ざぁざぁ、と満ち引きを繰り返す波の音が静寂の中によく響いた。五月に入ったというのに海沿いから吹く風はまだどこかひんやりと冷たく、時折強く吹く突風には思わず首を竦めずにはいられない。あおられた髪が瞼をくすぐる。どうしようもなく鬱陶しかったが、実際はそれほど気にはならない。それよりも今は強風にあおられながら堤防の上をふらふらと歩く痩身の方が気になってしょうがなかった。
 常ならば真っ黒な猫を想像させる痩身が、今ばかりは遠くの遠くの海上を飛ぶカモメを思わせる。危なっかしくて、どこか頼りない。ともすれば、強風に攫われ吹き飛ばされてしまうのではないだろうか。そんな想像をしてみて、けれどすぐに首を振った。
 腕を広げて、細い綱の上でも渡るようにして折原は歩く。表情は見えなかったが、機嫌は悪くはないらしい。こけたってしらねぇぞ。声には出さずに呟いて、平和島はその背中を追いかける。どこに行くのか、どこまで行くのか。その答えを知りはしなかったし分かりもしなかったが、引き返す理由にはならなかった。

「しおの匂いがする」
 ぽつり、と、話しかけるのではなくひっそり零れ落とすようにして呟いて、折原が歩みを止める。釣られて、足を止めた。見上げると白い横顔は海面へと向けられている。更に釣られるようにして、平和島は一緒になって海面へと視線をやった。海と空とその合間に先が見通しきれない地平線が続く。こんなにも海の間近にいるのだから潮のにおいがするのは当たり前のことである。だが、言葉にされて初めて平和島はその匂いを意識した。あまり嗅ぎなれていない、独特の香り。
 ふと、視界の隅っこで折原がしゃがみこむ姿が見えた。細い首を伸ばして、底の方を見つめ通そうとするように海面を覗いている。
「……落ちんなよ」
 言おうか言うまいか。結局どちらになるかなんて考えるまでもなく決まっているのだから初めから素直に口にできればいいのに、言葉は一呼吸分の沈黙を挟んで音となった。気が付いているのは、きっと自分自身と目の前の男だけだ。よりによって、なのか。それとも、だから、なのか。どちらにしても、答えは同じだった。
「落ちないよ」
 折原はこちらを振り返りもせずに、海面を見つめていた。コートの裾を地につけて、ファーが汚れるもの気にしていない。魚でもいるわけでもないだろうに、何をそんなに見つめているのか。あまのじゃくで気まぐれなその思考は何を思っているか分かりにくい。
「……泳ぎてぇとか言い出すんじゃねぇぞ」
 馬鹿なことを言った。すぐに思ったが、もう遅い。案の定、折原はふふっ、と息を小さく吐き出すような、そんな声を漏らした。鼓膜の底がくすぐったくなるような無垢な笑い声。
「そんなこと言わないよ、」
 だって俺かなづちだもん。
 静かに笑って、何でもないことのように言った。けれど、平和島にとっては初耳であった。ともに海水浴に行くような柄ではなかったから、そこにはなんら不思議はない。ただ、なんでも器用に熟してしまう男であったから、にわかには信じがたい言葉であった。仕事柄、弱みを吐出することを良しとしないから尚更だ。
 またいつもの気まぐれか、それとも他愛ないからかいか。平和島にはわからない。けれど、もし本当であったなら…。そう思うと自然と手は伸びていた。細い腕だと、触れるたびに実感する。容易くぽっきりと折れてしまいそうで、なにもかも慎重にならざるを得ない。
 そっ、と腕を引いただけでその身体はぐらりと揺れる。驚きの声はないが、微かに息を飲み音が聞こえた。だが、構いはしなかった。堤防から落ちる身体を抱き留めて、腕の中へと閉じ込める。視線を下げると今までずっと見上げていた瞳が、今度は逆にこちらを見上げてきた。抵抗は、ない。
「煙草くさい」
「……悪かったな」
 逃げ出さないよう胸元にやんわりと押しつけた黒髪は潮風に晒されていたせいか、少しだけいつもの艶をなくしていた。いつもの匂いに混じって潮の香りがする。帰ったらすぐにでも風呂に入れてしまった方がいいだろう。そんなことを思った。だからだろうか。無愛想な言葉とは裏腹に声色は存外棘の少ないものになってしまった。誤魔化すように、抱きしめた腕に小さく小さく力を込める。細い身体。
「でも、嫌いじゃないよ」
 海も、煙草も、君も。ふふ、とまたしても折原は静かに笑って、何でもないことのように、そんなことを言う。

 なぁ、と呼ぶと赤い瞳は、なに、と素直に見上げてくる。
「……来年は、もっときれいな海に連れてってやる」
 一瞬小さく見開かれた赤色は次の瞬間にはやんわりと細められた。視線をふっと反らし、期待しないで待ってる、と言葉を紡ぐ様は相変わらずあまのじゃくなままで、けれど、甘い砂糖菓子のように緩められた頬が何よりも雄弁にその想いを語っており、平和島はたまらずその頬に口を寄せた。
満ちて引かぬ潮
Happy birthday dear 臨也