勉強ははっきり言ってあまり好きではない。身体を動かしているほうが楽しいし、漫画を読んでいる方が気楽でいい。でも、最近は勉強も結構悪くないと思っている。案外、爆豪は教え上手だ。あわよくば一緒にいられる時間を増やせたらと、不純な動機を多分に含んだ先生役のお願いは思いのほか全うに機能していた。 だが、それはあくまで思いのほかであって、まったくそういうことがないというわけじゃあない。だって、そうだろう。二人きりの空間で、こんなにも近い距離にいてなにもするなというほうが無理な話だと、切島は強く思う。 う〜む、と行き詰った問題に頭を働かせたのはたぶん一瞬だ。早々に自力での突破をあきらめた切島はヘルプの声を上げた。 「爆豪、ここわかんねぇんだけど……」 「…………」 「爆豪? おぉい、無視すんなよ〜」 返ってこない反応に首をかしげ切島は背後を振り返る。相澤先生から提出されたプリントは2枚。切島がようやく1枚目を終えたころにはその2枚ともをとっくにやり終えてしまっていた爆豪はベッドの上で悠々と雑誌を読んでいた。分からないところがあるたびに切島は爆豪に助けを求めたが、何問目がわからないと伝えただけでプリントも見ずにどの問題かすぐに理解し、口頭だけで解き方の説明をする爆豪の記憶力と賢さには本当に目を見張ったものだ。 だと言うのに、どういうことだろうか。さっきまでは確かに返ってきた反応が、返ってこない。まさか、あまりにヘルプを求めすぎて匙を投げられたのだろうかと思いながら後ろを振り返ると、ベッドの上の爆豪は読んでいたはずの雑誌を胸元に置いたまま動かない。 「爆豪さぁ〜ん?」 三度、声をかけるがやはり返事はない。そろそろとベッドに近づいてみると、すぅすぅとちいさく聞こえてくる安らかな呼吸音。もしかして、と気配を殺しながら膝立ちになって顔を覗いて見ると案の定赤く鋭いはずの瞳は白い瞼に隠されていた。 ふむ、と切島は考える。だが、それは分からぬ問題を投げ出す時よりもさらに一瞬。切島はすぐに立ち上がると、そっとベッドの上へ乗りあがった。音を立てないように慎重に、慎重に。それでも増えた重みにベッドはぎしりと軋む。しかし、爆豪に反応はなく切島はほっと息をついた。そして、そのまま調子に乗って爆豪の上へとのしかかった。もちろん、体重はかけないよう渾身の注意を払って。 眠る爆豪の顔の両脇に手をついて、さらに近くでその寝顔を覗き込む。いつもの凶悪な表情からは想像できないほどあどけない寝顔だ。無防備、という言葉がよく似合うその爆豪の様子に切島の口元はたやすく緩む。 切島にとって、爆豪の寝姿はそう珍しいものではない。ほかの連中にとっては幻のごとく珍しいものであっても、切島は違う。もう幾度となく見たことのある姿だ。それが許されるだけの関係だ。しかし、何度も見たことがあるからと言って、見飽きたり見慣れることは決してなかった。どれほど眺め続けても無防備なその寝顔に飽きることも慣れることもなく、あまりのあどけなさに毎回だらしなく顔を緩めてしまうのを押さえられないでいるほどであった。 むしろ、欲求に大きな火をつけたと言ってもいい。切島は目の前にあるシャツに手を伸ばすとぷつりぷつりとゆっくりボタンを外していった。シャツをずらして前をはだけさせる。そうすれば、シャツの白さとはまた違った色をした白い肌があらわになった。普段はあまり意識することはないが、こうしてまじまじと見つめると爆豪は案外色白だ。首筋にそっと手のひらを添えれば、切島との違いがはっきり見て取れる。自室に籠るタイプでないのにこの白さなのは、きっと体質なのだろう。 添えたままの手をそのままゆっくりと滑らせると、しっとりとした感触が手のひらに伝わった。月の数は七。日に日に太陽の輝きは増すばかりで、じっとしているだけでも自然と汗が額を濡らす季節。汗で少し濡れた肌はいい感じに手のひらに吸い付いてきて、爆豪が寝ているのをいいことに切島は何度も何度も肌を撫でつけ、しばらくその感触を楽しんだ。 十分すぎるほどに爆豪の肌を堪能した切島は、次にふらふらと引き寄せられるように白い首筋へと鼻先を埋めた。そのまま、すん、と鼻をならせば甘い匂いが鼻腔をくすぐる。とても、甘い匂い。これほどまでの距離を許されるようになってから知った爆豪の匂いだ。この匂いを嗅ぐと、どうしようもなくたまらない気持ちになる。 (あぁ、やっぱりだめだわ……) ちょっと見るだけのつもりだった。ちょっと触るだけのつもりだった。ちょっと嗅ぐだけのつもりだった。けれど、結局はだめだった。こんなにも美味しそうなものが、こんなにも無防備に晒されて我慢なんてできるはずがない。切島は抗えない衝動のままぐわ、と大きく口を開けると、白く甘い首筋にそっと噛みついた。 「ん、ぅ……」 噛みついた瞬間、爆豪はちいさく声を上げ身じろぎをしたが、まだ目を覚ますまではいかなかったようだ。切島は、ふへ、と笑ってからさらにがぶがぶと甘噛みを続けた。やんわりと返ってくる肉の弾力。舌先でその表面を舐めれば滑らかな肌触りと一緒にほのかに汗の味が伝わってきた。そんなはずがないのに、不思議と汗すらも甘い。 首筋からするすると唇を滑らせ、鎖骨に口づける。皮膚の下の骨の形を確かめるようになぞっては、窪みの部分を舌先で突く。それだけなのに、あぁとても楽しい。夢中になって切島は続けた。 そのままどれほどの間、爆豪の肌を好き勝手に堪能し続けただろうか。まだまだ飽きる気配など微塵もなかったが、ふいに「おい」と頭上から声がかかってきて、切島は行為を中断して顔を上げた。そうすれば、髪も肌もなにもかもが薄い色素をしている中、唯一濃く強い色をした瞳がうろんげに切島をにらんでいた。 「おー、やっと起きたか」 「やっと起きたかじゃねぇ。なにやってんだクソ変態」 「おいおい、起きて早々口悪いな」 「寝てる人間に舐めつく野郎なんざ変態以外のなにものでもねぇわ」 「まぁ、たしかに反論はできねぇな」 自覚はあった。ただ、自覚があってもなお、やめる気がなかっただけだ。 「おい、どけや」 「ん〜……、もう少し」 「っざけんな。てめぇ、プリントちゃんと終わったのかよ」 「まぁまぁ、その話は置いといて置いといて」 のらりくらりと誤魔化しながら切島はえいやとさらに大きく爆豪のシャツをはだけさせた。ぐぐ、と爆豪は鬱陶しそうに眉間にしわを寄せるが気にしない。はたから見ればどう見ても不機嫌丸出しの表情だが、まだ本気で怒っている顔じゃない。切島にはわかる。だから、まだ大丈夫。まだまだ至福の時は終わらせない。 胸元に手を当て腹へと手を滑らせて、脇腹へと噛みつく。そうして舌先を這わせれば、びくり、と爆豪は今までで一番大きく反応した。くすぐったいのだろう。あまりこの辺りを舐め続けると爆豪は怒るから、脇腹はそこそこにしてがぶりがぶりと噛む場所を変えていった。あちらも噛んで、こちらも舐めて、どこもかしこも余すことなく。最後に、つぅ、と腹筋から胸元へと一気に舐め上げてから爆豪の様子を窺えば、真っ直ぐに目が合う。 「楽しいか……?」 「おう、めっちゃ」 「変態」 「うっせ! お前相手なんだから仕方ねェだろ」 開き直るように言い返してから、今度は二の腕に噛みつく。すると、すぐにまた「やめろ」と爆豪が制止の声を上げた。まったく往生際が悪いなと思いながら、切島はやはり気にせずにぐぐと顎に力を入れる。 「やめろって言ってんだろが、クソ変態」 「いっ、ててててて!」 だが、髪の毛を思いっきり引っ張られて、切島は二の腕から口を離した。 「んだよ〜、いいだろもう少しくらい」 「よくねーよ。忘れてんのか? 明日は演習あんだろ。変な痕つけんな」 「あ、あー……そうだった」 爆豪の言葉に切島は渋々と二の腕から口だけでなく顔も離した。たしかに、明日は爆豪の言う通り演習の授業がある。そして基本的に演習ではヒーローコスチュームを着用することになっている。それを考えると、下手に二の腕に噛みついて痕を残すわけにはいかない。なんせ爆豪のヒーローコスチュームは二の腕部分が露出している。制服だったら半そでのシャツでもぎりぎり隠れる範囲だが、肩の部分から露出しているコスチュームのほうでは丸見えだ。お預けを食らったような気持ちで、ぐうぅ、と切島は思わず唸る 「前々から思ってたけどよ、爆豪のヒーローコスチュームちょっとガード甘いよな」 「はぁ? 上半身裸のやつに言われたくねぇんだが」 「俺? 俺はべつにいいんだよ。だって俺は爆豪じゃねぇもん。でも、爆豪は爆豪なんだからあのガードの甘さまじ気をつけろよ」 「……意味わかんねぇ」 「なんでだよ!」 「こっちの台詞だ!」 いやいやいやと切島は首を振る。なんでわからないのだろうか。理解できないのはこっちのほうだ。白い肌を晒し、香しい甘い匂いをまき散らして、どうしてそんなにも無防備でいられるのだろうか。まったくもって理解できない。 今はまだいい。演習で相手をするのは教師か同じA組のやつらで、あいつらはみんな気の良い奴らだから大した心配は必要ない。だが、相手が本物の敵相手だったらと想像すると本当にぞっとする。だって、こんなにも白く滑らかで、甘く美味しそうなんだ。そんなの絶対に、絶っ対に噛みつかれるに決まっている! (それは、嫌だ、な) 自分以外の誰かが、この爆豪の肌に触れる。噛みつく。舐める。思わず想像してみて、あまりの不愉快さに切島は顔をしかめた。嫌、なんてもんじゃない。絶対に、なにがなんでも、断固として、嫌だ。嫌すぎて、胃のあたりがもやもやと気持ち悪くなった。 あまりの気持ち悪さに切島はもやもやを振り払うように、がぶりとふたたび白い首筋に噛みついた。すぐさま「おいやめろっ」と爆豪の制止がかかる。さきほどよりも、強い制止。だが、気にせず噛みつく。いや、気にしていないわけではない。爆豪がやめろと言っているんだからやめなければならないとちゃんとわかっている。わかっているのだが、とめられない。頭でいくら理解していても、身体が言うことを聞かないのだ。 (こいつに触っていいのは、俺だけだ) 甘い匂いに頭がくらくらする。もっとだ、もっと欲しい。衝動のまま、切島は徐々に徐々に顎に力を入れた。絶えず鼻腔をくすぐる甘いに匂いに、弾力のある柔らかい肉の感触。美味そうで美味そうで仕方がない。でも、食べてはいけない。あぁ、でもでも食べてしまいたい。ぐるぐると思考は回る。 「いッ、」 「っ」 しかし、ぷつり、と肌を貫く感触と、それとともに聞こえた爆豪の声に切島ははっと意識を取り戻した。慌てて顔を離し今まで噛みついていた首筋を見れば、そこにはぷくりと膨れている血の塊がある。その赤色に、逆に切島の顔からはざぁっと血の気が引く。 「わ、悪い!」 「っクソ髪野郎が、ふざけんなよ」 「ほんと悪い! ごめん!! ……痛いか? 大丈夫か?」 慌てて傷口を確認するが、膨らんだ血が邪魔だ。切島は自分自身で付けた傷口に顔を寄せると、戸惑いなくその膨らんだ血を舐め取った。じわり、と舌に鉄の味が広がる。それでも気にせずにさらにその下の傷口にも舌を這わせれば、びくり、と爆豪は身体を身じろがせた。 「や、めろよ、汚ねぇな……」 「いまさらだろ、舐めるのなんて」 「血なんか舐めんなって言ってんだよ。汚ねぇ」 「汚くなんて、ねぇよ」 汚くなんてあるはずもない。むしろ、鉄の味しかしない赤い血ですら、それが爆豪のものだと思うと途端に妙に甘いものに感じる。肌も、匂いも、汗も、血も、甘い。爆豪だから、爆豪のものだからこそ、すべてが切島にとっては甘い。末期だ。それこそ、いまさらのように自覚する。 「……なぁ、爆豪」 「んだよ」 面倒くさそうに答えるその声には、思いのほか苛立ちは含まれていなかった。ぺろりとさらに肌を舐めば、白い身体が微かに震える。だが、それだけだ。またすぐに噛みつかれる距離にあるというのに爆豪は離れろとは言わない。許容されている。その事実に、腹の底のほうがかっと熱くなるのを感じた。 「俺さぁ、いつかお前のこと食い尽しちまいそう」 耐えがたい衝動だった。だって、こんなにどこもかしこも白くて甘いんだ。頭のてっぺんから足の爪先まで、余すことなく平らげることなど、きっと造作もない。むしろ、すべて食らい尽さぬよう耐えることのほうがよっぽどつらいことではないのだろうか。切島は思う。 たまに怖くなる。己の執着心に。こんなにも手放しがたいものがあるなんて知らなかった。こんなにも心奪われる存在があるなんて知らなかった。けれど、もう知ってしまった。爆豪勝己という存在を知ってしまった。その身体から香る匂いを、白い肌の手触りを知ってしまった。知ってしまった以上、きっともう二度と手放せない。たとえ爆豪がもう嫌だと切島を突き放しても、手放してなんてやれない。 こんな醜いほどの執着を知ったら、はたして爆豪はどんな反応を返すだろうか。嫌悪、拒絶、嘲笑、蔑視。切島の頭にはろくでもない予想ばかり浮かんでくる。あぁ、そんな反応をされたらきっと立ち直れない。切島はすこしの恐怖と緊張に心臓の脈を速めながら、ふたたび噛みついてしまいたくなる幾度目かの衝動をぐっと抑えて身体を起こした。 恐る恐る、爆豪を見ると爆豪は切島の言葉に目を瞬かせていた。ぱちぱち、とどこか幼い表情。あ、かわいいな。なんて、さっき抱いたばかりの恐怖も忘れてうっかり思っていると、気がつけば爆豪の手が伸びてきた。凶器と言ってもいい手のひら。だが、切島はその手のひらを恐れない。 避けることなく爆豪の手のひらを受け入れると、それは切島の胸元を掴んできた。そのままぐっと力強く引っ張られる。切島はされるがままに背を曲げ、ふたたび爆豪を押し倒すようにしてベッドに両手をついた。鼻先と鼻先が触れ合うほどの近距離。爆豪は言った。 「はっ、上等だ。やれるもんならやってみろよ」 目を細め、ゆるりと口元に弧を描いてみせた。挑発的な、それでいてやけに艶めかしく劣情を煽る笑みだ。切島は思わずごくりとのどを鳴らした。腹の底の熱がさらに燃え上がる。まったくもってたまらない。白さも甘さも、屈することのない真の眼差しも、なにもかもが、たまらない。 「っ、あぁもうお前って本当に最ッ高だわ!」 切島が抱いたみみっちい恐怖心なんていともたやすく爆破してくれる。あぁ、そうだ、爆豪勝己はそんな男だった。真っ直ぐ想いをぶつければ、同じように真っ直ぐ想いをぶつけ返してくる、熱い男。それでこそ、俺が惚れた男。切島は大きな声で叫ぶと抑えていた衝動を解き放ち、誘われるがまますべてが甘い身体の中でもいっとう甘い唇へと噛みついてやった。 |
ブレーキなら死ぬまでかけない |