去って行く男たちの背を見送りながら、ずきずきと痛む後頭部に、こりゃ絶対にこぶができたとため息が漏れた。手を伸ばして触れてみれば案の定、ぽこり、とした膨らみが一つ。試しにほんの少し押してみると、ずき、と鋭い痛みが走って慌てて手を離した。いてて、と誤魔化すように呟いて、がっくし肩を落とす。
「なにやってんだかなぁ……、」
 思わず出た声は、自分でも情けない声をしているな、と思ってしまうようなものだった。救い難いことに、実際本当に情けないのだから肩はますます下がるばかりだ。足にすら力が入らなくなって、そこが階段だということも気にせず座りこむ。
「アホか俺は……」
「本当にな」
「うぇっ? へ、あッ!?」
 一人だと思っていたのに、突然聞こえてきた声に沈んでいた肩がびくぅっと飛びはねた。聞き慣れた声。頭上から聞こえてきた声にはっとふり返ると、踊り場に爆豪が一人立っているではないか。なんてこった。上鳴は目を見開いた。よりにもよって、なんで、いま、ここで、こいつなんだ。
 いま絶対に会いたくない人間ナンバーワンである爆豪の登場に、たらり、と嫌な汗が背中をつたった。あ、あのぅ、と恐る恐る声を出す。その声は、先ほど零してしまった声よりもさらに情けなくなっている自覚があった。
「爆豪、さん? ……い、いつからそこに?」
「お前が“ちょっといいっすか先輩”とか言うちょっと前くれぇ」
「っ〜〜〜、あぁぁあああ、ほとんど一部始終じゃんッ!!」
 ぐわっ、と上鳴は頭を抱えた。その拍子にずきりとまたしても後頭部が痛んだが、気にならなかった。いや、気にする余裕がなかったと言うほうが正確だ。
 見られてた聞かれてた見られてた聞かれてた!! なんとも言えない感覚が全身を這いずる。背中がかゆいような、足の裏がかゆいような、むずむずとした不愉快な感覚。どうにかしてこの感覚を振り払いたいが、どうにもできずに上鳴はさらにうめき声を上げた。
「ぐ、ぐぉぉおお〜〜……ッ」
「……おまえさぁ、マジばっかじゃねェの。あんな奴らの相手するなんざよォ」
「……ぐ、ぐぅ、うっせぇなぁ」
 そんなの、わかっている。ほかでもない自分自身がいま一番そう思っている。でも仕方がない。自分だって本当はあんなことをするつもりなど微塵もなかった。普通に聞き流せるくらいの余裕は持っている。そのはずだった。なのに、気がついたら身体が勝手に動いて、口まで勝手にしゃべりだしてしまった。自分だけではどうしようもなかったのだ。


『一年の爆豪ってやつさぁ、超生意気じゃね?』
 後ろから声が聞こえた。聞き覚えのない、誰かの声。ついさきほどのことだ。その誰かの声をしっかりと耳にしてしまったとき、上鳴は思わず笑ってしまった。爆豪言われてらぁ、なんて、そのままなんとなく、そのまま耳を傾けてみる。聞かれていると気がついていない男らは話を続けていた。
『あぁ、もしかして体育祭の宣誓のやつ?』
『そうそう、なんだあの態度まじ一年生かよ』
『すっげぇ太々しかったよなぁ』
『言ってることもなんだあれって感じだわ』
『どんだけ自分に自信あんだよみたいな』
 好き勝手な感想の数々。上鳴はそれをうんうんと聞きながら、有名人は大変だなぁ、と他人ごとのように思う。爆豪の名は、もともとヘドロの子として一部の人たちに注目されていたようだが、体育祭で一位を取ったことで一年の中では親にプロヒーローを持つ轟と並ぶほどにその名は知られていた。
 一年と言っているところを見るに先輩だろうか。あまりよろしくない印象を抱かれているとはいえ先輩にまで名が知れているなんて、そこは流石だなぁと思わずにはいられなかった。
『でもあいつ実際にすげぇ個性なんだろ』
『らしいな、確か爆破だっけ?』
『体育祭でもマジで一位取ったって話だし』
『かぁ〜、マジかよくそムカつくな』
『超生意気だわ』
 名も知らぬ先輩たちの話は止まらない。やっぱり上鳴は笑った。わかるわかる。あいつマジ才能マン過ぎてちょっとムカつきますよね。しかもあれで頭もいいんすよ先輩。クラスで三番目っすよ。あんなヤンキーみたいな腰パンしてるくせに頭もいいって、もう反則っすよ。なんて、心の中で勝手に語りかける。
 そのまま先輩たちは随分と爆豪の話で盛り上がっていた。上鳴はしばらく耳を傾け続け、時折笑いをこらえながら同意にうんうんとちいさく首を振った。しかし、いつまでも聞き耳を立てているのもなんだ。そろそろ行くか、と思い、意識を後ろから外す。ちょうどその時だった。ふいに、はっ、と誰かが笑う声が聞こえた。小馬鹿にするようなそんな笑い方。さらに続けて、声は聞こえる。
『実はクラスメイト脅して手に入れた一位だったりしてな』
 その声だけ、やけに勢いよく耳に届いたような、そんな気がした。瞬間、あ、と思った。それはだめだ。そう思った。
 そして気がつけば、先輩らの前に立ちふさがるように仁王立つ自分がいたのだ。

『ちょっといいっすか先輩』
 いきなりそう声をかけられた先輩たちはあからさまに訝しげな表情を浮かべていた。なんだこいつ。顔にはありありとそう書いてあった。無理もない。わかっている。いきなり見知らぬ後輩と思わしき男に声をかけられたらなんだこいつってなりますよねそうっすよね。わかってます。でもね、どうしても聞き捨てならなかったんっすよ。いや確かに、確かにっすよ? あいつは性格クソ下水煮込みの超ムカつく才能マン野郎っすよ。先輩の目から生意気に見えるのは仕方がない。そこは否定しないです。むしろ超同意します。俺が先輩の立場でもなんだあいつってすっげぇムカつくと思います。いや、クラスメイトって立場でもあいつの才能マンっぷりは最高に腹立たしいです。でも、あいつの才能はマジ本物なんっすよ。しかもね、あいつの向上心ってやつも本物なんっすよ。誰よりも上を目指す気合っつーの? 根性っつーの? ほんと凄まじいんっすよ。性格クソ煮込みですけど、そこだけはマジで才能とか性格とかどうでもよくなっちまうほどに凄いと言わざるを得ない。そのあいつがっすよ? 一位を脅しで勝ち取るとか、いやいやいやいやありえなさすぎですって。
 矢継ぎ早に言葉は止まらない。衝動だった。無意識だった。ただただ勝手に動く口に任せて喉を震わせる。お前になにがわかる。そんなことは言わない。あいつのことなんて、そう簡単にわかるはずがない。難解な生きものだ。理解できる人のほうがきっと少ない。自分だって、胸を張って言えるほどにあいつのことを理解しているわけじゃない。それでも、そんな自分でもわかる。あいつは、爆豪は仮初めの一位で満足するような生ぬるい奴なんかじゃあない。

『はぁ? お前意味わかんねぇよいきなり』
 先輩の一人が言った。訝しげな声。その時は、ちょっと熱くなっていたから、そんな先輩の反応などまるでなにも気にならなかった。けれど、いま思い返すとちょっと恥ずかしい。名も知らぬ先輩がちょっと爆豪のことを悪く言っただけ。それも、表面的な情報から作り上げた薄っぺらい悪口。耳にしたところで笑って流させるほどに、どうでもいい悪口だった。実際、耳にした上鳴は笑った。ちょっと同意したりもした。それくらい、大したものではなかった。
 それなのに、あの言葉だけはだめだった。ひたすら上を目指し続ける爆豪の恐ろしいほどの闘志を否定し嘲笑するようなあの言葉だけはどうしても聞き捨てならなかった。きっとはたから見たらなにを熱くなっているだこいつはと思われたことだろう。
 たとえば、ここで友のために先輩と一戦を交えた、なんて展開に進んでいたら少しは格好がついたかもしれない。けれど実際は、いきなり突っかかってきた上鳴に対して先輩らは微妙な表情を浮かべていた。もしかしたら、ちょっと引かれていたかもしれない。
『邪魔なんだよどけよ一年』
 上鳴のことなど歯牙にもかけていない様子で男の一人が立ちふさがる上鳴を押しのけた。そこに強い敵意はなかった。けれど、乱雑なそれに上鳴はうっかりバランスを崩し、そのまま背後の壁に後頭部をしたたかにぶつけた。後頭部がさっきからずきずきと痛いのはこれが原因だ。半分は自損事故みたいな経由。正直、ちょっとなんてレベルじゃなく恥ずかしい。
 勝手に人の話を聞いて、勝手に熱くなって、勝手にぺらぺら語って、勝手に後頭部を腫らした。なんて恥ずかしいことだろう。しかも、あろうことかその一部始終を渦中の爆豪に目撃されていた。これに羞恥を覚えずに、なにを覚えろというのか。それほどまでに恥ずかしい。

 指の隙間から、ちらり、と爆豪の様子を窺う。笑われてるかも、と思ったが爆豪は随分と静かな表情で上鳴を見おろしていた。少しだけほっとする。けど、同時に少しどきりともする。普段は不機嫌な仏頂面や凶悪なヴィラン面ばかり浮かべているから意識しないが、こいつは才能マンなうえに顔も悪くないのだ。彼に注目が集まる原因には、きっとこの顔も含まれている。たぶん、本人に自覚はないだろうけど。
「アホが変なことしようとすっから恥かく破目になるんだよ」
 静かな表情のまま、爆豪は言う。きつい物言い。でも、たぶん、おそらくだけど、その裏側のほうには小指の爪先ほどの優しさに似たなにかが少し含まれている。でなければ、わざわざこんな忠告じみたことを言ってきやしない。興味のないものには、それこそ一瞥すらよこさない男なのだこいつは。けれど、爆豪は上鳴に声をかけた。だから、上鳴は言い返した。
「言っとくけどなぁ、俺は超恥ずいことしたなぁって自覚はあるし今もだいぶ恥ずいけど、後悔だけはしてねェーからな」
 ふらふら揺らぎがちなものばかりの中で、決して揺らがないものの一つ。たぶんこの先また同じようなことがあったらつい今しがた抱いたばかりの羞恥など忘れて、寸分たがわぬことをしでかしてしまうことだろう。妙な確信が上鳴にはあった。自覚なんて全然なかったが自分も結構熱い男なのかもしれない、なんて、恥ずかしさは残るけれど、言いたいことを言ってやったせいか気分はそう悪くない。

 爆豪はきゅっと眉間にしわを寄せた。それでも、普段と比べたらだいぶ控えめなしわだった。本当にアホだな、と爆豪はくり返す。べつにいーよ。上鳴はすぐに言い返した。
「これに関してはアホでもバカでも、別に構わねぇっつーの」
光年に届く