忘れられないものがある。

 たとえばそれは母の華奢な背中だったり、優しい手のひらだったり、暗い瞳だったり。それは父の馬鹿らしい執念だったり、珍しく褒めてくれた時の声だったり。こっそり隠れて兄姉たちと一緒に遊んだことだったり。昔のこと。最近だと全身ぼろぼろなのにやけに力強く背中を押してくるようなクラスメイトの言葉だったり。いろいろ。色々、忘れられないものがある。
 たとえば、それは――。


 時は放課後、轟は廊下を歩いていた。目指すは昇降口。その足取りはよどみなく、規則的だ。少し前までは、こんな風には歩けないでいた。すべての授業が終了して家に向かうとなった瞬間に、いつだって轟の足は大きな石でも括りつけられたかのように重いものであった。家はあまり居心地がよくない。だから、帰りたくない。でも帰らなければならない事実に、放課後は決まって憂鬱だった。
 けれど、今はもう違う。勇気を踏み出し訪れた病室で母と向き合ったあの日あの瞬間から、轟の身にまとわりついていた重しはなくなったのだ。軽やかに、とまでは流石にいかないが、自宅に向かう足に迷いはない。すかすかだった轟の日々は満ち足りはじめたのだ。
(あぁ、でも……)
 一つだけ気がかりは、ある。
 家族のしがらみを正面から受け止める覚悟を決めた今だからこそ引っかかるもの。それは轟の最近の悩みである。誰にも相談したことはないし、悩んでいる素振りなど表に出したりしないが、その“気がかり”は満ち足りはじめた胸に小さな傷を作って、決して満杯にはさせようとしない。どうにかしなければ。そう思ってはいるのだが、どうにもできないままでいる。

 なにかいい手はないだろうか。考えながら轟は足を進め続ける。しかし、昇降口までたどり着いたころになって、そこに見覚えのある背中を見つけ、あ、と足を止めた。今日はなにかあったのかそれともただの偶然なのか、やけに人気がないそこにまるで夜空に輝く一番星のように唯一彼の姿だけがそこにあった。
「……爆豪」
「あ……?」
 思わず、確認するようにしてその名を声に出してみれば、ちょうど校舎の内と外を過ぎようとしていた背中が反応し、ゆらりと揺れた。目をそらせずにそれをじっと眺めていると、そのままふり返った爆豪とぱちりと目があった。赤い、燃えるような瞳。こちらを認識しただろう瞬間、その瞳はすっとわずかに細められた。
「…………」
「…………」
 名を呼んだはいいが、呼んでしまったのは咄嗟のことで続きの言葉を持たぬ轟は沈黙した。ふり返った爆豪もまなにを言うわけでもなく口を閉ざしたまま。なにかようかの一言すらなく、二人の間にはなにも、ない。やがて、しびれを切らしたのか、ちっ、と舌打ちとともに爆豪の視線が外された。ゆるりとふたたび目の前の身体が揺れる。
「っ爆豪」
 前に向きなおろうとしているのだと、気がついた瞬間、轟もふたたび声を出していた。さきほど思わず呼んでしまったばかりの名を、またしても思わず。
「…………」
 呼ばれた爆豪は動きを止めて、横目で轟を見てきた。冷たい目だ。こちらに向けることに成功した瞳を見つめながら轟は思った。燃えるように赤い瞳色をしたなのに、轟をにらむ彼の瞳は酷く冷たい温度をしていた。それこそ見つめられた先から凍りついてしまうのではないかと、そんな気にさせるほどに冷たい眼差し。
 あの体育祭以降、ずっとそうだ。なにかの拍子に目が合うと、決まって爆豪はすっと冷たく目を細める。そして、まるで道端に転がった虫の死骸でも目にしたかのように眉間にしわを寄せ、不愉快を隠さないまま視線だけでなく顔ごとふっと轟から背けるのだ。
「……っ」
 もうすっかり慣れてしまったはずの反応なのに、あらためて突き付けられたその冷たさに、つきり、と胸の傷が傷んだ、ような気がした。

 わかっている。そんな眼差しを向けられるのも、その眼差しすらすぐに背けられるのも他の誰でもない自分自身のせいであると、轟は自覚している。爆ぜるように熱く瞬いていた彼の瞳から、先に視線を外したのは他ならぬ自分のほうだ。
『虚仮にすんのも大概にしろよ!』
『勝つつもりもねぇなら俺の前に立つな!!!』
『なんでここに立っとんだクソが!!』
 彼はあんなにも真っ直ぐに自分と向き合っていてくれてたというのに、自分はそんな彼としっかり向き合っていなかった。自分自身のことで手いっぱいで、全力の爆豪に全力を返してやれなかった。最後の最後で、なにもかもを台無しにしてしまった。

 ずっとずっと気がかりだった。母と向き合い心の余裕ができてからは、ちゃんと爆豪に謝りたいとそう思い続けていた。けれど、お世辞にも良いとは言えない対人技術のせいで喋りかけるタイミングすら掴めないまま、ずるずると時だけが無情に過ぎ去ってしまっていた。だからきっと、今のこの状況はチャンスなのだ。
「……爆豪」
 先ほど名前を呼んだのは無意識と反射であったが、今度のこれは違う。しっかりとした自身の意志を持って、轟は爆豪の名を呼んだ。逃すわけにはいかない。轟はぐっと気を引き締めた。今こそ、彼に謝らねば。
「爆豪、その……この間は――」
「おい、それ以上口を開くな」
 しかし、意を決して伝えようとした謝罪は地を這うように低い低い爆豪の声によって早々にさえぎられてしまった。
「誰がお前の話を聞いてやるなんて言った?」
 低い声は続ける。瞳と同じ、冷たい言葉。
「俺はお前の話は聞きたくない」
「……だが、俺はお前に――」
「お前がなにを言いてぇかなんて知らねぇが……、もしも、だ」
 お前に謝りたい。そう続くはずだったはずの言葉はまたしてもさえぎられる。
「もしも、謝罪がしたいんだったらお門違いだ。言い訳がしたいって言うなら鏡にしてろ。懺悔がしたいなら協会でも探せ」
「…………」
「言っただろ。てめぇの事情なんざ知ったこっちゃねぇ」
 挙句の果てには、完璧なまでに拒絶の意思を表示された。自業自得だ。ちゃんとわかっている。わかってはいるが、あまりの取りつく島のなさに痛みを覚えずにはいられず、眉間にぎゅっとしわを寄せた。口を強く結んで痛みに耐える。
 爆豪はそんな轟を相変わらず不機嫌ににらんでいた。だが、すぐに一切の興味を失ったように視線を外した。ざ、と地面を踏み出す音が耳に届く。はっ、といつの間にか俯きかけていた顔を上げれば、爆豪は轟に背を向けそのまま歩き出してしまっていた。
「っ待て、待て爆豪!」
 きつい言葉だった。これ以上の歩み寄りを戸惑わせる飾りっ気のない拒絶の言葉。それでも、それでもまだ諦めきれなくて轟はもう何度目かになるその名前を呼んだ。しかし、その背中が呼びかけに反応することはなかった。爆豪の姿が遠ざかっていく。少しずつ、徐々に徐々に。待て、ともう一度声をかけてもそれは同じだった。
 轟は胸に焦燥が募るのを強く感じた。だめだ。ここで逃してはだめなのだと、本能が叫んでいた。ここで逃したら、きっとあの瞳はもう二度とこちらを向いてはくれない。そんな予感がした。けれど、それはだめだ。そんなのは、いやだ。

「爆豪ッ!」
 気がつけば声を荒げると同時に、ごっ、と炎が舞っていた。それは爆豪の頬にぎりぎり触れない距離で、彼の横を通りすぎた。はっ、と爆豪が振り返る。驚愕に見開かれた目は、しかしすぐにまた鋭く細められた。
「なんのつもりだ、てめぇ」
 苛立ちの増した声。そして険を増した眼差し。だが、その眼差しは先ほどまでとは少し違う色をしていた。赤い目の奥深いところで、ちり、となにかが爆ぜかけている。見覚えのある色。その色を認識した瞬間、心臓が跳ねた。そして、いまさらのように轟は気がついた。
(ばかだ。俺は)
(気がかりなのは、謝りたかったから、だけじゃ……ない)
(あの時から、ずっとずっと、忘れられずにいた、ものが、ある)
(それは、それは――)

「っ聞け、爆豪」
 かざした左手で、そのまま爆豪を指さす。伝えるべきは謝罪の言葉ではない。爆豪の言う通りだ。言い訳するのも、懺悔を抱くのも、馬鹿な話だった。だってそうだろう。そもそも、はじめから許してほしかったわけじゃないのだ。ついさっき、気がついた。轟が“欲しい”と思うのは許しではなく、それは――。
「俺は……俺はもうお前に謝る気はない。その代り……」
「……んだよ」
「その代り、俺はお前に宣言する」
「宣言、だぁ?」
「そうだ」
 頷くと、爆豪は轟の真意を見定めるかのように眼差しをよりいっそう鋭くした。赤い瞳が、ちり、ちり、とさらに色味を増し、連動するように轟の心臓はその心拍をあげていく。そうだ。その色だ。あの時、見せた熱く瞬いていた全力の瞳。胸がじわじわと少し熱くなる。炎を使ったから、では、ない。もっと違う理由。
「爆豪。次、だ」
 ともすれば震えそうになる喉元にぐっと力を込め、轟は強く爆豪を見つめ返した。本当に今までの俺は大馬鹿だったと愚かな自分を叱責しながら、どくどくとやけにうるさく打ち付けてくる胸を抑え込んで、轟は宣言する。
「次お前と相対する時は……その時こそはっ、全力でもってお前を叩き潰す!」
 腹の底から出した声。放課後の昇降口でなにを言っているのかと、頭の片すみにまだ存在していた冷静な部分で思うが、結局はそんなことどうでもよかった。ただ、いまは目の前の爆豪の反応だけが気になってしょうがない。

「…………」
「…………」
 ふたたび二人の間に沈黙が落ちた。かと思えば、ふっ、とふいに爆豪が笑った。小馬鹿にするような、人を見下すような、そんないやな笑み。けれど、それは違いなく“笑み”であった。眉間にしわを寄せ、嫌悪ばかりの表情を浮かべていた爆豪が轟に向けた、笑み。
「っ」
 ぐぅ、と思わず息をのんだ。なぜなのかは、わからない。考える余裕もないままに、目の前の爆豪が、ははっ、ともう一度笑う。
「半分野郎が言うじゃねぇか……だがな、」
「な、んだ……?」
「たとえてめぇが全力を出しても、次も、勝つのは、この俺だ」
「……俺だって、もう、負けない」
「ふん、言ってろばぁか」
 ちいさな子どものような罵りを最後に飾って、今度こそ爆豪は轟に背中を向けた。一度も振り返ることなく遠ざかっていくその背中をじっと見つめながらも、轟はもう彼を呼び止めたりはしなかった。

 忘れられないものがある。
 母の背中、父の声、兄姉の時間、友の言葉。
 そして、彼の赤く爆ぜるような真っ直ぐな眼差し。どこまでも、鮮烈な眼差し。
 轟はあの眼差しがもう一度、欲しいと強く、思う。
全力少年