ついに空から雨粒が降ってきたのは全てのノルマを終えて事務所に戻ったちょうどその時だった。タイミングがいいと言えばいいかもしれないし悪いと言えば悪いかもしれないタイミング。曇り始めたのは昼を少し過ぎた辺りだったから、それを思えば割ともった方ではあるだろう。 雨が降るとは知らなかったから傘は持ってきていなかった。生憎と置き傘をするような几帳面性分ではない。けれど、置き忘れをするほどにはずぼらな性分であったから、さぁさぁと音もなく降る霧のような雨粒が平和島を濡らすことはなかった。 雨の中、すぐ横を傘を持たぬ中年の男が足早に通り過ぎて行く。その向こうでは若者が面倒臭そうに濡れた髪をかき上げて、更にその一方では親子と思われる女性と男児が一つの傘を共有して歩いていた。 子供特有の甲高い歌声が聞こえる。聞き覚えのある歌だった。曲名は覚えていない。けれど確かに聞いたことのあるそれは、小さなころ母や弟と一緒によく歌ったことのある雨の歌だ。まともに覚えていたのは一番の歌詞だけで、そういえばあの頃はじゃのめの意味がわからないでいた。いくつの時だっただろうか、母にじゃのめとは何か聞いてそこで初めてじゃのめが蛇の目だと言うことを知った。 だが、実は言うとなぜそこで蛇の目が出てくるのかは、現在もいまいちわからないままでいたりする。気にならないわけじゃないが、どうしても知りたいほどでもない。たとえば、そう、視界にちらりと映った男に比べれば、果てしなくどうでもいいことに違いない。 フードを傘代わりにした後ろ姿はまるで真っ黒なてるてる坊主のようだった。誰か、なんて考えるまでもなくわかる。止まっていた足は既に意識もしないうちにその背中へと近づいていた。足音に気が付いているだろうに、てるてる坊主は塀に向かったまま動かない。 「なに、してんだ、」 返事は返ってこなかった。その代り、すらりとした細い指先がそっと塀を指さす。何かと思い素直にその先を追ってみれば、そこには黄緑色の生き物が一匹。蛙、か。見たままを尋ねればてるてる坊主もとい折原は、珍しくない?とまるで子供のような口調で言った。 いつ頃からこの雨の中、立っていたのか。コートのファーには細かな水滴がいくつかくっ付いていて、まるで小さなガラス玉のようだった。動かない背中をじっと眺める。動きもしない蛙なんて見つめて何が楽しいのか。思い浮かんだ言葉は、ともすれば自分に向かって返ってくるだろうから音にすることはない。代わりに、ただ黙って手にした傘を傾ける。肩が少し冷えたが、気にするほどではない。 「なにか用?」 そう聞かれて、返す言葉はなかった。姿を見つけたのは偶然で、声をかけたのは無意識に近かったから。それでも何か答えなければと思ったのはきっと傘を傾けた理由と一緒だ。 「……なぁ、」 「んー……?」 生憎と頭は良い方ではない。咄嗟の機転もあまり得意ではない。 「……蛇の目って、なんだ」 だから、咄嗟に出てきた言葉がこんなものだったとしても、仕方ない。そう思う。 折原はようやく平和島の方へと振り返り、こちらを見上げた。じゃのめ、と言葉を繰り返す声には疑問が含まれている。流石にこの年にもなって歌うのは恥ずかしくて口にすることはできなかったが、母親が迎えに来る雨の歌の……、と伝えると折原はあぁ、と小さく息を吐くようにしながら頷いた。随分と懐かしい歌だね、それこそ歌うような音をして言う。 「あの歌の蛇の目は、蛇の目模様の傘のことさ、」 そのまま赤い視線はすぐに蛙へと戻った。再び振り返ることはい。だからと言って、それがこの場から立ち去る理由になるはずもなく、むしろ、思いのほか素直に投げ返された声の音に機嫌をよくして目の前の黒い背中を見つめ直した。単純だ。だが、そんなの今さらだ。 そのままどれほどの時間が経ったのか。気になどしていなかったからわからなかったが、さぁさぁと降る雨は強くも弱くもならず相変わらずなまま。傘を持たぬ方の腕の袖はもうすっかり濡れそぼってしまっていた。 腹が減っていたが、これでは晩飯は後回しにせざるを得ないだろう。だと言うのに、やっぱり動く気なんてこれっぽちも湧いてこないのだから、随分と深みにはまっているものだとつくづく思う。言い訳の言葉も思いつかないほど。むしろ不意に聞こえた、あっ、と呟きにも満たない小さな小さな声にしっかりと反応してしまっている時点で言い訳の方から逃げていくだろう。 なにごとかと顔を上げる。小さな頭を包んだフードの先、今まで微動だにしていなかった蛙がひょこひょこと塀をのぼっているのが見えた。だからと言ってそれに何を感じるわけでもなく、黙って見つめているとそのまま蛙は塀の向こう側へと姿を消してしまった。残されたのは、行っちゃった、と独り言のように呟く折原と、あぁ、と無愛想に相槌を打つ己の二人だけ。つぅっと傘から垂れた雨粒が肩口を濡らして、袖だけではなく徐々にその範囲を広げていく。別にかまわない、そう思う想いとは裏腹に現実はいつまでもこうしているわけにはいかない。 「じゃあ、おれ帰るね」 一度振り返り、そしてすぐに背を向ける動作は静かで軽やかに。傘下から抜け出しながら、用は無くなったと言わんばかりに折原は、ばいばい、手を振った。そのまま手の平は降りかかる雨粒から逃れるようにコートのポケットへと潜りこもうとして、しかし、それよりも早く平和島は折原の手首を掴んだ。 慎重に手を引いて、再びその痩身を傘の下へと半ば無理矢理に押し込める。見下ろす先、ムカつくほど整った切れ長な目がやけに幼く丸く、なに、と一言寄越された言葉になにじゃねぇよ、とため息をつきたくなった。家に帰ると言うのなら、 「そっちじゃねぇだろ、」 折原は首をかしげた。なに言ってるの、と言いたげな眼差しを無視して掴んだままの細い手首を口元まで引き上げ、その真っ白な手の甲に触れた。口唇に伝わるひやりとした温度に今度は本当にため息が零れた。こんな冷たい手をさせて、何を言っているんだか。 「俺んちの方が近いだろうが、」 |
透明な細胞が色付くように 42138hitリクエスト、fromしらすさん (優しい雨とキスの、甘いお話) |