夏休み真っただ中だというのに、入り口の看板がさびた色をしていた水族館には人の姿はまばらにしか見ることができず、周囲を覆う水槽と照明の弱さもあって薄暗い雰囲気を拭えないでいた。
 けれど、すいすいと水中を泳ぐ色とりどりの魚や、こぽこぽとちいさく聞こえる水音は聞き心地がよく涼し気で、すぐ前のほうでのんびりと辺りを見渡す爆豪の横顔はそれなりに楽しそうなものであった。一つ一つの水槽の前で立ち止まっては、律儀に説明パネルを黙読する姿は存外真面目なところがある爆豪らしくて思わず頬を緩めざるを得ない。俺が水族館なんて楽しむようなやつに見えるのかよ。なんて、そんなことを言っていたくせに、天邪鬼め。
 魚の気を引こうとしてか、綺麗に整えられた爪がのった指先がこつんと水槽の表面を軽く叩く。しかし、分厚い硝子に阻まれてその振動は水中の魚にまで届くことはなく、魚は無愛想に、そして優雅に遊泳を続けていた。それは爆豪がこつこつと何度か叩き続けても同じだったが、それでも爆豪の横顔は穏やかだった。
 踏み出す足は軽やかで、次へ次へと爆豪は歩みを進める。それは次第に相澤と爆豪との間に緩やかな距離を作った。二、三歩だけでは埋められない、けれど、声を張り上げずともすんなり声が届くほどの、そんな短い距離。たったそれだけの距離。しかし、相澤にしてみればそれだけで十分だった。

「爆豪」
 その名前を呼ぶ。途端、足を止めた爆豪は白金色の髪をわずかに揺らしてふり返った。なんだよ、と問いかけるように、赤い目が相澤をじっと見つめる。それを真っ直ぐに見返したまま相澤は開いた距離を五歩の歩みで縮めると、すぐ傍の距離で自身よりもいくらかちいさな爆豪を見おろした。
 なんてちいさく幼い“子ども”なんだろうか。そう思う。背丈がだとか体格がだとかではない。けれど爆豪の隣に立つたびに、相澤は実感する。爆豪はまだ“子ども”なのだと。そして、そう実感するたびに、こんなにも近くに立っているというのに、その存在が遠く感じて仕方がない。

 沈黙したままでいると、こちらを見上げた爆豪は首をかしげて、なんだよ、ともう一度くり返した。相澤はいらえを返す代わりにただ手のひらを差し出した。唐突であろう行動に、爆豪は不思議そうに目を瞬かせると差し出された手のひらと相澤の顔を目だけで交互に見やった。しかし、すぐにはっと短く息を吸うと、きょろきょろと忙しなくあたりに視線をさまよわせた。いつもは勝気なその瞳が、隠しきれない不安を表すようにゆらりと揺れていて、相澤にはすぐに爆豪が人目を気にしているのだとわかった。
 瞬間、ずきり、と胸が痛む。そんな仕草をさせてしまう関係に、自分自身に、胸の奥底からじわりとした苛立ちが湧いた。けれど、相澤はそれらを無視するようにして、伸ばされることのないまま居心地悪そうにさまよう爆豪の手のひらを捕まえると、そのまま自身の手の中にぎゅっと収めた。爆豪の肩がちいさく跳ねる。
「大丈夫だ」
 声をかければ、指先を迷うように揺らしながら爆豪はふたたび視線をあたりに彷徨わせる。少し離れたところには寄り添って歩く中年の夫婦とぼんやりと水槽を眺める一人の女性がいた。決して遠くはない距離。けれど、そのどちらもがそれぞれに世界に浸りこんでおり、二人の様子を気にするものなどいなかった。
 相澤はもう一度大丈夫だと繰り返して、白い手の甲を親指の腹で撫でる。気にすることなど、心配するようなことなど、なにもありはしない。そう安心させるように優しく。だって、そのために相澤はわざわざこの場所を選んだのだ。雄英から離れている、少し寂れた、人気の少ないこの水族館を。
「爆豪」
 だから、二人でいるのにそんな一人きりで置き去りにされた子どものような顔をしないで、先ほどのように穏やかな顔で笑ってほしい。しかしそれを口にすることは許されず、相澤は握りしめた手のひらにただ微かに力を込めた。


 できることならば、もっと優しく甘やかな恋をさせてやりたいと思う。こんな風に人目なんて気にさせず、心のままに言葉を交わして思う存分に触れあい、これでもかというほどに甘やかしていっぱいに満たしてやれる、そんな恋をさせてやりたい。それなのに、実際はなに一つ優しくも甘やかすこともできていなければ、逆に暗く不安な思いばかりさせてしまっている。
 爆豪よりもずっと年上であるのに、爆豪よりもずっと大人であるはずなのに、手を繋ぐ、たったそれだけの行為にすら戸惑わせてしまう。なんて情けない大人なんだろうかと痛いほどに自覚していた。けれど、それもすべていまさらな話だった。
 いくら自身で自身を自虐し否定したところで、いまになってこの手に収めた白い手のひらを離すことなどどうしたってできることなどないのだから、それならば沼地に足を取られながらもただひたすらに突き進む以外に相澤が選択できる道は存在しなかった。それ以外を選ぶ気もなかった。
君の隣で横たわらせて