っ掻き傷を見つけた。 田中は慰めの言葉をかけようとして、しかし言葉は見つからず代わりに小さく嘆息する。誤魔化すように、あー、と呟き、黒猫を撫でた手で今度は後頭部をかいた。普段はいったいどんなスキンシップを取っているのだとか、その辺りもあまり突かない方がいいみたいだ。 「まぁ、連れて行くのは良いけどよ、仕事はいつも通りきっちり頼むぜ」 黒猫と真剣ににらみ合う後輩の肩を叩くとはっ、とした様子で田中を見た。 「いいんすか」 「まぁ、今回は様子見ってことで、」 その美人さん、賢いらしいしな、と続けると黒猫はまるでその言葉をしっかりと理解し、当然でしょ、とでも言うように胸をそらした。可愛いな、と思ったが先の経験から同意を求めるのは止めておく。 「よし、そんじゃ行くか」 気持ちを切り替えるようにして声をかけると平和島は、うす、と返事して同じく気持ちを切り替えるようにして背筋を伸ばした。そうすると肩に乗っていた黒猫が不便そうに体制を崩した。今の今まで一回も鳴かずに大人しくしていたが、まるで抗議でもするような低い声でにゃあと鳴く。 尻尾がぺしぺしと平和島の背中を叩き、その反応に平和島はちっ、と舌打ちをした。伸ばしたばかりの背筋を不良がそうするようにして小さく丸め前かがみになる。黒猫はもう一度にゃあと鳴くとぐりぐりと強く押しつけるようにして足踏みを何度か繰り返した。しばらくして安定のいい位置を見つけたのだろうか、満足そうに喉を鳴らす。 ゆらりと優雅に揺れた尻尾が今度は平和島の頬を撫で、平和島は不愉快そうに眉をしかめた。しかし背中を丸めた姿勢はそのままであり、その一人と一匹の珍妙なやり取りを一部始終眺めていた田中は来た時から後輩がずっと姿勢を悪くしていた理由を察する。 「なんだかんだ言ってけど、しっかり仲は良いみたいだなー、」 というか、すっかりその美人ちゃんの虜なのなー。突かないようにと決めたばかりだというのに思わず呟くと、目の前で歩みだそうと足を踏み出した後輩が何もないところで転びかけ、今度こそ田中は己の口を固く噤んだ。 |
泳ぐ翼、真昼の満月 (日没後は狼に姿を変える平和島と日出後は猫へと姿を変える折原) |