ばぁんっ、と勢いよく開いた扉に反射的に身体が飛びはねた。そしてすぐに爆豪はうんざりと表情をゆがめた。あぁまたかよ、と吐き捨てながら、本から顔を上げ扉へと目をやる。そうすれば、そこには予想していた通りの男の姿があった。
「……やっぱりな」
 呟いた声には諦めの色が多大に含まれている。実際、爆豪は諦めていた。これから起こること、これから過ごさねばならぬ時間のこと、放り出さざるを得ない本のこと、色々。

 しおりを挟んで本を閉じる。うつぶせに寝転がっていたベッドに座り直してからふたたび死柄木を見れば、奴はゆらゆらと海外映画のゾンビのような動きでこちらへと近寄ってくるところだった。
「おい、せめてもっと静かに開けやがれ」
「…………」
「……くそが」
 無作法に目をつぶった挙句わざわざ声をかけてやったというのに、死柄木はなんの返答もよこしはしなかった。無言のままベッドのすぐ横までやってくる。かと思えば、かさついた手をゆるりと伸ばしてきた。一部の爪先が割れているその手を爆豪は振り払うでも避けるでもなくじっと見つめる。そうすれば、その手はゆるゆると爆豪の腰に回された。そしてそのまま、ぎゅっと身体を引き寄せられ、腹部に頬を押しあてるようにして顔をうずめられた。
「……まぁた、ニュースでヒーローの活躍でも報道されてたのかよ。それとも、オールマイトの特別番組でもやってたか?」
「…………」
 やはり返答はなかったが、十中八九原因はその二つのどちらかだろうと爆豪には確信があった。なんせ、死柄木がこんな状態になるのはこれがはじめてではないからだ。

 はじめて死柄木がこんな状態でやってきたのはいつだっただろうか。確かその時は、まだ今ほどにこの部屋になれておらず、落ち着かない気持ちでベッドに腰掛けて今後どうするかをぐるぐると思案していた気がする。そんな時に、いまと同じように、ばぁん、と勢いよく扉が開かれて思わず盛大に飛び上がったものだ。しかも扉を開けたのが、やけに黒いオーラを背負った死柄木弔だったのだから、ついにしびれを切らして俺を処分しに来たのかと焦りに焦り、少し情けない反応を返してしまったため、あまり思いだしたくない記憶だ。

「ったく、そんなに苛つくならヒーローのニュースなんて見てんじゃねぇよ」
「うるさいうるさいうるさい」
「あー、はいはい……」
「くそなにがヒーローだ。なにがこれからも正義のために頑張りますだただ自分の個性を見せびらかしたいだけだろ合法的に力を振るいたいだけのくせして正義の味方面してほんとムカつく調子に乗ってんじゃねぇぞ糞ヒーロー風情が馬鹿馬鹿しい民衆も民衆だあんな奴ら祭り立て上げて下らないにもほどがある」
 先ほどまでの無言から一転して、怒涛の如く死柄木が喋りだす。
「下らない。ほんと下らないこんな世界絶対ぶっ壊してやるヒーローがなんだオールマイトがなんだ平和の象徴がなんだ全部全部ぶっ壊してやるんだ思い知らせてやるんだお前らがいかに下らない存在なのか」
 止まらない死柄木の声はぼそぼそとしているくせにやたら早口で、聞き取りづらかった。だが爆豪は気にしない。というか、気にする必要がない。だって、死柄木のこれらの言葉に何ら深い意味など込められていないのだから。
 異様としか取れない様子の死柄木だが、なんてことにない。こいつはテレビでやっているヒーローへの称賛が気に入らず腹を立てて、苛立ちのままに愚痴り散らしているに過ぎなかった。言ってしまえば、ただの子どもの癇癪だ。
 苛立ちを誰かに向けたくて仕方がないちいさな子ども。無駄に反論したりだとか、落ち着かせようとして制するのは逆効果だ。ましてや、力いっぱい抱きついてくる腕を振り払おうものなら余計にこの癇癪は酷いものになる。初回でそれを学んでいた爆豪はぶつぶつと吐きだされ続ける言葉の数々を否定するでも肯定するわけでもなく適当に聞き流した。
 正直言って、勘弁してほしいと思う。なぜこんな男のこんな癇癪を自分が受け止めなくてはいけないのか。こういうのはあのワープ野郎の役目ではないのか。爆豪はそう思うのだが、なぜか死柄木は機嫌を損ねると爆豪のいるこの部屋にやってくる。そして人を抱き枕代わりにしながら、延々とヒーローに対する恨み節を口にするのだ。本当に勘弁してほしい。

 死柄木に抱きつかれまともに動けず、本も読めない。爆豪は手持無沙汰に胸元にある白髪頭を指先でいじってみた。ぎしぎしとしたあまり触り心地のよくない感触が指先に伝わる。しばらく洗っていない犬の感触のようだと思いながら、くるくると指に巻いてみたりつんつんと引っ張ってみたり。
「嫌になるよねほんとなんでヒーローもヴィランもなにも違わないってあいつら理解できてないんだよ馬鹿すぎて頭が痛いなんてレベルじゃないぜとんだバグだよバグあいつらの頭バグでいかれてやがるんだ絶対そうだ開発者だれだよくそしっかりテストしとけくそくそくそくそこんなんクソゲー以外のなにものでもないっつーの」
 呪詛にも似た声はもはや喫茶店のBGMのようなものだった。退屈に、ふわぁ、とあくびすら零れる。
(なに、やってんだかなぁ……)
 自然と浮かんだ涙を拭いながら、いつかも思ったことをふたたび思う。本当に自分はなにをやっているんだろうか。動けない身体にかわって、ぐるぐると思考を巡らせる。そうすると、ふいに思いだされるのは雄英のクラスメイトたちのことであった。

 今ごろ、A組のやつらはどうしているだろう。合宿襲撃でいろいろと対応に追われているのだろうか。それとも今はもう落ち着いて、いつも通りに授業を受け、いつも通りに実習を行っているのだろうか。そうやって、ヒーローになるための力を着実にその身につけていっているのだろうか。それとも。それとも……。
 答えの得ようのない思考を続ける。無意識に指先は傷んだ髪をいじくったまま、爆豪は空いてるほうの片腕をそろりと持ちあげるとそれをじっと見つめてみた。ここしばらくなんの実戦もしていない腕はかすり傷の一つもない。それでも、捕らわれてからも筋トレは欠かしていない。
 だというのに、どういうことだろうか、あらためて見つめてみたその腕は以前よりもなんだか少し細くなってしまったような、そんな気がした。色も、いつにも増して白いような気がする。元からあまり日に焼ける肌ではなかったが、それでも、この季節はもう少し焼けた色をしているはずなのに、太陽のもとに晒されることのなかった肌は白いままだ。
 その白さに、その細さに激しい焦燥が募る。
(俺は、こんなところで、なにを、やっている)
 のんきにベッドに転がって、本なんて読んで、挙句の果てにはこんな野郎に引っ付かれたまま平然としている。ガキみたいだから、機嫌を損ねたら面倒だから、拗ねてて仕方ないからと、現状を許容している。少し前なら、到底考えられなかった光景だ。けれど、今の爆豪は大きな抵抗も違和感もないまま、受け入れてしまっている。

「っ……」
 その事実に、はっ、と短く息を吐いた。意味もなくいじくっていたままだった髪から慌てて手を離す。なにを、やっているのか。殴りつけるようにして突き付けられた現状に、はっ、はっ、と自然に息が上がっていく。全力で走った後のように心臓が強く脈を打ち、一つの重たい感情が胸の奥からじわじわとその形をあらわにする。
(怖い……)
 それは紛れもない恐怖の感情であった。見知らぬ場所で目覚めた時も、継ぎ接ぎ野郎に首を絞められた時も、死柄木に始めて抱きつかれた時にも一ミリとて抱くことのなかった恐怖。それがたった今、爆豪の中で確かに湧き産まれた。
 成長しない身体が怖い。停滞している個性が怖い。立ち止まっている足が怖い。戸惑いの消えた指先が怖い。置いていかれる距離が怖い。そして、なによりも、この環境に慣れはじめてしまっている自分が――。
「こわ、い……」
 思わずこぼしてしまった声は柄にもなくちいさく情けない音をしてしまっていた。まるで、親とはぐれてしまった幼子のような声。すぐに爆豪は舌打ちをした。誤魔化すように、くそが、と乱暴に吐き捨てる。

「大丈夫」
 ふと真っ直ぐに届いてきた声に、爆豪は肩を震わせた。
 誰の声だと混乱したのは一瞬。は、とすぐに顔を向ければ、爆豪の腹部に頬を押しあてていた死柄木がゆるりと頭を持ちあげるところだった。暗いが、緩い眼差しをした目が真正面からぶつかる。
「っ……」
 聞いていたのか。驚く爆豪をよそに死柄木はぐっと距離を近づけてきた。反射的に身を引けば、長く細い腕が背中と後頭部に回って、ぐっと引き寄せられる。そしてそのまま、ぬいぐるみでも抱え込むようにしてぎゅっと抱きしめられた。頬に男の痩せた胸が当たる。先ほどとは位置が逆転した体勢。爆豪は突然のことに意味がわからないまま、身を固くした。
「大丈夫」
 すぐ近くで、同じ言葉が繰り返される。ぶつぶつと恨み節を吐きだしていた時とは違う、はっきりとした声。
 なに言ってんだ。そう言い返したいのに、強く抱きしめられたこの体制は少し息苦しくて、うまく言葉にできない。離せよと言うこともできず、それどころかなぜか身じろぎ一つすらできないまま、爆豪は死柄木の声と胸から伝わる心音を聞いていた。
「言っただろ。俺が全部壊してやる。くだらない世界も偽善者のヒーローも、全部」
 相変わらず、死柄木の言葉は子どもじみた物騒さでできていた。それなのに、抱きしめてくる腕には強さと同じくらいの穏やかさがあった。なんて不自然な状況なのだろうか。
「ははっ、そうさぶっ壊してやるんだ! あぁ、全部全部! だから、なにも怖くない。そうだろ爆豪くん。大丈夫なんだ、ははッ、大丈夫」
「……ッ」
「大丈夫、爆豪くん。俺がいる」
 言葉とともに頭を撫でられる。その瞬間、かっ、と手のひらが熱くなった。衝動のままに個性を使ってしまわなかったのが不思議なくらいだった。

 言いようのない怒りがふつふつと胸の奥から湧き上がる。ふざけるなよ。すべての元凶はお前じゃないか。どの口が「大丈夫」などとほざく。どの口が「俺がいる」などとほざく。最っっっ高に腹立たしい。今まで何回もその横っ面をぶん殴ってやりたいと思ったが、今がぶっちぎりにその瞬間だった。
 だが、震えるほどの怒りと同時に、爆豪の中にもう一つ湧き立つものがあった。恐怖に染められていた胸をそっと撫でるような、そんな感覚。いますぐにでもほっと息をつきたくなるようなそれは“安堵”であった。
 身体に触れた手がするりと撫でるように動いて、びくりと肩が揺れる。抱きしめられた身体は固く強張ったまま。手のひらは強くぎゅっと握られ、気を抜いてはいけないと全神経が警鐘を鳴らす。それはこいつは敵なのだとちゃんと認識できているなによりの証であった。その証に爆豪は深く安堵する。
(大丈夫)
(あぁ、そうだ。大丈夫だ)
(俺は、まだ、こいつを、許してなどいない)
(俺は、まだ、染まってなどいない)
(だから、まだ、大丈夫)
 敵を敵だと、ちゃんと認識できているその事実に胸をなでおろす。こんなにも緊張しているのに、こんなにも怒りに満ちているのに、その緊張と怒りに安堵しているなんて、おかしな話だ。

 ぎゅうぎゅうと死柄木は爆豪を抱きしめ続ける。大丈夫ぜんぶぶっ壊すから大丈夫。死柄木は繰り返す。壊れたおもちゃのように。爆豪は細く力強い腕に捕らわれたまま、目を閉じてその声を聞いていた。そして声に重ねるようにして、心の中でそっとつぶやく。
 大丈夫。大丈夫。まだ、大丈夫。
置かされゆく世界