朝日がひた眩しく池袋という世界を照らす中、遮光カーテンでぴったりと窓を覆った部屋は隅から隅まで薄暗く、まるで外界との繋がりを拒むようで、入るのにいつも少し、二の足を踏ませた。雑音の一つもしない、しん、とした沈黙が耳に痛いくらいに突き刺さる。
 なんともまぁ、おかしな話だと、思う。自分の部屋に入るのに、なぜこうも躊躇わなければならないのか。こぼれ落ちそうになるため息をぐっと飲み込んで、乾いた唇を意味もなく舐める。だが、いくら迷い躊躇したところで、引き返す、と言う選択肢は初めからどこにも用意されてはいなかった。平和島は、その事実をありありと自覚している。だから、黙り込んだままそっと静かに足を踏み出した。途端に、冬でもないのにひやりとした冷たい空気が肌を撫ぜるが、そんなのは気にしない。こんなもの、今さらだ。
 ベッドに近づくと、そこにはここ何週間ですっかり見慣れてしまった光景がある。週に一度は洗濯するように心がけている真っ白なシーツ。そのシーツに全身を包み込ませながら、夜空を思わせるような色をした獣の耳だけが隠れきれずにひょこりと姿を見せている。ぴくりとも動かない白い塊とは裏腹に、足の裏が床に触れるたびに微かに揺れるそれは、その中に丸まっている男の意識の有無を確かに伝えてきた。
「……おい、」
 起きてんだろ。声をかければ獣の耳は大きく動く。しかし、返事はない。いつものことだった。天の邪鬼、なんて言葉が可愛らしく思えるほどに男はいつだって一声かけたくらいで素直にこちらを振り向いたりなどしない。おい、ともう一度声をかけて、そこで初めて塊が身じろぐ。その拍子に白いシーツが滑り、耳と同じ色をした黒髪が覗き、そのさらに向こうからは鮮色の瞳が覗く。それは燃えるような朱色をしているにもかかわらず、酷く冷たい色を湛えていた。まるで蝋人形のように固められたまま変わることのない白い無表情。男のそれ以外の表情を、そして眼差しを、平和島は全くと言っていいほど知らないでいる。
 男はなにも教えない。笑った顔をはじめ、穏やかな声も、安らかな呼吸も、些細な思い出も、積み重ねた年月も、呼びかける名前も、何一つ男は教えない。教えてくれない。


 この男と出会ったのは二週間と三日前の、日が沈んで少し経った頃だった、と平和島はよく覚えている。場所は、誰も寄り付かなそうな路地裏の奥のさらに奥のそのまた奥。借りたら返す、という当たり前のこともできない糞で往生際の悪い男の背中を追っていた時のことだと、それすらも、平和島はよく覚えている。
 まるで殺人鬼に追われているがごとく必死に逃げる男の足は思いのほか速く、なりふり構わず振り回された腕になぎ倒された空の瓶詰のケースが煩わしく進行の邪魔をして、一度、二度、三度、と角を曲がった頃にはとうとうその姿を見失っていた。一旦、立ち止まり耳を澄ませてみるが足音は聞こえず、少し乱れる呼吸に一息つくよりも先に、くそっ、と悪態が一つこぼれ落ちる。とりあえず追いかけてみるか、それとも一旦、上司と合流するか。少し考えてから、結局、平和島は来た道を引き返すことにした。
 追うばかりに集中していたせいか、記憶にない分かれ道が何度があったが直感を頼りに歩き進める。長い道じゃない。すぐに見覚えのある場所に出るだろう。そう思っていたその途中だった。路地裏の隅っこの方に見慣れぬ小さな祠があり、思わず立ち止まった。今にもきれてしまいそうな電灯が弱弱しく辺りを照らす中、ミニチュアのような鳥居の赤色がやけに目を引く。しかし、それよりも平和島の目を引いたものがそこにはあった。
 小さな祠の元、うずくまる真っ黒な人影。ホームレスか、とよぎった考えは、だがすぐに違うと知れる。なぜなら、その人影はその身をとても小奇麗な着物で飾っていたからだった。こんな路地裏で、場違いな格好だ。自身の格好は棚に上げ、平和島は思った。
 気絶しているのか寝ているのか、そもそも生きているのか死んでいるのか。今の距離ではそれを判別することは難しく、無意識のうちに息潜めながら人影へと近づいた。こつ、こつ、と音を立てる自身の足音がやけに耳につく。手を伸ばせばかろうじて手が届くであろう距離。その距離まで近づいてみて、そこで初めて平和島はその者の頭に存在する“それ”を認識した。
 すぐにはそれがなんなのか理解できなかった。よくよく目を凝らしてみてそこでようやくそれが獣の耳によく似た形をしていることに気がつく。黒い髪と同じく黒い色をした毛並みの三角の耳。まぎれるようにして伏せられているそれに、一瞬、頭に猫でも乗せているのかと、そんなアホなことを思った。しかし、いくら更に目を凝らしてみても猫の姿など見当たらない。
 まさか、もしかして……。ありえない想像が平和島に脳裏を浮かぶ。だが、もしかしたら……。同時によぎるのは友人である首無しの彼女の姿だった。

 平和島は手を、伸ばしてみた。指先に耳が触れる。刹那、耳は勢いよく、ぴんっ、と立ちあがった。本物だ。そう思う暇もなく今度は、ばっ、と音がしそうな速さで目の前の頭が持ち上がり、思わず、うおっ、と声を上げて仰け反る。だが、視線だけは逸らさずにいた。だからだろう、その瞬間、目と目が合った。
 随分と綺麗な顔をしている。何を思うよりも先に、平和島は一番にそう感じていた。驚いているのか、初めて見るような色をした瞳が大きく見開かれている。ぴんと立ち上がったままの耳、よくよく見るとその後ろの方で狐を思わせる二本の尻尾が同じようにしておっ立てられていた。やはり、首無しの友人と同じ存在なのだろう。驚きに固まる目の前の存在とは逆に、平和島の驚愕はいたって少ないものであった。
 しかし、動揺していないかと言ったら、それはまた違う話だ。滅多なことではその一定の鼓動を崩すことのない心臓が、その時ばかりは少し速いリズムをとっていた。
 言葉を探す。こぼれ落ちそうな瞳を救い上げられるような、そんな言葉を探した。けれど、そんな都合のいい言葉など簡単に見つかるはずもなく、鼓動を続ける心臓の音だけがうるさく耳についた。まるで何かを急かすように、早く、早く早く。
『………、』
 けれど、平和島が言葉を音にするよりも早く、風が頬を撫でるような細やかな声が聞こえてきた。それは、あまりにも微かすぎてその音の形まではわからない。しかし確かに聞こえた声。
『今、なんて……、』
 聞き返すと赤い瞳はその眼を瞬かせた。そうして次の瞬間、眉間にぐっと皺をより、ぎらり、と目尻が鋭く吊りあがる。分かりやすい怒りの表情。それでも、やっぱり綺麗な顔をしている。平和島は思った。
『……嘘つき、』
 今度ははっきり聞こえた。男の声だ。それはすっと鼓膜に届くような静かな音をしていたのに、どこか棘を含んでいるようだった。意味を問い返す暇もなく、赤い瞳に青白い瞼が覆う。男はそのまま、小さく丸まり眠りにつく獣のように膝を抱えて顔を伏せた。二本の尾をするりと身体に巻きつかせ、そしてそれきり男は動かなくなってしまう。まるで、初めから何もなかったのだと錯覚しかねない沈黙がその場を支配した。
 確かに、初めてかける言葉にしては、少し不適切だったかもしれない。けど、それにしたって随分と腹の立つ言葉を投げかけられた気がするのはきっと気のせいではない。しかし、不思議と怒りは湧いてこなかった。それは相手が異形のものだからなのか、ただ単に感情が現状に追いついていないだけなのか、答えはわからなかった。
 ただ、唯一わかっているとしたらそれは、今日までのような些細なことに苛つきながらも平々凡々とした生活を送り続けるためには、今すぐにでもその場を離れるべきなのだろうという一つの感だけだった。余計なことに首を突っ込んでも、それこそ余計なことにしか成りえない。
 そうわかっていたはずなのにおかしなこともあるもので、気が付いた時には行き場をなくしていたはずの指先はまるでそうすることが当然のようにして男に触れていた。衣服越しに触れた冷たい体温。掴んだ腕は細く、持ち上げた身体は羽のように軽かった。今でも忘れずに、覚えている。



 今、思い出してみても、なぜ手を伸ばしたりなんかしたのか、わからない。でも、多分、きっと、過去に戻って全てをやり直せたとしても、この手の平はあの冷たい体温を知ることになるだろうという妙な確信が胸にぽつりと一つ。
 手に負えないなら手放した方がいいんじゃないの、なんて昔馴染みの友人は簡単に言ってのけるが、寝ても覚めても消えやしない。不思議な感覚だ。じりじり、と何かが音を立てている。それに、少し、焦る。なぜなのか。何一つわからない。

 男を見る。無表情なままの男の顔は、相変わらず綺麗だった。美人は三日で飽きる。その言葉がまったくの嘘っぱちだったことを、平和島は男を拾った四日目の朝に知った。そこに表情という名の明るい色が付けば、きっともっと綺麗なものになるに違いないのに、男はせいぜい眉を微かにしかめるだけ。薄暗い静寂を破った平和島を、まるで新聞の勧誘に来たしつこいセールスマンを見るような目で見てくる。
「……飯だ、」
 手にした椀をわかりやすく見せてやる。中身は卵を混ぜて作った簡易な粥だ。食べやすさを優先させた味気ない見た目のそれはまるで病人食のようだったが、男のあまりにも白い肌や首の細さに、あながち間違ってもいないのかもしれないと思う。
 あの日抱き上げた男の体重は、あまりにも軽すぎる。だが、男はそんなものいらない、とばかりにふい、と粥から顔をそむけた。そのままもぞもぞと再び寝入りの形を取ろうとする姿に、飲み込んだはずのため息が腹の底から蘇る。

 仕方ない。平和島は椀を一旦傍に置くと、男へと手を伸ばした。察した男が身を引くが、逃がすはずがない。後頭部を押さえて、顎下を捕らえ、そのまま親指を口内へ突っ込んだ。途端に、親指に尖った犬歯が突き刺さる。食いちぎらんとばかりに力の籠るそれは、しかし平和島には大した痛みではない。力の差など、歴然だった。
 匙を取って粥を掬う。零さないように、歯に当たらないように、慎重に隙間にそっと匙を滑り込ませる。びくり、と触れた顎下から全身の震えが伝わってきたが、手を放す気はなかった。白い喉がゆっくりと上下するのを見届けてから、新たに粥を掬い隙間にもう一度滑り込ませる。細い指が手首に絡み、引き剥がそうと爪を立てても止めはしなかった。
 食わなくても死にはしないだろう。首無しの彼女は言った。しかし同時に、はじめから精霊と言う存在の己とは違い、もとはただの獣が変化して今の姿になっただろう男がその生命を維持するには、何らかのエネルギーが必要なはずだとも彼女は言っていた。それを摂取しなければ、遠いいつの日か、男は静かにその存在をこの世から消すだろう。
 だから、平和島は何度も何度も、ゆっくりゆっくりと粥を掬っては匙を滑らせる。そうして、お椀の中の粥が半分にまで減った頃、男の眉間に一層の皺が増えたのを見て、ようやく手を放した。
「……っ、けほっ、」
 小さく咳を繰り返しながら忌々しそうに睨み付けてくる双眸に、だったら初めから素直に飯を食え、と言いたかったが、はたしてこの行為に意味はあるのか、確かな答えがわからずに無言を貫く。けれど、何もしないよりはましに違いない。少なくとも、平和島はそう信じている。信じるしか、ない。
 今日はもう、これ以上の役目は果たせないだろう匙を置き、代わりに目の前の背中に手を伸ばし、触れる。けほりけほり、と咳を繰り返す音に耳を傾かせながら手の平を滑らせ、男の目尻から涙が一筋だけ零れるのをもう片方の手の平で受け止めた。
 やがて、男の咳が治まり、辺りにはシーツを被ったような沈黙が帰ってきたが、平和島は男の背中に手の平を触れさせたままにさせた。男は、抵抗しない。それすらも煩わしい、と言わんばかりに瞼を伏せ、口を噤み、耳を伏せたまま、呼吸だけを繰り返す。
「寝るのか……?」
 やはり、返事はなかった。はじめから期待はしていない。でもそれは、落胆しない、ということとは少し違う。けれど、どうしようもない。世の中、そんなことばかりだ。しかし、本当にどうしようもないのは、この世の中でも、腕の中の男でもなく、自分自身に他ならないのだから、それこそまったくもって救い難い。

 平和島は男の身体を胸に抱え込んだ。そのまま、どうしようもない何かを振り払うようにして投げやりにベッドに横になる。するりするりと滑るシーツは、男がずっと横になっていたにもかかわらず、冷たい温度のまま。
 男は、やはり抵抗を示さなかった。それを良いことに冷たい胸元にそっと手の平を触れさせてみた。男は少し身じろいだが、それだけだ。肌触りのいい着物の向こうから、とく、とく、と静かな鼓動が伝わり、その振動に妙に安堵した。
 調子にのって手鞠のように小さく丸い頭に顔を埋めてみる。頬を撫でる柔らかな感触が心地いい。すん、とこっそり息を吸えば、微かに、雨で濡れた若草のような匂いが鼻腔をくすぐる。それは遠い昔に、田舎に住む母方の祖父母の家へ訪れた時に嗅いだ自然の清々しい匂いにどこか似ていてた。懐かしい。


 何をしているんだろう。思わない日はない。それでも手の平は、男の頭をくしゃりと撫でていた。眠りに落ちる間際に似た感覚。全ての行動が無意識であり、衝動であった。男が、すん、と鼻を鳴らす。
「………つがる、」
 聞こえるか聞こえないか、道路の白線の上を踏んで歩くような声が鼓膜を撫でる。それは、まるで違う言葉を紡いだはずであろうに、なぜか不思議と名前を呼ばれたような、そんな気がして、平和島はそっと腕に力を込めた。男は、無抵抗のままだ。
巡る世界
(前世でお知り合い)