空はまだ青い。けれど、地と空の合間は微かにオレンジ色に染まり始めていた。もうすぐ日が沈む。そろそろ帰らなければ、隣室のクソ髪がうるさくなるころだろう。別にクソ髪が一人で騒いでいようがどうでもいいが、そのせいで今後の外出が困難になることだけは避けたいところだったから、爆豪は帰宅を決めた。そして、すぐにはぁとため息をついた。
 久しぶりの外出だった。散々一人で外出するなと言われ続け、ようやく一人きりの外出が許されるようになった最初の休日。表には出さないようにしていたが、ずいぶん前からこの日を楽しみにしていた。敵連合に誘拐されるなんて大失態を起こしてから、一人きりの外出は許されていなかった。仕方ないことだ。頭ではわかっていたが、窮屈な日々だった。
 それだけに、久方ぶりであった一人きりの外出はそれはもう快適だった。ただしそれは、この男に出会うまでのほんの短い数時間の間だけだったのだけれど。

「……もう帰る」
 そう言うと男はえぇーと不満げな声を上げた。眉尻が下がっている。だけど、口元はいつものように微笑を浮かべていた。にこにこ。音をつけるとしたら、そんな表情。出会った時からずっと、この男はそんな表情をしていた。仮面みたいによくできた、人の良い表情。
「まだ19時前じゃないか」
 引きとめようかとする男の言葉に、すぐにまたはぁとうんざりため息をつく。せっかくの休日が、この男の存在のせいでまるでままならなかったというのに、なぜその当の男に引きとめられなければならないのか。
 最悪だった。誰かのせいで外出を早めに切り上げるなんて癪だったから門限ぎりぎりまで無駄に粘ったが、正直もう帰りたくて帰りたくて仕方がない。だから爆豪は引き留めようとする男を無視して歩き出した。
「帰したくないなぁ」
 男はまだついてくる。挙句にそんなことを言った。勝手についてきただけのやつが、なにが「帰したくない」だ。まるで二人で一緒にいたかのような言い方はやめてほしい。男が勝手に後ろをついてきただけで、爆豪は男と一緒に行動していたつもりは微塵もない。あぁ、けれど、すれ違う見知らぬ者どもからみたら、自分たち二人はまさに休日を共にする友人同士に見えているのかもしれない。実際は男の名すらよく覚えていないというのに。
「あーぁ、君がもっとちっちゃな身体だったらさ、連れて帰っちゃたりできたのに」
「…………」
「こう手のひらに納まるくらいの大きさでさ、こっそりポケットにしまっちゃたりしてさ」
「…………」
「そうしたら君のことずっと連れて歩けるのに」
「…………」
「ねぇ……、ずっと一緒にいられたらすごく良いと思わないか」
「くっだらねぇこと聞いてくんな黙れよ」
 つらつらと告げられる内容のあまりの下らなさに思わず、はぁと深くため息をつくと、逆に男はふはっと笑った。なにが楽しいのか、まるで理解できない。いや、そんなのはいまさらだった。どんだけ邪見にしてもにこにこと後をついてくる男の考えなど理解できるはずがない。つーか、したくもない。

 無言を貫いて足を進める。後ろから、待ってよ爆豪くん、なんて声がかかるがふり返らない。ふり返ったところで、どうせあの仮面の笑顔があるだけだ。見るだけ無駄、相手にするだけ損。こんなことなら切島とでも一緒に出かければよかった。そうすればまだこの男の相手を切島に丸投げできたのに、と爆豪は一人で寮を出たことを少し後悔する。
 するとふいに、ぴぴ、と携帯電話が鳴った。見てみれば、LINEのメッセージが届いていた。送り主は今しがた名を思い浮かべた切島である。
『そろそろ門限だぞ早く帰ってこいよ。なんなら迎えに行くか?』
 爆豪が外出すると知った時、大丈夫か一人じゃ危なくねぇかなんから俺も、とやたら心配していたが、どうやら今もまだ心配しているらしい。小さなガキじゃねぇんだぞふざけてんのかと思いながらも、直前に切島の存在を少なからず求めてしまった爆豪は大人しく「いまから帰る」とだけ返した。そうすれば『おうそうか気をつけてな!』とすぐに返ってくる。
「過保護な友だちだね」
「……勝手に見てんじゃねぇよ」
「ふふ、ごめん」
 き、と睨めば、案の定な表情。本当に、なんだってこいつはこうなんだろうか。
「てめぇ、いい加減その気色悪い表情やめろ」
「え……」
「わざとらしすぎてマジ気色悪い」
「……まぁたそうやって君は」
 吐き捨てるように告げれば、男はやれやれと首を振った。意味の分からない反応だった。なんだその仕方がない子どもでも相手にするような反応は。不愉快が募ってさらに睨みつけてやれば、男はすっと目を細めた。黒々とした瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめ返してくる。その口もとは、きゅ、と結ばれていて、あ、と思う。すこし、微笑が外れている。
「ねぇ、君がはじめてだったんだ」
 男は言う。唐突に、しかし、まるであらかじめ言葉を用意していたかのように淀みなく、男は言う。君がはじめてだったのだと。出会ったばかりだというのに、たった一目で、自分の一部を見抜かれたのは。上手に上手に取り繕っていたはずだった。でも君は、なんの迷いもなく俺の手のひらを拒絶した。ただスルーしたのではない。明確に、拒絶した。ねぇ、それが俺にとってどういう意味を持つのか。
「なぁ、君にはわかるか? 爆豪くん」
「……知らねぇよ」
 興味もない。素っ気なく答えれば、男は肩を落とした。眉尻がまた下がる。無自覚なんだからさぁ、と呟くその声には力がなく、落胆が含まれていた。なんなんだ。本当に意味がわからないと眉をひそめれば、男はそんな爆豪を見てからまた笑った。さっきの仮面のような微笑とはまた違った笑みだった。ちょっと困ったような、微笑み。正直、反応に困った。

「……もう、帰る」
 どうしようかと少し迷って、けっきょく爆豪ははじめの言葉をくり返し男に背を向けた。早足に歩みを進める。のんびりしていたら、まじであのクソ髪野郎が騒ぎかねないし、これ以上男の戯言に微塵も付き合いたくない。
「またな、爆豪くん」
 背中に声がかかる。またなじゃねぇよ。次なんかあるかよ。ふり返らぬまま顔をしかめれば、見透かしたように男は笑って言った。
「またな、でいいんだっつーの」
 だって、また絶対に会いに来るからな。
 なんだそれ、であった。まさか、今日の出会いは偶然ではなかったというのか。だとしたら、一体なんのために。そもそもどうやって。疑問が募るが尋ねる気はしなかった。尋ねたら、男に一歩近づいてしまう。だから尋ねてはいけない。なぜだか、そう思った。
 返事もせずに、ふり向かないまま爆豪は夕日に向かった。男はもう追いかけてこない。しかし男はいつまでも爆豪の背中を見送っていた。
半熟の肌