愛してはいる、けれど、恋してはいない。だから毎朝毎朝、靴箱からぱたりと落ちる手紙の扱いには少し困っていた。手紙自体は嫌いじゃない。むしろ目に見えぬ想いを形作って届ける手紙は好きだ。簡易のように見えてとても複雑な、目にする者によって価値が異なる密やかな芸術品。 しかし、だ。これは些かいただけない。いくら読み返してみても送り主の名が書かれていない手紙を片手に折原は思う。 ただただ、退屈だった。むやみやたらに数を重ねるだけで、実際にはちっとも踏み出そうとしないそのぬるさにあくびが出る。だから、遠くの方から感じる粘つく視線に向けてにこり、とお手本のように綺麗に笑って見せたのは言わば挑発。 あわよくば、と願うのは退屈な日常から逸脱するような弾ける想いひとつ。 ありえないような速さで飛んでくる椅子を避けたところで、アレはなんだ、と聞かれてすぐに返せる言葉は持っていなかった。は、と思わず聞き返したのは反射的に、けれどすぐにその意味を理解することはできた。まさか気が付いているとは思わなかったが、奴の妙に鋭い野性的感を思えばそれほど不思議ではない。 ふん、と折原は鼻を鳴らし目を細める。答える義務などない。折原は平和島の問いかけに無言を返す。途端に平和島の眉間に刻まれた皺が数を増した。その表情は“恐ろしい”と表現するのに十分値するものだったが、折原からしてみればどうでもいいものだ。 ちらり、と視線を外して外を見れば、遠くで沈む夕日が微かに眩しく廊下を橙色に染めていた。今日はもう終いにしてしまおう。そう思って手にしていたナイフの刃を慣れた動作でたたむ。ぱちり、と聞き馴染んだ音。するとまるでその音を合図にしたかのように、目の前の平和島が不意に片手をあげた。なんだと思ったのはそれこそ一瞬。その手に握られる見覚えのある手紙を見てはっとした。 咄嗟にズボンのポケットへ伸ばした指先にあるはずであった感触はない。いったいいつの間に落としたのだろうか、思いっきり舌打ちをしたい気分だった。別に見られて困るものでもなければ、その手紙に執着心があったわけではない。だがそれは折原の愛しい愛しい人の子が綴った手紙だ。たとえ中身がどんなに退屈でぬるい想いの欠片だとしても、いずれはただの紙にもなれずに屑へと姿をかえる運命にあったものだとしても、便箋に皺ができるような、そんな粗雑に扱われるのは我慢がならない。返せよ、と零れた声は自分でも滅多に聞けないような音をしていた。 言葉で示したくらいで、すんなり返すはずがない。そうわかっていたから、折原は無骨な指が掴む手紙へと手を伸ばした。案の定、手紙はあと一歩と言ったところでするりと逃げて遠ざかる。生憎と茶番じみたやり取りに付き合う気は毛頭なく、折原はたたんだばかりのナイフを手にすると目の前の手首を切り落とす勢いで振るった。媒体を通して伝わる感触は薄い。それでも一閃をえがいたナイフは平和島の皮膚を少し切り裂いた。 反射的のように一瞬硬直した指から手紙が離れ、ひらりひらりと舞うようにして落ちるそれを折原は床につくよりも早くそっと掴みとると今度は落とさないようにと手紙を胸ポケットに入れ、すぐさま踵を返す。だが、一歩も足を進めないうちに大きな手の平に腕を掴まれ眉間に皺を寄せた。 振り払おうと、ぐっと二の腕に力を込めてみるが、憎らしいほどにその手の平はびくともしない。馬鹿力め。そんな悪態、今さらすぎるほどに今さらだが思わずにはいられなかった。 「離してよ、」 言葉は簡素に、手の平の主を振り返る。そのままほんの少しの鷲色を帯びた双眸を睨み付けようと顔を上げて、しかしその視線はこちらを向いてはいなかった。見上げた横顔は窓の外をぐっ、と睨んでいる。釣られてそちらに顔をやってみれば窓の外に人影が見えた。逆行と近いとは言い難い距離のせいで表情はおろか、顔すらよく見えない。けれど、それが何者であるかを折原は知っている。確か、今日で二週間を超えた。 「……鬱陶しい」 ぼそりと呟かれた低い声に、それはこっちの台詞だろうと思う。君には何ひとつ関係ない話だよ。どう考えても、そうだろう? 思ったよりもあっさりと腕を解放されて少し首をかしげる。視線を窓から戻してみると、長身がふらりと踵を返し、そのまま近くの教室へと姿を消した。確かそこは彼が属する教室ではなかったはずだが、と再び首をかしげようとして、しかしすぐに平和島は戻ってきた。なぜか片手に椅子を持っている。反射的に身体が警戒の体制を取りかけたが、相変わらずその目はこちらを見てはいなかった。じっと観察するようにして見つめる先、平和島は無言のまま窓を開ける。 「ちょっと……、」 何をする気だ、と続けようとした声は風切り音にかき消された。動作はまるで野球ボールを放るがごとく軽い。束の間の静寂ののち、がしゃん、と遠くの方で騒音が鳴るのを他人事のように聞いた。 きっと、その時の自分は柄にもない表情をしていたと思う。窓へと首を向ける動作が、まるで油の切れたブリキのおもちゃのように些かぎこちないであろう自覚はあった。 校庭の隅っこに小さな砂塵が見える。2mも離れていないそのすぐ近くには、腰を抜かしたように座り込む人影があった。外したのではなく、きっと最初から当てる気などなかったのだろう。根拠もなく確信していたが、だからこそそのあまりにも浅はかさな行為に折原はただただ呆れ果てた。 「信じらんない……」 万が一にでも当たっていたら一体どうするつもりだったのか。考えてみたところで、きっと答えはわからないに決まってる。 「臨也、」 その声は表面こそ静かではあったが、その裏側の方からは隠しきれない憤懣のようなものを感じた。言葉は返さずに視線だけをそっとやると眉間には相変わらず皺が刻まれていて、よくまぁ痕にならないものだ、とどうでもいいことを思う。 いざや、ともう一度名前を呼びながら、平和島はそっと手の平を伸ばした。ゆっくりと近づく体温に折原の身体は無意識に一歩後ずさる。けれど本気ではない細やかな逃走ではその手から逃れきることはできず、手の平からすらりと伸びる長い人差し指に、とん、と胸を軽く打たれた。偶然か故意か、それは先ほど胸ポケットに仕舞った手紙の真上であった。 「……二度目はねぇ」 息を深く吐き出すようにして告げられたそれは一方的な警告。なんだそれは、と真意を測りきれず折原は顎を引いた。自然と上目遣いになりながら瞬きを一度二度と繰りかし、そのまま拒絶の意も許容の意も示さずに無言を貫く。結果としてそれは平和島の言葉を無視した形になったが、そのことに対して平和島が怒りを表すようなことはなかった。やがて胸元から指先が離れていく。やけに長く感じたが、実際にはきっと数十秒と経っていないのだろう。 何の前触れもなしに、平和島はくるりと折原に背を向けた。人気のない廊下に足音がやけに響いて聞こえる。遠ざかる背中にしずちゃん、と思わず声をかけると脚が一瞬止まったが、結局はそれだけだった。もとより、呼び止めるつもりはない。折原は大きな背中が遠く小さくなりそのまま廊下の角へと姿を消すのを何とはなしに見送った。そしてことり、と首をかしげる。 「意味わかんない、よなぁ」 独り言に答える者はいない。あらためて外を見るといつの間にか、外の人影までいなくなっている。ただ無残にひしゃげた椅子だけが広い校庭の隅にぽつりと寂しげに存在しており、どんどんと沈んでいく夕陽と相まって粗末な哀愁のようなものを感じさせた。 次の日、折原はいつものように家を出て通学路を歩き校門を通った。校庭を横切る際、ちらり、と向けた隅っこにあの椅子は存在していなかった。まるで初めから何事もなかったように。きっと気が付いた誰かが片づけてしまったのだろう。そんなこと、考えるまでもなく想像できた。 そしてもう一つ。消えた椅子と同じようにして、二週間前からずっと欠かさずに贈られていたはずのあの手紙もまた靴箱からすっかり姿を消してしまっていた。どうしてか、なんてそれこそ考えるまでもなかった。 |
愛のかたち 42138hitリクエスト、from匿名さん (ストーカーに悩まされる折原と、自分なりのやり方で助けてやろうとする平和島の話) |