目が覚めて映りこんだ見慣れることのない天井に、朝っぱらからため息が出た。気分が悪い。けれど、この気分の悪さは横になっていれば解消するものではなく、爆豪はのろのろと緩慢にベッドから身を起こした。
 さっさと服を着替えて顔を洗う。簡易冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだして一口。水がするすると食道を滑って空っぽの胃に届くのを感じる。空腹だ。その事実にまたしてもため息がこぼれた。食いたくねぇな。腹は減っているのに、そう思う。けれど、食わないわけにはいかない。それをよく理解していた爆豪は飲みかけのミネラルウォーターを戻すと重い足取りで部屋を後にした。

 窓もない、薄暗い廊下を進む。切れかかった蛍光灯がちかちかと煩わしく、気分の悪さに拍車がかかる一方だ。前方を睨みつけるようにしながら爆豪はさらに進む。角を曲がって階段をのぼりまた少し歩く。そうすればしばらくして一つの扉が姿を現した。その扉のノブに手を伸ばして触れると、ひやりとした温度が伝わる。
 爆豪はしばらくの間、ノブに触れたまま身動きを止めた。これは癖のようなものだ。まだ、目の前の扉をすんなり開けられるほどにこの環境には慣れていない。だが、いつまでもぐだぐだしているわけにはいかない。自身の体温がノブに生暖かく移ったころになって爆豪は観念したように扉を開けた。

「おはようございます。爆豪勝己」
 扉をくぐって早々に声がかかる。紳士がかった物言いの低い声。ちらり、と声のほうへと視線をやれば黒い靄で覆われた男(なのかどうか外見ではわからぬのだが、声からして恐らく男なのだろう)がカウンターの向こうから同じく視線をよこしていた。その姿は、バーのようなこの空間でまさしくバーテンダーさながらだった。
「…………」
 だが、この男がただのバーテンダー風情でないことをよく知っている爆豪は返事をしないままカウンター席へ腰をおろした。そして端的に「飯」と催促すれば、男ことワープ野郎黒霧は気にした様子もなく「はい、ただいま」とやはりやけに紳士がかった返事をよこす。わがままな子どもの扱いは慣れてると言わんばかりの態度。あぁ、苛々する。
「お待たせしました」
 しばらくもしないうちに、ことり、と静かにいくつかの皿が爆豪の前に並べられる。トーストにスクランブルエッグにサラダ、そしてオレンジジュースが一杯。普通のメニューでよかったと安堵すべきか、普通すぎると肩を落とせばいいのか、毎回少し迷う。敵と言えど、食ってるものは一般人と変わらねぇんだな、とここで過ごすようになってから爆豪ははじめて知った。


 仲間にならないか。

 そんな、爆豪からしてみればくっそ愚問でしかない勧誘を一笑したのは三日前のことだ。馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない勧誘だった。今思いだしても、鼻で笑ってしまえるほどの愚問。説得の言葉など微塵も聞く気にもなれず、爆豪は早々に彼らに反抗した。
 しかし、敵の陣地でしかも八人を相手に逃げ切ることは叶わず、ふたたび身を拘束された時は流石に死を意識せざるを得なかった。仲間になりたくないの? じゃあ仕方ない解放してあげる、なんて、そんなお優しい展開などありえるはずがない。拒絶の意を示した時点で相応の覚悟をしていたことだったが、冷や汗が止まらなかった。
 だが、どういうことか爆豪誘拐を企てた張本人である死柄木弔は拒絶の意を示した爆豪を用済みだと始末することはなかった。それどころか、爆破を食らわした咎すらもすることはなく、そうか残念だよ、とわざとらしく肩を下げた。その顔に怒りの色は見えず、不気味な笑みを浮かべるばかり。
 そして死柄木は言った。
『でもいいさ、これからもっと交流を深めていこうか。そうすればいずれ君もきっとわかるだろうよ。爆豪勝己くん』
 馴れ馴れしく呼ぶんじゃねぇよ。
 そう言い返したかったが、口を開くよりも早く強制的に意識を落とされ、次に目が覚めた時には先ほどの部屋にいた。それからというもの爆豪は虎視眈々と脱出の機会を窺いつつ、敵連合のもとで監禁生活を送っている。

 さくり、と音を立てて爆豪はトーストの端っこに噛り付いた。甘い苺ジャムの味がじんわり舌に広がる。甘すぎない、上品な味をしたジャムだ。ふむ、悪くない。爆豪は一人静かに頷く。自分を連れ去り捕らえている敵が出す飯を食うのはどうなのか。そんな疑問はいまさらだ。
 爆豪だって最初は誰がてめぇらの用意した飯なんか食うか!と反抗の意を示していた。だが、いかんせん捕らわれの身だ。自分で食事を用意することなどできるはずなく、食わねば腹が減るのは当然で、なんの栄養も得られねば身体が弱るのもまた当然。長い葛藤はあったが最終的に爆豪は、餓死して終わるくらいなら敵が用意したものだろうがなんだろうが食ってやろうじゃねぇか、んでもって万全の調子でいつかこいつら全員ぶっ飛ばしてやる、と腹をくくったのだった。結果として食事におかしなものを混入されるなどということもなく、一日三食きっかり腹は満たされている。

 無言のまま、さくさくと食事を進める。黒霧との間に会話はなく、場はとても静かだった。自分を攫った敵連合のやつらなど誰一人として到底好きになれるわけなどなかったが、この黒霧は無駄口を叩かないからまだマシだ。一緒にいるのがほかのやつらだったら、こうも静かには過ごせまい。
 半分ほどトーストを食べ進めて、オレンジジュースと一緒に流し込む。指先についたパンくずを皿の上でパラパラと払えば、すぐにおしぼりが寄こされてありがたい。こういうささやかな気遣いを垣間見るたび、こいつはなんで敵連合に所属しているのだろうかと疑問が湧く。だがしかし、爆豪がそれを黒霧に尋ねることはない。聞いたところで素直に答えるとは思えないし、そもそも聞いたところで結局はどうでもいいことだとしか思えないだろう。

「やぁやぁ……オハヨウ爆豪くん」
 うだうだととりとめのない思考を転がしていると、ふいに耳に届いた声があった。黒霧のものとは違う声。鼓膜にまとわりついてくるようなその声に、残ったサラダにフォークの切っ先を向けようとしていた爆豪はぴたりと動きを止めた。うげぇ、と漏らしそうになる声を押さえてげんなりと視線だけを声のほうへとやれば、全身に不気味な手をまとう痩躯の男、死柄木がバーに入ってくるところだった。
「…………」
 忌々しい男の登場に爆豪はあからさまに顔をしかめると、苛立ちのままぶちりとプチトマトにフォークを突き刺した。誘拐犯の挨拶になど素直に返事をする気にはなれず、すぐに目の前の食事へと視線を戻す。
「無視は酷いんじゃないか、爆豪くん」
 しかし近づいてきた声に顔を上げれば、すぐ隣の椅子に死柄木が腰掛けるところであった。爆豪はさらに顔をしかめる。なにが悲しくて誘拐犯の横で飯を食わねばならぬのか。不本意で仕方がない。
「爆豪くん」
 重ねるように馴れ馴れしい響きで名を呼ばれうんざりする。うっせぇな、馴れ馴れしく呼ぶなって言ってんだろうがと実際に怒鳴ってやりたかったが、それでも爆豪は先ほど同様にその呼びかけを無視した。
「……爆豪クン」
 けれど、さらに名を呼んできた声に、先ほどとは違った雰囲気が混じったことに気がついた爆豪は渋々ながら死柄木の薄暗い目と視線を合わせてやった。いまでこそ飄々とした食えない態度をしているが、こいつは無視し続けるとガキのようにあからさまに機嫌が悪くなる。
 爆豪にしてみればこんなやつの機嫌が良かろうと悪かろうと知ったこっちゃないが、流石敵連合を率いている男と言うべきか。不機嫌な死柄木が放つオーラは形容しがたいほの暗さを含んでいる。コップいっぱいに注いだ水が山をなしていまにも零れ落ちてしまいそうな、そんなぎりぎりの危うさ。
 いつ気が変わって殺されるかわからぬ立場だ。仮にそうなったとしてもそう易々と殺されてやる気などさらさらないが、いまは大人しくしておいてやろうと決めた爆豪は嫌々ながらも口を開く。
「……うっせぇな。いま飯食ってんだろうが話しかけんな」
「あぁ、だがされた挨拶にはちゃんと返事をしなきゃダメだろう」
 社会の常識さ、の言葉にどの口が言うかと思ったが、思うだけでそれを口にするのは止めておいた。こいつの言動に真面目に付き合う必要などはないし、付き合うつもりもない。
 死柄木を再び無視して、食事を再開させる。死柄木は一言返事をしただけでも満足したらしく、それ以上無駄に名を呼んでくることはなかった。まだ顔を合わせて数分と立っていないが、もうそのままさっさとどこかへ行ってほしい。だが、残念ながらその願いは黒霧が死柄木の前にやつの分の朝食を置いたことで儚く砕け散る。

 こうなったらさっさと食って席を離れよう。
 爆豪はそそくさと食事のスピードを速めた。幸い、残るはサラダだけだ。時間はそうかからない。
「…………あ?」
 しかし、ふと見ると食べ終えたはずのプチトマトがふたたび自身の皿に転がっていることに気がついた。どういうことだろう。確かにプチトマトはすべて食べてしまったはずなのに。はて、と首をかしげる。その矢先だった。横からもう一つのプチトマトがフォークの腹に乗って運ばれてくるのを見て、爆豪は一気に眉を吊り上げた。
「……おい、てめぇなに人の皿に入れてんだ」
「俺、トマト嫌いなんだ」
「知るか! 人の皿に入れんなって言ってんだ!」
「代わりに食べてくれよ。いいじゃないか、俺と君の仲だ」
「てめぇと俺は誘拐犯と被害者の仲だっつーの!」
 ふざけんなっ、と爆豪は強くカウンターを叩いた。死柄木は「おぉ怖い怖い」と怯えた言葉を吐くが、どう見ても揶揄っているとしか思えないその反応に苛立ちが募る。
「死柄木弔、好き嫌いはいけませんよ」
 ぐぐぐ、と今にも出してしまいたくなる手を渾身の意思で押さえていると黒霧が口をはさんだ。とたんに、死柄木は顔をしかめる(まぁ、その顔のほとんどはよく分からぬ手のせいで見えていないのだが)。
「うるさい。別にいいだろ、トマトくらい」
「あなたのために言ってるのですよ」
「トマトの一つや二つ、食ったからってなにになるって言うんだ」
「しかしですね……」
「うるさい」
「…………」
 なんなんだそのやり取り。親子か。親子なのかこいつら。
 すぐそばで交わされる下らない会話にますますうんざりする。敵が一丁前に好き嫌いしてんじゃねぇよ。つーか、飯も食うな。飢え死にしろ。そんで二度と下らないその会話を聞かせるな。爆豪は脳内で罵倒を繰り返した。
 寄こされたプチトマト以外は全部食べ終わったのだから会話を続ける二人を放ってもう席を外してもよかったのだが、きっとそれは横の男が許しはしないだろう。爆豪には予感があった。そういう男なんだ。短い付き合いながら知っている。知らざるを得なかった。だから爆豪は、ちっ、と一つ舌打ちをこぼすと食えばいいんだろ食えばと寄こされたプチトマトを乱暴に口に運んでやった。それを奥歯で噛み潰しながら、これで満足かよ、と隣を見れば死柄木はにたりと満足げに笑う。まじきめぇ。
「……ごっそさん」
 二つ目のプチトマトも口に放って、爆豪は今度こそ席から立ち上がった。ごちそうさま、なんてわざわざ口にしたのは決して感謝の意ではなく、食い終わったから自分はもうここに留まる必要はないという正当なアピールだ。
「はい、お粗末さまでした」
「…………」
「爆豪勝己、昼はなにか食べたいものはありますか?」
 だというのに、馬鹿丁寧な返しをされた挙句、昼飯のリクエストまで尋ねられて爆豪は動きを止めた。黒霧に目をやれば食器に手を伸ばしながら、爆豪の返事を静かに待っている。

(なにやってんだかなぁ……)
 ふと爆豪は思う。敵の癖にのんびり飯を食ってるこいつらもそうだが、そういう自分自身こそがいったいなにをやっているんだろうか。満ちた腹にガキみたいな下らないやり取り、はたまた昼食のリクエスト。本来の状況にそぐわぬ温い空気にほんの一瞬、己がいまどこでなにをしているのか、わからなくなる。
 不安定な立ち位置に精神はまるで落ち着かない。そのくせ時間はやけにゆっくりまったりと過ぎていく。無為な日々だ。しかし、だからこそ、さっさとこんなところから出ていきたいと強く思う。こんなところで、なにをするわけでもなく腑抜けたままに過ごすなど自分らしくない。
(俺は、トップヒーローになる男だ)
 なにをどう言われようが誰が敵連合の一味になどなるものか。
 今一度、強く誓う。誓う、のだが……、現状はまだどうしようもないまま、脱出の機会を探りながらせいぜい敵連合の些細な情報を収集するだけ。まったくもって、本当になにをやっているんだろうか。思わず痛くなる頭を押さえながら、はぁ、とため息をつく。そして、あぁもうクソがとやけくそ気味に爆豪は答えた。

「パスタが食いてぇ」
毒にも薬にも花にもならない