目覚めて早々に相澤は頭を抱えた。

 カーテンの隙間から差し掛かる日の光は明るく、ちゅんちゅんと聞こえてくる鳥の声がとても爽やかだ。けれど、相澤の内心は一転してこれでもかというほどの憂鬱でいっぱいだった。最悪だ。じつに最悪。
 隣にちらりと視線をやれば、すいよすいよと眠る爆豪の安らかな寝顔が目に入る。一晩経つだけですぐにぼさぼさと無精髭の生えてしまう自分とは違い、その頬は白くつるりとしたままで、あどけない寝顔と相まってとても幼い。
 いつもの不機嫌面とは全く違う、可愛らしいと言っても過言ではないその寝顔に思わず顔が緩みそうになる。しかし、昨晩の行為の影響にか、よくよく見てみれば眠る爆豪の目尻にはまだうっすらと赤い色が残っており、その薄紅色にほのかな色気を感じてしまった相澤は盛大に眉間にしわを寄せた。
「っ、あぁ〜〜……」
 やってしまった。
 文字通り、やってしまった。

 昨晩、時間にしてほんの数時間前に相澤は爆豪と性行為をした。してしまった。夢であってくれと、願わずにはいられない。けれど、すべては現実であると嫌というほどに覚えている。
 一昨日の夜、ヴィラン出現の知らせを受けたこと、そのヴィランの捕獲に自分も出動したこと、そこで不覚にもヴィランの個性を喰らってしまったこと、覚えている。
 相澤が喰らったヴィランの個性は精神感応系の個性であった。やりたくないことはそれがやらなくちゃいけないことでも絶対にやりたくなくなって、逆にやりたいことはなにがあってもやり遂げたくなる。昨晩、爆豪にそう説明したそれは、言ってしまえば、抱えている欲望、願望を抑えつけている理性の紐を緩めてしまうのだ。
 そのヴィランの個性のせいで相澤は昨朝、ベッドから起きなければいけないという意思がベッドから起きるのがだるいこのまま寝ていたいという願望に押しつぶされ、そのままその日一日自室待機を余儀なくされてしまったのだ。
 幸い、喰らってしまったヴィランの個性は一日も経てば自然と治まるものであり、一日中自室で大人しくさえしていれば、次の日には教師としてプロヒーローとしていつもの日々に復活できる。
 そのはずだった。

 自室待機を命じられた昨日の相澤は思う存分に惰眠を貪った。こんなだらだらしていてはいけない。頭ではわかっていたが身体はごろごろとベッドに横たわったまま。本格的に起きだしたのは10時も過ぎたころだった。
 しかし、起きたからと言ってなにをする気にもなれず、相変わらずだらだらと過ごしていた。生徒たちはどうしているだろうか。気にはなったが、それでも相澤が生徒らの様子を窺いに部屋を出ることはなかった。今の自分が生徒らの前に出ても普段通りに振る舞える自信はなく、これでは生徒たちに無用な心配をかけてしまうだけだと理性的に言い聞かせたのだ。
 そう、理性で抑えた。ヴィランの個性は確かに相澤の理性の紐を緩めたが、決して理性をごっそりなくしてしまったわけじゃない。だから、相澤は昼に来た爆豪の「あとで行ってもいいか」のLINEに「だめだ」と返した。こんな状態で会ってしまったら、絶対に間違いが起こる。頭の中の冷静な部分がこれでもかというほどに警告を発していた。
 残されたわずかな理性をかき集めて相澤は静かに部屋にこもり続けた。だが、爆豪の申し出を素っ気なく断ったはいいものの、本音では爆豪に会いたくて会いたくて仕方がなかった。
 今頃なにをしているのか。気を抜けば爆豪のいる教室にまで様子を窺いに行ってしまい衝動に襲われ、その願望を誤魔化すために昼間っから酒まで飲んでしまった。だいぶ不味い状態だ。自覚はあるものの、どうすることもできず日が沈みゆく頃には相澤の理性はすっかりとぐずぐずになってしまっていた。窓硝子越しに見える夕日の色に、爆豪の瞳を強く思いだす。
 それで、もうだめだった。

 会いたい。爆豪に会いたい。会って、しっかりとその顔を見たい。ぐしゃぐしゃとその頭を撫でてやりたい。丸い頬に触れたい。口の悪い唇に噛みついてやりたい。白い肌をくすぐりたい。全身余すところなくこの手で可愛がってやりたい。爆豪を、爆豪のすべてを。
 そうして気がつけば相澤は爆豪へと連絡を入れてしまっていた。
 その結果はお察しである。

 悔やんでも悔やみきれないほどの大失態だ。いくらヴィランの個性で理性を緩められていたとは言え、これだけは絶対にやってはいけないことだった。いい歳した三十路の男が、未成年の少年に手を出すなど……。けれど、相澤はやってしまった。成人はおろか、高校も卒業していない16歳の爆豪に手を出してしまった。
 やってはいけないことだと理性ではしつこいほどにちゃんとわかっていた。これでもかというほどわかっていたはずなのに、残されたわずかな理性だけでは耐えきることはできなかった。それはなぜなのか。答えは簡単だ。相澤に取って、恋人同士とは言え教師である自分が生徒である爆豪に手を出すことは「やってはいけないこと」ではあったが、けっして「やりたくないこと」ではないからだった。
 爆豪はすっかりと相澤にはそう言う欲求はないものであると思いこんでいるようだったが、相澤から言わせてみれば「馬鹿を言うな」である。どこの世界に恋人に手を出したくないと思う男がいると言うのか。めちゃくちゃ手を出してやりたいと思っているに決まっているだろう。
 だって好きなのだから。でなければ、教師と生徒だなんて危険をはらみながら恋人関係になどなるはずがない。

 かわいいと思う。爆豪のことを。
 相澤にとって爆豪に限らずA組の生徒たちはみんなそれぞれにかわいいものであるのだが、生徒であることを抜いても思うのだ。爆豪がかわいいと。警戒心の強い野良猫にように誰に対しても強気な態度だとか、そのくせ認めた相手の言葉にはしっかりを耳を傾けるだとか、この俺なんだから当然だろと言う顔をしておきながら言葉にしてストレートに褒めればちょっと照れくさそうにしたりだとか、あぁ、かわいいなこいつ、と思うのだ。
 爆豪という子どもを知れば知るほどにそう思う頻度は増えていく。たとえば、頭を撫でれば嬉しそうに目を細めるところだったり、キスをするだけでも白い頬を薄っすらと赤く染めるところだったり、上げていったらきりがない。
 大切にしたかった。強がりで意地っ張りで、無愛想で口も悪い、けれど目標のためならばどんな努力も惜しまない頑張り屋なかわいい子どもを大切に大切にしたかった。自身が抱えている痛みを内に秘めたまま一人で小さく丸まるような子どもを慈しみ愛してやりたかった。

 だから、彼が高校を卒業するまでは決して手出しはしないとそう決めていた。相澤なりのけじめだ。爆豪とこの先長い時間を共に過ごせるためのけじめ。
 正直言うと爆豪を前になにもしないでいると言うことは非常に苦しいものがあった。本来ならば口づけを交わすこと自体も控えたほうがいいのだろうが、流石にそこまでは我慢できないほどにうっかり伸びかける手を押さえるのは大変だった。
 人を背もたれ代わりに寄りかかってくる身体を力任せに掻き抱いてしまいたいと何度思ったことだろう。キスだけで真っ赤に染まる頬に何度それ以上のことをしてやりたいと思ったことだろう。我慢に我慢を重ねる相澤に対して爆豪はとても無防備で、寄せられる信頼が心地いいと同時に、人の苦労も知らないで、と若干苛ついたりもした。
 抱いてしまいたい。何十回何百回と思った。けれど、そのたびに鋼の理性でぐっと耐えた。爆豪がかわいかったから、爆豪が大切であったから、耐え抜いてきた。
 だが、それもすべては昨晩までの話である。


「…………んぅ」
「っ……!」
 ふいにちいさく聞こえてきた声に相澤の肩は盛大に跳ね上がった。
 ばっ、と爆豪へと視線を落とせば、もぞもぞと爆豪が身をよじらせていた。ぎゅうぅ、と眉間にしわが寄ったかと思えば、ゆっくりと白い瞼が持ち上がっていく。夕日色の目が覗き、ぱちり、と目と目があった。
「せんせ……?」
 ゆっくりと身を起こしながら相澤を呼ぶ爆豪の声は掠れていた。昨日、散々啼かせてしまった影響だろう。爆豪はけほりとちいさく咳をこぼし、自身の喉をさする。
「おい、大丈夫か」
「ん……、へーきだ」
 そう言いながら身を起こすその動きはひどくゆっくりとしている。これもやはり昨晩の影響だろう。
 あぁぁあああ、と相澤はまたしても頭を抱えたくなった。とはいえ、目覚めた爆豪にそんな情けない姿を晒すわけにはいかず、なんとか表情を引き締める。さらに背を正し、相澤は真っ直ぐに爆豪を見つめた。
「爆豪」
「あ?」
「すまなかった」
「…………?」
「……昨日のことだ」
「っ……」
 ぶわっ、と一気に爆豪の顔が赤くなる。
「な、あ、べ、べつ……べつに、へーきだ!」
 平気だと言いながらも、その声は唇と同じく明らかに震えていた。
 昨日散々触れまくっていた時も思ったが、あまり爆豪はそう言った方面が得意ではないようだ。思えば、キスをするだけでもいつもはふはふと息を荒げ、頬を染めていたのだ。歳のわりには賢く、戦闘センスも抜群であるが、やはりそのあたりはまだまだ子どもである。垣間見える爆豪の幼さに、罪悪感と後悔が増す。
「すまない……」
「んだよ、謝罪なんざいらねェよ。む、無理やりだったわけじゃねぇんだから……」
「いや、そういうわけにもいかんだろ」
「はぁ? なんだよそれ」
 教師としてもそうだが、ただの恋人としても昨日の行為は最悪だ。相澤は思う。
 いや、行為自体ははっきり言って最高だった。慣れない深い触れ合いに頬を赤くしてあぅあぅと戸惑う爆豪はとても拙くかわいかった。けれど、初めての行為がヴィランの個性にかかった状態だなんて、雰囲気も情緒もあったものじゃない。
 いきなりのことに、どれだけ爆豪は戸惑ったことだろう。理性をなくしても自分なりにとびっきり優しく抱いてやったつもりだし、最後は爆豪もしっかりと射精したが、しかしだからそれでいいだろうなんて、そうは問屋が卸さない。
 なによりも相澤自身が自分を許せない。
「責任は、とる」
「責任って……、んなもん、俺は」
 相澤の発言に爆豪は戸惑っているようだった。いつもは強気に釣り上がった眉を八の字にして、うろうろと所在なく視線をさまよわせる。だが、すぐに、はっ、となにかに気がついたように目を見開いた。
「責任って、まさかあんた責任取って俺の担任辞めるとか言いだすんじゃねェだろうな?」
「…………」
 相澤は黙った。
 そうすると決めたわけではない。けれど、それは選択肢の一つではあった。A組の担任を辞任、もしくは教師と言う職自体を辞めざるを得なくなること。爆豪とそういう関係を築いてからずっとずっと覚悟していた。そういうこともあるかもしれない、と。

「ッざけんなよ!」
 黙りこんだ相澤に察したのだろう、爆豪は声を荒らげた。どん、と拳で強くベッドを叩きながら、癇癪を起こした子どものように大きな声で怒鳴り散らす。
「ふざけんなふざけんなふざけんな!! んなの俺からしてみれば全然責任なんざ取っちゃいねぇわくそが!」
「爆豪……」
「俺はっ、んな責任の取りかたされたって嬉しかねェ……ッ!」
 よほど力任せに怒鳴ったのだろう。昨晩の行為の影響が喉に残っていたこともあってか、爆豪はひゅっ、と喉を鳴らすとふたたびげほげほと大きく咳をこぼした。
 相澤は咄嗟に背中をさすろうと爆豪の背中に手を伸ばした。しかし、爆豪は伸ばされた手を乱暴に振り払うと、掠れたままの声でさらに叫ぶ。
「責任取るって言うなら、むしろ俺の担任続けやがれ!」
「俺が……、っ俺がちゃんと卒業するまでしっかり見てろよ! 俺がトップヒーローに上り詰めるところまで、全部、ぜんぶ……、ちゃんとっ!」
「あんたの自己満足で責任取って、中途半端に投げ出すなんざぜってぇに許さねぇ!!」
「なぁおい! わかったかよくそが!!」
 返事を挟む間もなく、爆豪は一気に言いきった。ぜぇぜぇと肩で息をくり返し、鋭い目つきで相澤をにらむ。
 しかし、相澤が黙り込んだままなにも言えないでいると、爆豪は強張らせていた肩をふと力なく落とした。そしてさらには、眉間にしわを寄せたまま、しゅん、と眉尻を下げる。泣きだすのを我慢するようなその表情にぎくりとした。やめろ。やめてくれ。そんな表情をさせたいわけじゃないんだ。
「それとも……、嫌になったのかよ」
 俺のこと。
 ぽつり、と爆豪は言う。先ほどとはうって変わって、消え入りそうなちいさな声。相澤は慌てて首を横に振った。
「んなわけないだろう! 馬鹿を言うな」
「じゃあ、あんたも馬鹿みてぇなこと言ってんじゃねぇよ!」
「…………」
「なぁ、辞めんなよ……、担任も、教師も……、辞めんなよ」
 辞めるな、と言葉こそは高圧的だったが、その声は懇願するように響きを含んでいた。
 相澤は、ぐぅ、と息をつめた。爆豪の願いであるなら叶えてやりたい。けれど、こんな都合の良い話があっていいものかと思う。許されぬことをしでかして、それなのになんの罰も受けず責任も取らずに今まで通りであるなんて、そんなの虫がよすぎる。許されないことだ。相澤に残された良心のような何かが、相澤を叱咤する。
 しかし、もう一人の相澤が言うのだ。爆豪を悲しませること以上に許されぬことなどあるのか? と。その責任は爆豪を悲しませてまで本当に負うべきものなのか? と。爆豪の言う通り、それはただの自己満足なのではないか。
 ぐるぐると相澤は悩んだ。自分が本当にすべきこと。
「先生……」
 爆豪が呼ぶ。縋る声。
 相澤は、はぁ、とため息をついた。
 そして意を決した。

「爆豪」
「……なんだよ」
「辞めねぇよ。担任も教師も辞めない」
「っ、……本当か?」
 ぱっ、と爆豪は顔を上げて相澤を見た。ゆるり、と夕日色の瞳が揺れている。
 相澤は安心させるように口端をほんの少し緩めて、わしゃわしゃと頭を撫でてやった。
「あぁ、本当だ」
「嘘じゃ、ねぇだろうな」
「嘘じゃねぇ。爆豪、ちゃんと見ている」
「……っ、……」
 爆豪はわなわなと唇を震わせる。かと思えば、すぐにきゅっと引き結び、ちらちらとこちらを見上げては、なにか言いたそうに口を開いきかけてまたすぐに引き結ぶ。
「なんだ爆豪、言いたいことがあるならちゃんと言え」
「っ、…………あ、あんたと俺の関係って、なんだ?」
「俺とお前は教師と生徒で、そんで恋人だ」
 間をたっぷりとった問いに対して相澤は間髪入れずにはっきりと言い切ってやった。
 相澤はもう腹をくくった。しでかしてしまったことはもうどうしようもない。自分はだめな先生だ。けれど、どれだけだめな先生であっても、この子どもを大切にしてやりたいという気持ちは変わっちゃいない。だったら、ここで爆豪の教師であることも爆豪の恋人であることもやめてしまってはいけないのだ。
 はたから見たら都合の良い選択かもしれない。それでも、もう腹をくくった。
「大丈夫だ、爆豪」
 念押ししてやれば爆豪はさらになにか言いたげに口をもごもごとさせた。
「じゃ、じゃあ……、その……」
「? なんだ」
「その……、そ、の……」
「だから、なんだ」
「だから、だから……、その」
 いつものずばずばとした物言いはどこにいったのか、何度も何度も爆豪は言葉を詰まらせる。それでも、辛抱強く言葉の続きを待っていると爆豪は、ぎゅ、と控えめな仕草で相澤の服の裾を掴み、おずおずとした様子で言った。
「き、昨日みたいなこと、また、するか……?」
「…………はぁっ!?」
 それは予想だにしていなかった言葉だった。
 ぎょっ、と相澤は大きく目を見開いた。なにを言っているんだこいつは。まじまじと爆豪を見る。そして、すぐに、あ、と思う。やばい。これはやばい。
 昨晩の行為が残る目尻に、その行為を思いだして恥ずかしそうに染まる頬、真っ直ぐにこちらを見られないらしい目は伏し目がちで、そのくせ時折期待が見え隠れする眼差しでこちらを見上げる。さらには、いまの爆豪は相澤の服を着ており、そのゆるゆるの服の隙間から自分がつけた赤い痕がいくつか覗いていた。
 どれもこれも自分がつけたもの、自分がそうさせたもの。やばい。本当にいろいろとやばい。なんと言うか、物凄く「俺のもの」感がする。爆豪勝己は相澤消太のもの。あぁ、なんて禁忌的で、なんて甘美な響きだろうか。

「〜〜〜っ、あぁ、もうお前はまったく!!」
「っうわ!?」
 たまらずに相澤はらしくもなく大きく腕を広げ、そのままがばりと爆豪を抱きしめた。
 ぎゅうぎゅうと腕の中に閉じ込める。爆豪が、なんだよいきなりっ、と驚きと不満の混じった声を上げた。しかし、いきなり抱きしめた相澤の腕を振り払うようなことはなく、むしろそっと控えめに背中に腕を回してくる。どこまでも、本当にどこまでもこの子どもは自分を煽るのがうまい。
 相澤は爆豪を抱きしめたまま、ぐぅ、と奥歯を強く噛みしめた。ヴィランの個性はもうすでに解けているはずなのに、いまにも千切れてしまいそうな理性の紐を保つのにひどく苦労した。先生って辛い。あぁ、しかし、それでも相澤の胸は昨晩の爆豪と同じようにいっぱいいっぱいに満ち足りていた。
貴方に満たされ、君に満たされる