日に照らされた髪が不思議な色できらりと光る。伏し目がちの瞼はぷくりと丸く、そして白い。燃えるように赤い瞳は、いつもは鋭く他人を睨んでいるのに、ゆっくりと文字を追うその瞳は穏やかと言ってもいいほどで、波一つ立たぬ夕暮れ時の湖面を思わせた。 あまりにも普段と違う様子にすぐに彼が彼だとは認識できなかった。気がついたときはとても驚いた。場所が場所だったから大きな声など出さなかったが、完全に声を押さえることはできなかった。それくらいには驚いたのだ。だって、それほどに見たことのない横顔だった。 そんな表情もできるのだな、と思ったのを今でもよく覚えている。 じゃあまた明日。 そんな言葉とともに級友たちに背を向けて、飯田は足を進めた。かつかつかつ。足音は早いリズムを刻む。目的地まで一直線に、その歩みに迷いは一切ない。むしろ勢いあまって走りだしてしまわないように気をつける必要があったほどだった。 そうして、あっという間にたどり着いた一つの扉。音を立てないよう静かに手を伸ばし扉を開く。同じく音を立てないように一歩足を踏み出し中と入れば、少し気分が高揚する。その場所は雄英の図書室であった。 雄英の図書室はすごい。なにがすごいって、単純に置いてある本の量がすごい。隙間なく本がぎっちりと詰まった本棚はどれもこれも高い背をしており、一番の上段は軽く首を曲げて見上げなければいけないほどに高い位置にあった。脚立なしで本を取ろうとしたらそれこそオールマイトを超えるほどの背丈がなければ無理だろう。 ここ最近、飯田は放課後になると決まってこの図書室に足を向けていた。目的はもちろん膨大な本の数々だ。日当りのいい机を選んで飯田はこの図書室で本を読む。あえて借りはしない。家では家でやりたいことやしなければいけないことがあるから、読むのはいつもこの図書室でと飯田は決めていた。 今日はこの本だ。前々から決めていた一冊の本を棚から抜き取って席につく。 (今日は来るだろうか) 手にした本を開く前に一瞬だけ思う。本当に、ほんの一瞬。 飯田はすぐに手の中の本に意識を落とした。 深い沼に沈みこむようにして没頭していた集中力が切れたのは、ふわり、と微かに甘いにおいがしたからだった。古い紙やインクのにおいの中、その甘いにおいは微かなはずなのにやけに鼻腔を刺激するような、そんな香りをしていた。臭いわけではない。むしろ……。 顔を上げると、ちょうど彼がすぐ横を通りすぎていくところだった。よくぼんぼんと爆裂を生み出している手に本を持っている。今日はどんな本を読むのだろうか。気にはなるが、声はかけない。かけたところできっと彼は答えてくれないだろうことはわかっていた。いつもは口汚い言葉をよく吐く彼だが、ここにいるときの彼は、とても、とても静かであった。 この図書室に通うようになっていくらか経つが、彼の存在に気がついたのは二週間ほど前のことだ。いつものように本を選別して席につこうとしたとき、いまと同じようにふわりと甘いにおいがした。図書室に似つかわしくない甘くとろけるような、そんなにおい。 飯田は、まさか誰かが隠れて菓子でも食べているのではないか、と思った。だとしたら注意しなければ。そうした強い義務感に駆られ、すんすんと鼻を鳴らしてにおいのもとを探ってみた結果、飯田は彼を見つけた。図書室の一番奥に位置している人気の少ない一角。その場所で、爆豪は頬杖をついて本を読んでいた。 『ば、ばくごっ、く……?』 予想だにしてなかった人物の姿に思わず名前を口にしてしまうと、ふ、と俯いていた横顔が持ち上がる。爆豪の赤い特徴的な瞳が飯田を捉えた。白い瞼が、ぱちり、と瞬き一つ。かと思えば、すい、と視線が動いた。なんだろう。思わず釣られるようにしてそちらに視線を向ければ壁に張られた紙が目に入る。 “図書室ではお静かに” はっ、反射的に一文字に口を結ぶ。そうしてふたたび爆豪へと目をやった時には、彼はもうすでに本へと視線を戻していた。飯田が声をかけたことなど、最初からなかったような静けさでひたすら本だけを見つめている。それは飯田がはじめて見る表情だった。 彼は飯田ほどではないにしろ、割と頻繁に図書館を利用しているらしい。それからも、ふと香るにおいに本から意識を強制的にはがされることが何度もあった。そのにおいに顔を上げてみればそこには必ず爆豪の姿があり、時には最初から香る甘いにおいに本を探すふりをして席を見てまわるとやはりそこには爆豪の姿があった。 なんの本を読んでいるのだろうか。気にはなるが聞いたことはない。正確に言うと、聞けたことがない。図書室で飯田が爆豪に声をかけようとすると彼はすっと“図書室ではお静かに”の文字を見るのだ。そうされるとどうしても口を閉ざさるを得ない。 それならばと彼が図書室を後にするのに合わせてあとを追い声をかけたことがあるのだが、非常に鬱陶しそうな顔をされてしまった。その後もなんとか話をできないものかと機会を伺ったのだが、そのきっかけが訪れることはなかった。 口の悪さだとか、人当たりの強さだとか、眉をひそめてしまう部分は多い爆豪であったが、飯田は決してそんな爆豪のことを嫌ってはいなかった。なにかの縁で同じ学校のクラスメイトとして知り合ったのだ。仲良くなれるのなら、当然仲良くしたいと思う。 せっかく見つけた共通点。これを機に彼との距離を縮められたらいいと思っているのだが、どうにもなかなかうまくいかないものだなぁ……。飯田はしょんぼりと肩を落としながら、読み終わった本をぱたりと閉じた。 今日はまだ時間に余裕がある。もう一冊なにか読もうと、飯田は席を立った。今まで読んでいた本をちゃんと元の位置に帰宅させて、さてどれにしようかとあっちからこっちと本棚を見てまわる。心躍る瞬間だ。あれがいいかな、これがいいかな。目移りばかりしてしまう。 よしこれにしよう。ようやく本命を絞って、飯田は一冊の本を手の中に収めた。残りの時間はこの一冊に注ぎ込もう。そう決めて、席に戻ろうとして、ふわり、と嗅ぎ慣れたにおいに、あ、と足を止めた。 きょろりとあたりを見渡す。すぐにその姿を見つけることはできなかった。しかし、とある本棚の前に置かれた一つの脚立。その脚立の高い高いてっぺんを見上げてみると、爆豪の姿はそこにあった。てっぺんに腰を下ろして、手にした本をぱらりぱらりとめくっている。その姿に飯田は、きゅ、と眉をひそめた。 「爆豪くん、そんなところで読むのは危ないぞ」 「…………あぁ」 「いや、あぁ、ではないだろう。落ちたらどうするんだ」 「……誰が落ちるか馬鹿にすんな」 「馬鹿にしているのではなくて、心配しているんだ」 「……余計なお世話だ」 「しかしだな……」 「…………」 「爆豪くん!!」 「……うっせぇ、騒ぐな」 ここをどこだと思っている。そう言われて、飯田は口を噤んだ。そんな飯田に爆豪は、ちっ、と舌打ちをした。 「選び終わったらすぐ降りるわくそが」 「本当か……?」 「…………あぁ」 「……本当に早く降りるんだぞ」 「…………」 ついに返事が途切れ、代わりにぱらりとページをめくる紙の音が聞こえた。まったく……。飯田は思わずため息をつく。言いたいことはいろいろあったが、これ以上なにを言ってもきっと彼は反応を返さないだろう。今までの経験上それがわかった飯田はいつものように口を噤んだ。本を抱え直して、仕方なく爆豪に背を向ける。 「いてっ」 「おっ、と」 その時、うっかり誰かと肩がぶつかった。飯田は反射的に、すみません、と口にして、頭を下げた。しかし、顔を上げてすぐに飯田は、むむ、と顔をしかめた。なぜなら、ぶつかったと思わしき男子生徒のその手には、広げられた状態の本があったからだ。飯田は厳しい眼差しでその男子生徒を見る。 「歩き読みは危ないだろう、君」 「あぁ、すんません……」 ぺこり、と男子生徒は軽く頭を下げた。そしてそのまま、さっさと飯田の横を通り過ぎていく。ずいぶんと軽い反応だ。むむむ。さらに飯田は表情を厳しくさせたが、軽くとはいえ彼はちゃんと謝罪をしたのだ。ましてや、ここは図書室だ。あまり騒ぎにするわけにはいかない。言い聞かせた飯田はあらためて席に戻ろうとした。 だが、しかし。 「あいてッ」 「……ぅあ!?」 背後で、がしゃんとなにかがぶつかる音が聞こえた。続けて、さっきの男子生徒らしき声と爆豪の声。それはあまり聞いたことのないような、珍しい声だった。飯田は、なんだ、と振り返った。そうして見えたのは、肩を押さえる先ほどの男子生徒の姿だった。どうやら、今度は爆豪が使っていた脚立にぶつかったらしい。 だから言ったのに。そう思ったのは一瞬。ぶつかった衝撃で、ぐらり、と大きく揺れた脚立にすぐさまはっとした。ひゅっ、と息を飲んだのは自分かそれとも宙に放りだされた彼か、はたまた両者か。わからないまま、飯田は手にしていた本を放り投げ、強く床を蹴り上げた。 間に合え。頭の中で叫びながら、両腕を伸ばす。一瞬のできごと。それなのにその一瞬がやけにスローモーションに感じる中、伸ばした両腕に重みがかかった。爆豪の重さだ。その重さに身体が前に大きく引っ張られたが、抗うように飯田は思いきり上体を引いた。キャッチした爆豪を落とさないようにと胸元に引き寄せ、そのまま、だん、だん、と二回、後ずさりながら床を強く踏みしめる。 「ッ、ぅわ!」 「――っ!!」 だが、耐えきれずに飯田は背中から床に倒れこんだ。どたん、と鈍い衝撃が背中から全身に伝わってくる。しかしそれでも、飯田は胸元に抱え込んだ爆豪の身体を取り落とすことはなかった。 ぐぅ、と飯田は唸った。だが、すぐにぱっと目を見開くと胸に抱え込んだ爆豪に慌てて目を向けた。そうすれば、ぱちぱちと瞬きをくり返す赤い目とかち合う。なにが起きたのか、まだ把握しかねているような、そんな目だった。 なにか言わなければ。ぽかんとしたその目に、飯田は思った。けれど、なにを言えばいい? 迷い、考える。怪我はないか。大丈夫か。だから危ないと言っただろう。次からは気をつけたまえ。いくつかの言葉が思い浮かび、そして飯田は言った。無意識のまま、咄嗟に思いついた言葉。 「意外と睫毛が長いのだな、君は」 「…………は?」 ぱちくり、とその長い睫毛に縁取られた赤目が一層大きく瞬く。 「…………」 「…………」 沈黙が落ちる。あれ? 飯田は首をかしげた。自分はいまなにを言ったのだろう。なんだか思いっきり変なことを言った気がする。いや、気がする、じゃない。確実に変なことを言った。睫毛がどうとか……。いやなんだそれは! この状況で言うべきことか!? 飯田は慌てた。 「あ、いやっ、その……いまのはっ、そのッ!」 しどろもどろに声が勝手に零れる。ちょうどその時、視界の隅のほうに脚立にぶつかった男子生徒がそそくさと逃げていく姿が映ったが、気にかけていられるだけの余裕はない。 なにか言わなければ。ふたたびそう思うものの、釈明の言葉も弁解の言葉も出てこなかった。口からはおたおたと意味のない声ばかり零れていく。そんな飯田に爆豪は眉間にしわを寄せた。訝しげな、困惑しているような表情。 「変な奴」 彼はぽつりと言った。シンプルだが、ぐさりとやけに胸にくる一言。しかし言い返す言葉もなく、飯田はぐぅと喉を鳴らした。 「……けど、一応、礼は言っといてやらぁ。くそが!」 「え……っ」 しかし、続けられた台詞にぽかんとした。罵倒で終わった台詞。だが、聞き間違いでなければ確かに今彼は「礼は言う」と言った。あの彼が! 思わず呆然としていると爆豪は、ふん、と鼻を鳴らしながら身を起こした。横にずれるようにして飯田の上から退き、そのままゆっくりと立ち上がる。緩慢ではあるがその動作に淀みはない。怪我はないようだ。無意識に、ほっと息をつく。その間に爆豪は落ちていた本を手に取ると、床に転がる飯田を放ってあっさりと背を向けてしまった。 飯田は少し遅れて身を起こした。そして行儀悪く床に座りこんだまま爆豪の背を見送りながら思う。口汚い言葉ばかり聞き慣れてしまっているが、そんな爆豪でも礼を言う時は言うのだな。ぶっきらぼうで、最後には罵倒のおまけつきだったが、それでも確かに彼は自分に礼を言った。その事実に飯田は胸の奥がうずうずとするのを感じた。 「…………うむ」 なんだろう。なんか、不思議な感覚だ。満ち足りているような、それでいてなんだかちょっと恥ずかしいような照れくさいような、人助けができた満足感とはまた違った感覚。その感覚になんという名前を付ければいいのか、飯田にはよくわからなかった。 ただ、よくわからない感覚のまま、また明日も会えるだろうか、なんて、そんなことを思う。教室ではなく、この図書室で会えるだろうか。会えたら、いいな。そうしたらその時こそはなんの本を読んでいるのか尋ねることができたら、なおさらいい。 |
またね、って言って手を振るの |