ページをめくるたびに現れるちいさな活字にいい加減目が痛んだ。ぷつりとまさに糸が切れるようにして集中力が途切れたことが自覚できて、ふっ、と息を吐く。別世界を飛んでいた思考が戻ってきた感覚がやけに鮮明で、途端に今まで気にもかけなかった音が、気配が、するりと意識に入りこんできた。ぼんやりと肩にかかる重み。すこし視線を横にずらせば、つんつんと尖った頭が寄りかかるようにしてそこにはある。 じっ、と一点を見つめる燃えるような色彩をした瞳。なにを見ているのかとそれを追えば、普段はニュース番組くらいしか映すことのない画面がやたら鮮やかな色に染まっていた。指先を狂気にも似たネイルで飾り付けた女が、小さく細い銀色のフォークとデコレーションされたケーキをそれぞれ片手に無意味なまでに甲高い声で、とってつけたように美味しい美味しいとくり返している。 多少の雑音に集中力を欠かれるようなやわな精神をしているつもりなどないから、この子どもがなにを見ていようが知ったことではない。だが、もう少し見る番組を考えたらどうだろうか。袴田は思う。わざとらしいとしか言えない女のリアクションは見るに耐えたものではない。テレビに出演するプロならばもう少し自然な演技ができないものか。それでもテレビを消せと言わないのは所詮こんな番組などどうでもいいからなのであるが、事務所の者たちから言わせるとそれは甘やかしであるらしい。告げられた瞬間、思わず苦虫を噛み潰したように表情をゆがめた記憶は新しい。 甘やかしてなどいるだろうか。そう思いながらじっと見ていると、気がついた子どもが首をかしげる。まだどこか丸みの消え切れない頬。眉間に皺のよっていない顔は、やけに幼く見えた。無防備といってもいい。じっと見つめ続けるにはなんだか心臓に悪い気がして、袴田はすぐに子どもから視線をそらした。代わりに視界に映るのは、テーブルの上にぽつりと置かれたカップだった。 そういえばと思いだしたように感じる喉の渇きにカップを手に取るが、しかし中身がもうすでにないことに気がつく。いつの間に飲み干したのか、記憶は曖昧だ。だが、ちょうどいい。袴田は半分ほどまで読み進めたページにしおりを挟んで本を閉じると、ほんとカップを入れ替えてソファから立ち上がった。その際、うわっ、と背後から人を背もたれにしていた子どもの小さな悲鳴が聞こえたが、そんなものは気にしない。このソファには柔らかく立派な背もたれがちゃんと存在しているのに、なにを言っても子どもは一向に人を背もたれ代わりにするのをやめないのだから、自業自得だ。 「くそ七三野郎が……」 相変わらずの口の悪さに、やれやれと眉を軽くひそめながら、袴田は電気ケルトに水を注ぎスイッチを入れた。沸騰するまでの間に、戸棚からフィルターやドリッパーを取りだし準備を整える。粉はそこらで適当に買った安物だが、値段のわりには悪くない味をしていて存外気に入っている。 ささっと慣れた手つきでコーヒーを淹れ、早速カップに口をつければじわりと慣れた味が舌に滲み、乾いた喉が潤う。もとより大した疲れではなかったが、それだけでだいぶ疲労が緩和された。 ソファに戻ると子どもは寝転がったまま、前髪を少し乱してぼんやりとテレビを見ていた。覗いた額は白く丸い。その額をぺちりと叩きながら、邪魔だぞ、と一言告げる。すると子どもは片方の手のひらを宙に浮かせた。ひらひらと蝶が舞うようにして額と同じく白い色をした手のひらが揺れる。 「…………」 袴田は少し迷って、しかし結局は自身の手をその白い蝶に伸ばした。片手に持ったままであるコーヒーをこぼさないように注意しながら手を引く。いっそのこと顔面にぶちまけてやろうかなんて考えが一瞬脳裏に浮かぶが、どうせできもしないことを思うことは好きじゃない。 空いたスペースにようやく腰を下ろし、もう一度カップに口をつけてから本を手に取る。そうすれば、ふたたび重たくも軽い身体がもたれかかってくる。袴田はなにも言わず、黙って本を開いた。 「……、……」 違和感を覚えたのはページを開いて五行ほど読み進めたあたりだった。最後に読み進めた箇所と、どうも話の前後がかみ合わない。試しにページを一つ前に戻してみても同様。どういうことだ。浮かぶ疑問は、けれどほんの一瞬。思わずため息を吐きだすと、はっ、とちいさな笑い声が撫でるようにして耳に届き、確信する。 「……爆豪」 名前を呼べば、触れた個所から身体の震えが伝わった。面白くて仕方ないと言いたげな震え。まったくもって子どもじみた悪戯だ。だからだろうか、怒りも苛立ちも微塵も湧いてはこなかった。かわりのようにして湧いてくるそれは、仕方のない奴だ、なんてやたらと丸みを帯びた感情。これがまったく違うほかの誰かであったなら、きっとこうはならない。 こんなんだから、甘やかしているなんて言われてしまうのだろうか……。袴田は思うが、しかしどうしたって無防備に体重を預けてくるこの子どもを叱るような気になどなれないのだから、どうしようもなくまたため息が漏れた。 そんな人の気も知らないで、子どもはテレビ画面に映る女やケーキよりもよっぽど甘い匂いをまき散らしながら、くつくつと笑う。本当に仕方のない奴だ。 |
やさしいやさしい舟の上で |