鉄哲が背を向けてしばらくの間、切島と爆豪は小声で言葉を交わしていた。
 時折、爆豪が苛立ったように語尾を荒げる。だが、それははじめのうちだけだった。少しもしないうちに会話らしい会話は途切れ、代わりにうっ、く、と爆豪の苦しそうな声が聞こえはじめた。押し殺すような、ちいさな声。
(大丈夫、なんか……?)
 爆豪のその声に鉄哲は思わず心配になった。だってあの爆豪がこんなにも苦しそうにしているのだ。
 生憎と鉄哲にセックスの経験はない。
 だからあまりセックスに関する知識を鉄哲は有してはいなかった。だが、友人と一緒に何度かAV鑑賞をしたことはあるから、まったくなにも知らないというわけでもなく、テレビの液晶越しに見る男女のセックスはいつだって女のほうがなんとも耳につくような甘ったるい喘ぎばかり上げていた印象が強くあった。
 しかし、後ろから聞こえてくる爆豪の声はさっきからなにかを我慢するように苦しそうなものばかり。とてもじゃないが、鉄哲の知っているセックスとは重ならない。やはり男同士となるとセックスの過程も異なってくるのだろう。よくわからないなりに鉄哲はそう思った。

「なぁ、その……、大丈夫か?」
 気がつけば鉄哲は二人に向かってそう声をかけていた。
 だって、心配だったんだ。あの爆豪があまりにも苦しそうだから。気に食わないやつではあるが、だからってあんな苦しそうな声を上げているのに無視することなど、鉄哲にはできなかった。
 それに申し訳なくもあった。この状況を打破するために行動してくれている二人に対して、ただ待っているだけの自分がとても不甲斐ないように思えたのだ。
「あぁ、大丈夫だ」
 鉄哲の問いに答えたのは切島だった。
「そうか……?」
「おう」
「その、よくわかんねぇけどよ、なんか手伝えることあったら言ってくれよな」
「あー……、おう、大丈夫。とにかく俺たちに任せてくれ」
「うむぅ、わかった」
 切島が大丈夫というのなら大丈夫なのだろう。鉄哲は二人を信頼することにしてそれ以上なにかを言うことは控えた。
 だが、一度胸に浮かんだ心配の感情はそう簡単には拭えずに、鉄哲はついつい背後の爆豪の声へと耳を傾け続けてしまった。

「ぐぅ……、う、ん……っ、」
 相変わらず、背後からは爆豪の苦しそうな声が聞こえ続けていた。
 けれど、なんだろうか。その声は途中から徐々に少し違った色が混じってくるようになったのだった。苦しそうではある。でも、苦痛を感じているのとはまた違った跳ねるような声。
「あっ、んく……っ、あッ!」
 低く喉で鳴らすようなものじゃなくて、まるで思わず出てしまったと言わんばかりの妙に無防備な、そんな感じだ。
「しぃ……、爆豪、」
 しかし、切島がちいさくなにか告げるとまたしても爆豪の声は押し殺したような苦しそうなものへと変わってしまう。その声に混じって、時折、くちゅ、とした水音に似たなにかが聞こえてくるが、それは一体なんの音なのか、いまいち鉄哲にはわからなかった。
 はたして、切島と爆豪は背後でどんなことをしているのだろうかと、胸には不安と疑問ばかりが浮かんでくる。
 もともとじっとしていることが得意じゃない鉄哲はそわそわと身体を揺らした。落ち着かない。すごく落ち着かない気分だ。やっぱりなにか手伝えることがあるんじゃないか。いやいや、でも切島は大丈夫だと言っていたのだからそこは切島の言葉を信じるべきではないか。手持無沙汰にぐるぐると頭の中が忙しなかった。
「んぁああ……ッ!!」
 その時、ひときわ大きな声が背後からこえてきた。
 その声に鉄哲は思わず肩をびくりと跳ねさせた。
 なんだ誰の声だいまのは……? 鉄哲は高く上がったいまの声が爆豪のものであるとすぐに認識することができなかった。それぐらい、いまの声は爆豪らしくないものだった。苦しげな声もそうだったが、それ以上に爆豪らしくない、なんだか艶っぽい声だ。
(いったい、なにがどうなってやがるんだ……?)
 切島と爆豪の二人はなにをやっているのだろう。本当に二人で、男同士でセックスを行っているのか。鉄哲にはあまりにも未知の領域だった。
 正直言うと、気になって仕方がない。
「…………」
 鉄哲は膝の上でぎゅっと拳を握った。
 だめだ。ふり返ってはだめだ。頭ではわかっていた。友の言葉を疑うなど、男らしくないにもほどがある。けれど、どうしても我慢できなかった。
(すまねぇ、切島!!)
 心の中で謝ると、とうとう鉄哲はふり返ってしまった。
 

 すぐに目に映ったのは切島の背中だった。すこし丸められたその背中はぱっと見ではなにも変わったところはなかった。しかし、その背中の両脇から生えるようにして揺れる二本の白い脚が鉄哲の目にはすぐに飛びこんできた。
 部屋の真っ白さとはまた違った白さをした脚。なんだろうかと首をかしげかけて、一拍の間を置いてから、鉄哲はその白い脚が爆豪のものであると気がついた。
 切島の身体が壁になって直接そういった部分が見えることはなかった。ただ、切島が身体を揺らすたびに白い脚が揺れて、あっ、あっ、と爆豪が声を上げては切島の背中に回された手が、ぎゅうと強くシャツを握りしめる。
「あっ、あッ! や、ぁ……っ、き、いっ、しあァ!」
 悲鳴のような、それでいてどこか鼻にかかったような声で爆豪は切島の名を呼ぶ。すると、それに答えるようにして切島は深く身を沈めるようにして腰を振るった。はッ、と荒く息を吐くような音が聞こえる。切島のものだろうか。わからないが、ひどく野生の獣じみた息づかいだった。
「んあっ、あッ、く、あぁ、っん!」
「ばくごう、爆豪っ」
 いまにもぐるぐると獣の唸り声が聞こえてくるのではないかと錯覚してしまいそうになるような息づかい。実際、鉄哲から見た切島の後ろ姿はまるで仕留めた獲物の肉を貪り喰らう獅子を思わせるような、そんな様子だった。
「ぁんッ!!」
 獅子に喰らいつかれた爆豪が、なすすべもないまま哀れに声を上げる。同時に、ぐちゅり、とひときわ大きな水音がした。
「ひあ、んあぁああっ!!」
 喰われている。爆豪が、切島に食われているのだ。
 だというのに、爆豪は己を喰らう切島にすがりつくようにして、切島の首元へと深く顔をうずめていた。だから、爆豪がどんな表情を浮かべているのかは見えることはなかった。ただ、髪の合間から覗く耳がとても赤い。
 どんどんと切島の動きは激しくなる一方だった。それにあわせて爆豪の声もより高く、より大きなものへと変わっていく。
「ひッ、く、あぁッ、あぁああ――……ッ!!」
「ッ――!!」
 やがて悲鳴のような声が狭い部屋に響くと同時に、ふらふらと揺れていた足先がぎゅうと強張った。そして切島が腰をぐいっと強く爆豪に押しつけて三度ほど大きく身を震わせると、シャツを握っていた爆豪の手から、ふ、と力が抜けするりと落ちる。
 その様に、二人とも同時に果てたのだと鉄哲は察することができた。

 はぁはぁ、二つの息遣いが混じり合って聞こえてくる。
 果てた後も二人の身体はまだ離れないままでいた。今度は切島が爆豪の首元へ顔を寄せ、ちゅ、と小鳥が鳴くようなリップ音と供に口づける。そうすると、その音が鳴るたびに爆豪はくすぐったように身をよじっていた。
 鉄哲はその様子をどこか遠い出来事のことのように眺め続けていた。あれで終わったのだろうか。ならば、もう声をかけてもいいのだろうか。ちょっと迷う。
 そんなことを考えていると、視線の先で力なく伏せられていた爆豪の顔がゆっくりと持ち上がった。それと一緒に伏せられた瞼もゆっくりと持ちあげられていく。鉄哲は目をそらすことなくその様子を見ていた。
 赤い目がのぞく。するとその赤い目はすぐさま鉄哲を捕らえてきた。目と目が合う。鉄哲はぼんやりと爆豪を見つめ続けていた。爆豪はというと、きょとりと目を丸くさせていた。だが、それはほんの最初だけだ。
「っ〜〜〜〜〜!!!」
 目があったと思った次の瞬間、ただでさえ赤い色をしていた爆豪の頬が、ぶわっ、と赤くなった。爆豪が開いたばかりの目を、きゅう、ときつくつぶる。その拍子に、目の縁に溜まっていた涙が溢れて赤い頬を伝い流れていった。
 まるで目があってしまったことを恥ずかしがるような爆豪の反応。その反応になんとなく鉄哲は思った。
(なんか、えろい、な……)
 そう思った。
 つい、思ってしまった。

「…………っ」
 その直後だ。鉄哲は背筋がざわっとするような強い視線を感じた。
 びくり、と肩を震わせてすぐに、はっ、と鉄哲は気がつく。ふり返り続けていたその先で、いつの間にか切島もこちらをふり返っていた。おそらく爆豪の反応で切島もこちらに気がついたのだろう。爆豪を見つめていた鉄哲を、切島は鋭い眼差しで見つめていた。
 体育祭で対峙した時以上に鋭い眼差しだった。睨んでいる、とはまた違う。瞳孔がすこし開き気味で、どこか不気味さすら感じるような、そんな眼差し。鉄哲は反射的に全身に力を込めた。個性が封じられている空間でなければスティール化していたのではないかというほどに、身体が強張る。
 まるで蛇に睨まれた蛙のような心地だった。鋭い眼差しに身を固めたままでいると、ふいに切島の口もとがゆっくりと重々しく動いた。声はない。けれど、切島がなにを言ったのか、鉄哲にはわかった。
『見、ん、な』
 切島は鉄哲に向かって確かにそう言ったのだ。
「ッ、わ、わりぃ……!!」 
 鉄哲は慌てて前に向きなおった。
「あっ!? んあっ、ちょ、ばかっ、まて、きりし、あッ!」
 すると、後ろでふたたび爆豪の大きな声がした。まて、やめろ、と制止する声。その声に混じってまたしても、ぐちゅり、と水音がする。何度も、何度も。
「ぅ、あっ、な、なん、で……、てめぇ……! ぁうっ」
 戸惑いの混じった喘ぎ声。
 なにをしているのか、なんて、そんなのは考えるまでもない。
 切島と爆豪はセックスをしているのだ。いま、この瞬間、自分たちのすぐ後ろで、身を交わらせている。鉄哲の脳裏には、切島に抱えられてゆらゆらと揺れていた白い脚がすぐさま浮かんできた。赤く染まった頬も、溢れて零れる涙もすぐに浮かんできた。
「〜〜〜〜〜っ」
 瞬間、鉄哲は、ぐわっ、と顔に熱が集まってくるのを感じた。
 そして一気に理解し、実感した。背後で行われている行為の本当の意味と状況を。
 
 
 
◇  ◇  ◇ 
 
 
 
「あ、んッ、んッ、うあ! ぁんんっ!」
「…………っ」
 ひっきりなしに聞こえてくる高い嬌声に鉄哲はいまさらになって耳をふさいだ。隣の物間が、こいつアホか、と言わんばかりの眼差しで見てくる。あぁ、まったくもってその通りだった。
 あほか。俺はあほか。なんでいまになって気がついたんだよ。どうしてもっと早く気がつかなかった。いや、なぜ最初から気がつかなかった。だって、はじめっから言ってたではないか切島は。俺と爆豪がするって。俺たち付き合ってるんだって!
 それをなにが、二人に任せっきりで大丈夫だろうか、だと? なんか手伝えることあったら言ってくれよな、だと?
(いやいやいやいや、あるわけねぇーだろ!!!)
 鉄哲は自分で自分に盛大に突っ込みを入れた。馬鹿だ、あまりにも自分は馬鹿だった。いくらこんな緊急事態の状況だからって、どこの世界に恋人同士の営みを手伝う馬鹿がいる。セックスのことなんかよくわからない。それでもそれくらいの常識はわかっている。
 そりゃ切島もあんな眼差しを向けてくるはずだった。恋人のあられもない姿をよその男に見られて気分のいい男などいるはずがない。切島と似た感性をしている鉄哲には、見んな、と視線を鋭くさせていた切島の気持ちを痛いほどに理解することができた。

 鉄哲はぎゅうぎゅうと押しつぶす勢いで、耳に手のひらを押しあてた。
 しかし、いくら耳をふさいでも、すぐ真後ろで行われる行為の音を完全に遮断することはできず、鉄哲の耳には爆豪の声を聞こえ続けてきた。
「ひゃあっ、あ! きり、しまっ、むり、も、ぅ、むりだって、ぁっ!」
 最初は苦しそうな声ばかり上げていたと思っていた爆豪の声は、気がつけばすっかりと快楽に溶け切った甘いものへと変化しきっていた。いやだ、やめろ、と言っているようだが、まるで言葉と声色があっていない。
 そんな声でやめろと言われたところで、実際にやめる人間などいるのだろうかと鉄哲は思う。少なくとも切島にはやめる気などさらさらないのだろう。ぐちゅり、ぐちゅり、と切島のものが爆豪の中を穿っているだろう音がとまることはなかった。
(うぅ、勘弁してくれよォ!)
 先ほどまでは、爆豪の喘ぎも、ぐちゅぐちゅとなる水音もそこまで意識していなかった。なにが起こってるのか、いまいち実感のなかった先ほどの鉄哲にとって、爆豪の声も水音も、耳をふさがなくともどこか遠い音でしかなかった。
 しかし、いまはもう知ってしまった。背後でなにが行われているのか。どんな顔で爆豪は喘いでいるのか、どんな様子で切島はその爆豪の身を貪っているのか、まじまじと実感してしまった鉄哲にとって、甘い爆豪の声も、狭い部屋に響くいやらしい水音もひどく耳に毒だった。
「やぁ、って、あっ、あっ、んぅ、〜〜〜っ!」
「ばくごー、いやじゃ、はッ……、ねぇーだろ?」
 やだやだとくり返す爆豪に切島が答える。ずいぶんと低い声だった。いつものはきはきとした活発な声とは程遠い、少し掠れた低い低い雄の声。その声で切島は、なぁ爆豪、と何度も爆豪の名を呼んでいた。
 爆豪の名前の合間には荒い息づかいが聞こえる。その息づかいと連動するように、ぐちゅぐちゅとした濡れた音がさらに大きくなり、服がこすれ合う音まで生々しく聞こえてきた。
「あんッ、んっ、や、んあ!」
「ふッ、はぁ……っ、ばくごうっ」
「んくっ、あぁん、あッ、あっ!」
 とろけそうな爆豪の声は、やたらと耳につくようなAV女優のそれよりもよほど甘い。気のせいだろうか。なんだか鼻腔にまで甘い香りが届いてくるような感じがして、鉄哲はもう色々とたまらない気持ちになった。
 全身が熱い気がする。内側にもやもやとした熱が籠っているようで、いますぐにでも、がぁあああ、と叫び出してしまいたくて仕方がなかった。だが、こんな状況で突然そんなことができるはずもなく、鉄哲は強く耳を押さえながらこれでもかというほどに身を縮めると、頼むから早く終わってくれと切に切に願った。



◇  ◇  ◇
 
 
 
「なぁ、わりぃけどティッシュ持ってねぇかー?」
 切島がそう二人に声をかけてきたのはそれからしばらくしてからのことだった。
 先ほどの低い声とはうって変わった、聞き慣れた普段通りの声。その様子に恐る恐ると耳を押さえていた手を離すと、爆豪の声も聞こえなければいやらしい水音ももう聞こえてはこなかった。
 鉄哲は、ほっ、と息をついた。その横で物間は、ちっ、と舌打ちをこぼす。
「ティッシュくらい持ってろよ馬鹿!」
「いや、持ってはいたんだけどよ、ちょっと足りなくて……」
「あー! あー! そうですかそうですか! んなこと聞きたくないんだよ!!」
 物間は叫びながら鞄を引き寄せポケットティッシュを取りだすと、振り向かないまま背後に向かって乱暴に放り投げた。
「さんきゅ」
「どぉぉおいたしましてぇえ!!」
 そうすると背後からはなにやらごそごそとした音が聞こえてきたが、それもすぐに止んだ。
「よし、もう大丈夫だぜ」
「……本当だろうね?」
「おぉ!」
 切島の返事に物間がふり返る。
 その様子を見てから鉄哲もゆっくりとふり返ってみると、もうそこに宙をふらふらと揺れる白い脚はなく、服をしっかりと着こんだ爆豪とその爆豪を腕に抱えて座る切島の姿があった。
 切島はいつも通りの様子だ。ただ、爆豪は切島の胸元に顔を伏せて、ぐったりとした様子で四肢を投げだしている。
「お、おい、大丈夫かよそいつ」
「あー、おう。大丈夫だ、あんがとな!」
「いや、まぁ……、大丈夫なら、その、いいんだけどよぉ」
 鉄哲の不安に対して切島はあっけらかんと言う。なんだか余計なことを言ってしまった気がしていたたまれない気分になって鉄哲は頬を掻いた。
 そういえば、先ほどふり返ってしまったことは謝っておいたほうがいいのだろうか。それとも、なにも見なかったことにして黙っておいたほうがいいのだろうか。いや、でもそれは男らしくないだろうか……。鉄哲は悩んだ。
 するとその答えを出すより先に、おいっ、となにやら切島が慌てたような声を上げた。
「ちょ、ちょっと見ろよあれ!」
「え?」
「あぁ?」
 切島が壁を指さす。なんだろうかとその指さす方へと目を向ければ、壁に浮かんでいた「この部屋を出たくばセックスをしなければならない」の文字が、すぅ、と消えていこうとしているところだった。
 少しもしないうちに、あっという間に文字は完全に消えてしまい、壁は完全に真っ白一色の真っ新なものへと変わってしまった。次いで、びしっ、と音を立てて壁に亀裂が入りはじめた。そのまま亀裂はびしびしと壁一面に広がっていく。
 鉄哲たちはその様子を固唾を飲んで見つめていた。亀裂はさらに広がり続け、ついには眼前の壁だけではなく左右の壁、背後の壁にまで届く。そしてついには天井にまで広がった次の瞬間、鉄哲たちを閉じ込めていた真っ白な部屋はがらがらと音を立てて崩れ去ったのだった。

 気がつけば鉄哲たち4人は見覚えのある本屋の前になにごともなかったように立っていた。あの部屋の中に突然放りこまれたように、突然の開放。
「出られた、のか……?」
「そう、みたいだね」
 上を見上げれば、そこには白い天井ではなく白い雲を浮かべた空が広がっている。辺りを見渡すとちらほらと人の姿が見えた。だが、崩れ去ったはずの部屋の残骸も見当たらない。また、はたから見たら突如として現れたはずである鉄哲たちに、辺りの人たちは誰一人として不審な視線を寄こしてくることはない。
「……やっぱりあの部屋は外からは視認できないもののようだね」
「みたい、だな?」
「しかも僕たちの消失や出現まで他の人には感知されてはいないみたい。まったく、厄介な個性だよ……」
 はぁ、と物間は深々と息を吐いた。
 確かに、とても厄介な個性だ。もし、切島たちがあのお題をクリアしてくれていなかったらどうなっていたことか……。鉄哲はいまになって背筋がぞっした。
「そ、そんで、どうすんだ? とりあえず警察か?」
「いや、まずは先生たちに連絡かな」
「おっ、おう、そうか!」
「あ、ちょっとそれなんだけどぉ、ことの説明は俺がしてもいいか?」
 鉄哲が携帯を取りだそうとすると、爆豪を抱えたままの切島が、よいしょ、と立ち上がりながらそう言った。
「君がぁ?」
「おう! 俺が責任もって説明すんぜ! ……でさぁ、だから、とは言わねぇけど、鉄哲たちは今日のことはいろいろと忘れてくんね? できたら、できるだけ早く」
 そう言うと切島はいまだぐったりとしたままの爆豪にちらりと視線を落とし、そしてすぐに顔を上げるとへらりと笑った。鉄哲はそれだけで切島の言いたいことがなんとなくわかった。たぶん、爆豪のためだ。
「頼むよ」
「はぁあああ!? なにが頼むだよ、ばっかじゃないの!? 言われなくても速攻忘れるっつーの!! 一晩とかからず秒で忘れてやりますからァ!! 二度と今日のことなんか思いださないし口にもしないからァ!!」
「そっか、あんがとな!」
「礼なんかいらないね! そのかわりこっちだって礼なんか言うつもりないからな!」
 ふんっ、と鼻を鳴らすと物間は切島たちに背を向けて歩き出した。おいどこ行くんだよ、と訊けば、寮に帰るんだよ! と大きな声で返された。今回の事件に対してよほどご立腹らしい。取りつく島などありゃしなかった。
「あー、その、わりぃな切島」
「いや、べつに構わねぇよ。それより、鉄哲も先に帰っちまっていいぜ。俺は爆豪がちゃんと起きてから帰るからよ」
「そうか……?」
「おう! 先生への連絡も俺からちゃんとしておくから」
 任せとけ、と切島は言う。
 うぅん、と鉄哲は少し迷った。任せてくれとは言うが、脱出のためのお題をクリアしてくれた切島たちにさらに事件の説明まで任せてしまうのはいくらなんでも無責任すぎるのではないだろうか。ましてや、爆豪はこんなにもぐったりしている状態なのだ。
 鉄哲は切島に抱えられたままの爆豪に視線を下ろした。そうやって改めて見てみた爆豪の目元は少し腫れているようだった。さらには、まだ少し目尻には朱色が残っているではないか。
「っ……」
 思わず、鉄哲は息を飲んだ。脳裏に浮かぶのはつい先ほどの光景だ。
 だがしかし、鉄哲はすぐに、あ、と思った。慌てて切島の様子を窺う。もしかしてまたあの眼差しをしているのではないか。そう思った。しかし、実際はそんなことはなかった。切島は鉄哲がよく知る切島の様子のままで、鉄哲はそんな切島の様子に、なぜかほっとした。なぜだかは、よくわからない。なんだか今日はよくわからないことばかりだ。
 なんにしても、とにかくこれ以上余計なことをしてしまう前に切島たちとはいったん別れたほうがよさそうだ。よくわからないなりにも、そう判断した鉄哲は切島に向かって軽く手を上げた。
「じゃ、じゃあ切島! お言葉に甘えて先に帰らせてもらうぜ!」
「おー、気をつけてな!」
「お前らもな!」
 軽い別れの言葉を最後に交わして、鉄哲は早足で物間のあとを追った。


 先に行ってしまった物間はもうだいぶ先にまで足を進めていた。物間の隣に並ぶころには背後の切島はすっかりと遠い。きっともうこちらの声が届くことはないだろう。
 鉄哲はこっそりと背後をふり返ってそれを確認すると、すぐに前に向きなおり、はぁ、と大きく息をついた。なんだろうか。特にこれと言って身体を動かしたわけでもないのに、どうも全身が気だるいような、そんな感じがした。
「……なんか、すっげぇ疲れたな」
「は? なに? なんのこと? ただの買い物でなにそんなに疲れてんの?」
 うっかり呟くと、物間が訝しげな表情を浮かべて鉄哲を見てきた。
 宣言通り、速攻で忘れてやったつもりなのだろう。今日、自分たちはただ買い物に出かけただけで、特にこれと言ってなにかが起こったわけではない。
「そうだな……、俺たちはなにも見なかった、なにもなかったんだよな……」
「ほんと意味わかんない。しっかりしろよな」
「おう……」
 鉄哲は素直に頷くと、それ以上を噤んだ。
 黙って学校までの道のりを歩く。だが、黙りこんでいるとなぜか自然と脳裏に白い脚やら甘い声やらが蘇ってきてしまい、たびたび鉄哲は慌てたように頭を振った。
(俺はなにも見なかった! なにも聞かなかった!)
 何度も何度も強く言い聞かせる。
 しかし、ふと気がつくとあられもない爆豪の姿が脳裏に蘇り続ける。忘れよう忘れようと意識すればするほど逆効果でしかなく、このあと鉄哲はしばらくのあいだ切島と爆豪の顔をまともに見ることができなくなるのだった。
白い残像