雨が降っていた。ばちばちと絶え間なく窓を叩き続ける音は、ともすれば弾け飛ぶ爆竹のそれのよう。鼓膜の奥のそのまた奥の方にまで響いて、煩わしく神経をすり減らす。息をそっと吸い込めば、ずきずきとこめかみの内側から鈍痛がした。 まるで心臓の位置が移動したかのような、脈打つ圧迫感。愛おしいはずの級友たちの雑談の声すら、今はただひたすらに鬱陶しい。できることなら、黙れ、と一喝してしまいたかった。けれど、そんなことはできるはずもなく、ならば代わりに耳でも塞いでしまおうかと思うがその気力すらもなく、そのまま力なく机に突っ伏した。なにをする気にもなれず、腕に顔をうずめる。 (頭、いたい……) 【門田京平】 気だるげにじっと外を見つめていた横顔がついに伏せってしまったのは、教師が教室を後にしてどっと室内の空気が騒がしくなった頃だった。普段見ることのないその姿に、どうかしたのかと席を立ったのはほとんど無意識に。衝動と言うよりは、反射と言った方が近かった。机と机の間、そう遠くはない距離をあっという間に縮めて、門田は折原のつむじを見下ろす。 「臨也」 いつもなら仕草だけはやたらと幼げな様で不本意極まりないあだ名を呼ぶくせに、小さな頭は沈んだまま動かない。俯いた黒髪から覗くうなじが細く、やけに頼りなかった。そんな繊弱なやつではないとわかっているのに、その首筋を見つめていると妙な不安感が募る。 「臨也、」 肩に触れる。大丈夫か、と声をかけると手の平の表面に折原が身じろぎをする振動が微かに伝わった。ひどく緩慢な動作で、折原の頭がそろりと揺れる。腰を落として顔を覗くと、あらわになった片目がじっとこちらを見上げてきた。 ともすれば、今すぐにでも眠ってしまうかのように閉じかけられた目は、いつも見ている眼差しに比べて力がない。どたちん、と呼ぶ声のなんとか細いことか。普段の彼からはとてもじゃないが想像することの難しい声を、しかし門田は驚愕もからかいの言葉もないまま、心配から眉間にじわりと皺を作った。 臨也、と三度名前を呼ぶ。瞬きを繰り返す様が、いらえを返しているよう。門田は肩に触れた手のひらを滑らせ、折原の髪に触れた。そうすると見上げてきた瞳が、長い睫毛を携えた真っ白な瞼で覆い隠される。 「どうした、」 声は自然と優しくひそやかに。癖のようなものだ。折原はすぐに言葉を返さなかった。肩を大きくゆっくりと揺らすように呼吸を繰り返す。けれど、そのまま返事を待っていると、静かにその口を開いた。 「あたま、いたいの……」 蚊の鳴くような、小さな声だ。稚いその言い方に、あたま?と聞き返すと、折原はこちらを見上げた時と同じように緩慢な動作で、再び己の腕へと顔をうずめてしまった。小さな子供がぐずるようにして、ぐりぐりと額を腕にこすり付ける。手の平に折原の細い髪の感触が伝わった。さらさらとした手触りのいい感触。だが、その感触を堪能している暇などはない。 「保健室いくか……?」 白いを通り越して青白い色をした頬を覗き込む。歩くのもしんどいと言うのなら、背負って連れてってやることも吝かではなかった。人目に晒されるのが嫌だと言うのなら、人気の少ない廊下を遠回りをしてもいい。その程度の労力は、門田にしてみれば労力の内に入らない。しかし、折原は首を横に振った。 「あめがやめば治る、し……それに、後でしんらに薬もらう、から……、」 だから、いい、とそうすることがやっとだと言わんばかりに大きく息を吐く。そうして、そのまますべての音という音を拒絶するようにして身を固めると一切の動きを止めた。名前を呼んでも、もう反応すらを返さない。 こうなってしまっては何を言っても無駄だろう。それがわかったから、仕方なく門田はもう一度折原の黒髪を撫でるだけで、それ以上の強要は避けた。無理はするなよ、と一番の本心であるそれだけはしっかりと言葉にして、雨が降り続けている外を見る。ざぁざぁ、と今まで気にもしていなかった音が急に耳触りの悪いものに思えて仕方ない。まったくもって、単純なものだと思う。 【岸谷新羅】 トイレから教室へと戻ると、己の席には本来このクラスにはあるべきではないその人がすでに座っていた。あれ、と思わず口から言葉が零れる。だが、その実驚きは皆無に等しかった。なんせその光景は中学から何度ともなく見てきた光景で、その理由すらも岸谷にはすでに承知のものである。 しかし、だからこそと言うべきか。もしここに来た原因が想像するそれであるのならば、その訪問は歓迎すべきものではないのだ。岸谷は思わずふぅと小さく息を吐き、手にした湿気たハンカチをポケットへとしまうと自身の席へと足を進めた。 「臨也」 返事が返ってくるとは端から期待していない。普段は軽快な言葉遊びを好む折原がこの時ばかりはぐっと口数が減ることを知っている。出会った初めの年から、この時期はいつもそうだった。多量の雨が降ると折原はよく頭の痛みを訴える。口数は減って、もとより白い肌はさらにその色をなくす。その度々に折原は真っ直ぐに保健室へと向かわず岸谷の元を訪れた。クラスが同じであろうとなかろうとどうにかならないのかと保健医にではなく岸谷に治療を乞う。いまだ一般生徒でしかない身にできることなど限られているというのに、果たしてそれは頼りにされているのか、それとも単なる物ぐさなのか。まぁ、どちらだとしても岸谷は構わなかった。 もう一度、息を吐く。ちょっと待ってて、と一声かけてから、教室の後ろのロッカーへ向かう。自身のロッカーを開けると誰かさんのおかげで常備する羽目になった消毒液の嗅ぎなれたにおいが鼻腔をくすぐった。鞄とは別にもう一つある白いバックを開けると一層そのにおいは強まる。その中から二つ、薬を取り出す。折原が愛用している痛み止めと胃薬だ。 それらを手に席へ戻る。折原は相変わらず静かなまま、他組の生徒へ興味の眼差しを向ける周囲の視線も無視して、机にその身を預けていた。 「ほら、臨也」 半ば無理矢理に、頭の下から腕を引っ張り出して、ゆるく握られた手の平を開かせた。肉刺の一つもない真っ新な手の平。その上に包装紙から取り出した錠剤二つをのせてやる。現状を長引かせれば長引かせるほど、辛くなるのはほかの誰でもない折原だ。 「早く飲んじゃいな」 「……ん、」 促すと、ようやく口を開いた折原は億劫そうな態度はそのままに、手の平を口元へと運んだ。あまり形の目立たない喉仏が数回にわたって上下する。つついてみたくなる悪戯心を押し殺して、岸谷はその姿を見守った。 薬を飲み終えて、折原の腕がぱたりと落ちる。それが合図であったかのように、ちょうどよくチャイムが鳴った。休みの時間の終わりを告げるその音に、思い思いに過ごしていた級友たちがそろって席に戻っていき、折原はゆっくりと席を立つ。 「大人しく保健室に行くんだよ」 再び、返事は返ってこなかった。頼りなさばかりが目立つ背中は別れの言葉もなしに遠ざかり、教室を出て消えて行った。あの様子では、素直に保健室に向かうとは思えなかったが、後を追おうとは思わない。流石にそこまでは面倒見きれないし、折原もそれを望んではいないだろう。彼は人に干渉することは大好きなくせに、人から干渉されることは好きではない。まったくもって、自分勝手な奴だ。 席に着く。そこにはわずかにだが折原の体温が残っていた。折原を真似て机に身を預けると、同じようにして生暖かい他人の体温がする。それを気持ち悪いと思うことはない。そんなのは今更だ。気にしないで目をつぶる。そうするとざぁざぁと窓を叩く雨の音が耳についた。絶え間なく降り注ぐ音という音。別に煩わしいとも、心地よいとも思わない。 ただ窓の向こう、降り続ける雨を見て、早く止まないかなぁ、と岸谷はぼんやり思う。理由は言うまでもない。自分勝手で気まぐれな自己中野郎であっても、友達であることに変わりはないのだ。 【平和島静雄】 見上げたその先、不本意にも見慣れてしまった姿に思わず立ち止まってから、なぜそのまま素通りしなかったのかとすぐに後悔した。ならば、すぐにでも足を踏み出して改めてその横を通り過ぎればいいのだが、そうすることはもうできない。 反射的のように、腹の底がカッと熱くなる。いつだってそうだ。無視しよう無視しようと思って、実際に無視できたためしなど一度としてない。どうしようもない衝動が全身を駆け巡って、足は自然とそこへ向かう。 「……ノミ蟲」 直前に聞こえたチャイムに急いで教室に戻っている最中だった。二階から三階へと続く階段のちょうど中間。そこに座り込むその姿を他の誰かと間違えるわけがない。言葉にするのならまさに、ぐったり、といった言葉が似合うだろうか。壁に身体を預け項垂れている姿から表情は伺えず、それどころか覇気すらもまるで感じることができない。折原は明らかに弱っていた。まさか、あのノミ蟲が。そんな思いで、一歩一歩、足を進める。 「……なにしてんだよ」 互い以外誰もいない階段は雨の音を含んでも不気味なほど静かで、自身の声ですら妙に耳ついた。階段を上った先では、教師と級友たちがとっくに授業を開始しているだろうに、まるでこの校舎に折原と己の二人しか存在しないような、そんな錯覚に陥る。無意識のうちに進める足音を押し殺す。腕を伸ばせば触れられるほどの距離に近づいても、目の前の折原はぴくりとも動かなかった。 「おい、」 上履きの先を軽く蹴飛ばす。それでも反応は返ってはこなかった。返事はおろか、顔すら上げようとしない。そのあまりの無反応っぷりに思わず手を伸ばす。すっぽりと収まりきってしまいそうな細い二の腕を掴んで強引に引き上げると、重さを感じない身体は無抵抗のまま軽々と持ち上がった。屈みこんで、顔を覗き込む。無視してんじゃねぇよ、そう言おうとしてばちりと視線が合った。 「はなして」 一言。合ったばかりの視線を外して、折原は二の腕を掴まれた手の平を剥がそうともう一方の手で引っ張った。 「おい、てめ、」 「うるさい、はなして」 まったく聞く耳持たず、折原は手の甲を引っ掻いてくる。それは平和島の手を引き剥がすには、元ある膂力の差を考えても明らかに力がこもっておらず、そのあまりにも弱すぎる抵抗に平和島は逆に手を離した。反動で、折原の上体がぐらりと揺れる。 あ、と思った時には遅い。折原はほとんど倒れるようにして階段に腕をつくと、こちらに背中を向け埃で制服が汚れるのも気にせず腕に顔を埋めてしまった。いざや。名前を呼ぶと、うるさい、とくぐもった声で折原は言う。そうして、しずちゃん、といつもと変わらぬ呼び名を、いつもとは違う声色で呼ぶ。 「しずちゃん、きらい」 どっかいって。言い捨てて、折原は母親の腹の中で丸くなる胎児のように小さく身を固めた。なにもかもを拒絶するその姿に平和島は声をかけることの無意味さを悟る。それならば、今度こそその横を素通りしてしまえばいいのだろうが、やはりそんなことできるはずもない。そもそも、今さらそんなことをしたところでもう意味はないことを平和島は知っている。 はぁ、と息を吐いて平和島は再び折原の身体へと手を伸ばした。苦労の一片もなく、常より体温の冷たく感じる痩躯を肩に担ぎあげる。折原はもう抵抗を示すことはなかった。四肢を無造作に放り投げ、大した重さのない全体重を預けてぐったりと脱力したまま。一瞬、なにしてんの、と息を吐くような小さな声が聞こえた気がしたが、それはきっと気のせいだ。仮に誰かが何を言ったとしても、文句を言われる筋合いも叱咤されるいわれもない。 だって、そうだろう。自分はただ階段に置いてあった邪魔なものを退かし運ぼうとしているだけで、授業だってサボりたくてサボっているわけではない。言ってしまえばこれは全て不可抗力だ。いつもと少し違う胸の奥底からじわりじわりと沸き起こる熱だって、それはすべて不平不満を訴えるものであって、それ以外に深い意味なんてない。絶対に。そんなことあるはずがないんだ。 |
5グラムの寵愛 42138hitリクエスト、from匿名さん (来神時代、体調の悪い臨也をなんだかんだ言ってちやほやしてしまう来神組) |