ずく、と疼いた腕の感覚に、あぁもうすぐ雨が降るな、と切島はすぐに気がついた。事務所を出て空を見上げれば、案の定空はどんよりと曇っていて、雨粒の気配を近くに感じる。
 朝の天気予報では雨が降るとは言ってなかったはずなのに……。切島は軽く眉間にしわを寄せた。だが仕方がない。天気予報はあくまで予報であって絶対ではない。外れることもそりゃあるだろう。
 さっさと意識を切り替えると切島は、お疲れっした! と事務所の同僚たちに声をかけてから、だっ、と勢いよく駆けだした。今朝は爆豪が洗濯物を外に干していたのだ。雨が降る前に仕舞わないと大変なことになってしまう。だから切島は急いで家路についた。

 ぱらぱらとついに雨粒が降り始めたのはちょうどマンションのエントランスに駆け込んだ時のことだ。やべぇ、とエレベーターを待っているのももどかしくて一気に階段を駆け上がる。そのままの勢いで部屋へと入って、急いで洗濯物をしまいこんだ直後、ざぁっ、と一気に雨脚が強くなった。
「ぎ、ぎりぎりセーフ!」
 よかったぁああ〜、と安堵に息を深く吐きながら、切島は身を投げだすようにしてソファに腰を下ろした。達成感に気分よくぐぐーっと身体を伸ばしほぐす。自分の頑張りによって無事洗濯ものは濡れずにすんだ。このことを報告したら爆豪は良くやったと褒めてくれるだろうか、なんて想像してみてにやりと口端を緩める。
「っ……」
 しかし、次の瞬間、ずくり、とした感覚が左腕に走って切島は眉をひそませた。
「あ〜、もう、くそっ。またかよ」
 腕に視線を落として、思わず吐き捨てるように愚痴る。勘弁してくれよ、と思うが、その間も絶えず左腕にはずくずくとした疼くような感覚がくり返される。なだめるように腕を手でさするが、意味はない。

 今日みたいに雨が降る日のことだ。
 しとしとと雨粒が切島の世界を濡らすと切島の腕は時折ずくずくとした疼きを訴えてくることがあった。痛みはない。あくまでも腕の中の血管が力強く脈打っているような、そんな疼いた感覚。一体この感覚はなんなのか。端的に言ってしまうとこれは7、8年ほど前に無茶をした後遺症であった。
 あの時の切島はまだ学生だった。ヒーローにもなっておらず、仮免許を習得したばかりのインターン中でのこと。ヴィランの攻撃を防ごうと壊された先からさらに硬化をくり返し無茶をしてヴィランの攻撃を受け続けた結果の後遺症。
 とは言っても、後遺症の症状はそんな重たいものではない。普段であれば痛みはおろかちいさな疼きだって感じることはなく、切島の日常生活にはなんの曇りもなかった。戦闘面においても切島の硬化は日に日にそのレベルを上げていくばかりで、プロヒーローとしてデビューしてから今までヴィランの攻撃によって硬化を直接破られたことはない。剛健ヒーローの名に恥じぬほどに、切島は強く頑丈な男であった。
 しかし、不思議なことに丈夫で頑丈であるはずの切島の身体は雨の日に限ってほんの少しの綻びを見せるのだ。硬化の強度が落ちるわけではない。痛みを感じて動きが鈍ることもない。雨が降ろうと降らなかろうと切島のヒーローとしての仕事ぶりに差異はない。
 ただ、ふと意識をオフモードに移行させるとずくずくとした疼くような感覚が腕に走ることがあるのだ。ずきずきの一歩手前。血管の中を血が勢いよく流れているようななんとも言えない感覚。

「左腕が疼く〜、とか中二病かよ俺はまったく」
 口ではおどけてみせるが、切島の眉間には不機嫌にしわが刻まれ続けていた。
 痛み自体はなくとも、まったくなんともないのだと無視してしまうには強すぎる疼きは煩わしいことこの上ない。必死に腕をさすっても症状はちっとも軽減してくれないから本当に嫌になる。
「あ〜〜、もうっ」
 ぐわぁあー、とどうにもならない感覚に切島はうめき声を上げながらソファの上で横になった。鬱陶しい。でも、どうにもならない。それがさらに鬱陶しく、苛立つ。
 癒しが欲しい。左腕をさすりながら切島は思った。最高級の癒しが欲しい。
「……爆豪、早く帰ってこねぇかなぁ」
 思わずつぶやく。遅くなるとは言っていなかったから、普段通り切島とそう変わらないうちに帰宅するはずだ。よほどの事件が起こらない限り、恐らく一時間以内には。
 いつもであったら一時間くらいなんてことはない待ち時間だった。けれど、いまの切島にとっては途方もないほどに長い長い時に感じられてしまった。



◇   ◇   ◇
 
 
 
 ふと意識が浮き上がったの頭に柔らかな感触を感じたからだった。
 ゆっくりと目を開く。そこではじめて切島は自身がいつの間にか眠りについていたことに気がついた。そして目が覚めたのだと気がついた瞬間、疼いたままの腕の感覚にも気がつき、すぐさま目を細め顔をしかめた。
「起きたんか」
 だが、不意打ちのように耳に届いた声に切島はぱっと目を大きくさせた。
 慌ててその姿を探すと、お目当てのその人は肘掛けに腰を下ろした状態でソファに寝転がったままの切島を見おろしていた。
「ば、くごう……、帰ったのか」
「いまさっきな」
「おっせぇぞ」
「普段通りだわアホ」
 ふんっ、と顔を背けて爆豪は立ち上がろうとする。
 だから切島は慌てて爆豪の服の裾を掴んだ。行くなよ。ようやく帰ってきたのに、早々にどっか行ってしまうなど、そんなのだめだ。
「んだよ」
「行くなよ、謝るから……」
「こんくらいで怒っちゃいねぇわ」
 風呂入ってくるんだよ、と爆豪は裾を掴む切島の手をぺしぺしと叩く。だが、切島は手を離さなかった。
「だめ、風呂は後で」
「あぁ?」
 むぎゅぎゅと爆豪が眉間にしわを寄せる。不機嫌になりはじめの表情。けれど、それ以上に切島の眉間にはしわが寄せられており、それを見た爆豪はすぐに眉間にしわを取っ払った。ぱちくり、と瞬きひとつ。そしてすぐに、はぁ、と息をついた。
「まったく、まぁた腕いてぇのかよ」
「痛くは、ねぇけど……」
「けど、どっちだ」
「……左」
 もごもごと答える。
 爆豪は、仕方がない、とばかりにもう一度息を吐いた。ぺしっ、と乱雑に手を払われる。あ、と思ったが、爆豪は切島がなにか言うよりも早くそのまま隣に腰掛けてきた。
 腕を取られる。左腕。温かな手のひらが、するり、と腕の表面を軽く撫でた。一度だけではない。何度も何度も、するすると優しく撫でてくる。爆豪の手のひら。誰よりも愛しい人の手の平だ。
 するり、するり、と撫でられる。またかよ、なんて素っ気ない言葉とは裏腹すぎる優しい手つきだ。その感触に切島は左腕の疼きが少しずつ引いていくのを感じた。

 いつもそうなのだ。
 どういうわけか、自分でいくら摩ってもどうにもならない疼きは、爆豪の手のひらに撫でられただけであっという間にどこかへいってしまう。それどころか思わずうっとりと目を細めてしまいたいほどに、撫でる手のひらの感触は心地がいい。
 実際に、切島は目を瞑った。左腕に意識を集中させ、その優しい感触をこれでもかというほど堪能する。爆豪はというと文句の一つも言わずに、するりするりと腕を撫で続けてくれていた。
 そうやって十分すぎるほどに堪能したころになって、切島はふと上体を傾けると爆豪の太ももに頭を乗せた。爆豪のほうへ向くようにと身体の向きを変え、目の前の腹に顔をうずめるようにして懐かせる。
「おい」
「んんー?」
「これじゃ摩れねぇだろうが」
「じゃあ代わりに頭撫でてくれ」
「腕がいてぇんじゃねぇのかよ」
 くそが、と爆豪は吐き捨てる。切島は、いーじゃん、と言葉を返した。
 ぐりぐりと爆豪の腹にさらに顔を押しつけ、なぁなぁと手のひらをねだる。すると爆豪は先ほどと同じように軽く息をつくと、わしゃわしゃと切島の髪を乱してから、切島の願い通りにその髪を撫ではじめた。普段だったら、いい年した男が甘えてくんじゃねぇ、と振り払われてもおかしくない要求だったが、爆豪の手のひらはどこまでも優しく切島を甘やかしてくれた。
 これも、いつもそうなのだ。
 雨が降ると、切島の腕は疼く。すると爆豪は切島に対してすこし甘くなる。口にされる言葉は相変わらず素っ気ないし口汚かったりするが、ちょっとしたところでふとした甘さをふんだんにくれるのだ。
 だからじつは言うと切島は雨の日がそこそこ好きだったりする。雨の日に疼く腕の感覚は心底鬱陶しい。でもそれ以上に、腕の疼きが煩わしいとへこむ自分を慰めようと、優しく甘やかしてくれる爆豪の愛情が嬉しい。幸せだなぁ、って、そう思う。

「なぁ、爆豪、ばくごー」
 切島は甘えた声で爆豪を呼んだ。爆豪は撫でる手を止めぬまま答えた。
「んだよ」
「俺なぁ、今日ちゃんと雨が降る前に洗濯物しまったんだァ」
「そうか」
「うん、そう。俺さ、そのために走って帰ったんだぜ? なぁ、俺偉くね? 偉くね?」
「べつに偉かねェ。けど、まぁよくやった」
「ふへっ、そうだろそうだろ」
 よくやった、の言葉に気を良くした切島はさらに続けた。
「今日はなー、俺ヴィランも一人捕まえたんだぜー」
「ふぅん」
「まぁ、そんな大したやつじゃなかったけどな」
「雑魚でもヴィランはヴィランだろ」
「じゃあ、偉い? 俺偉いか?」
「だから偉くはねェよ」
「ちぇ〜、いいじゃん褒めてくれてもよぉ」
「あほ言え、てめぇの腕なら雑魚ヴィランぐらい何人でも捕まえられんだろ」
「……へへっ、そうか。そうかな?」
「あ? この俺が間違ったこと言ってるって言いてぇのか?」
「ちげぇーよ。……ふへっ、そっか。そうだな!」
「そうだ」
「うん。……なー、ばくごー」
「今度はなんだ」
「あのさぁ……、今日はさぁ、おめぇと一緒に風呂入ってもいいか?」
「あぁ? 風呂だァ?」
「おう。……だめか?」
「…………」
「なぁ、ばくごぉ〜……、だめかぁ?」
「…………ったく、しゃーねぇなァ」
「まじでッ!? オッケー? やった!」
「変なことしたら殺す」
「しないしない! たぶんしない! 風呂では!」
「まるで信用できねぇこと言ってんじゃねぇよ」
 あほが、と言いながら爆豪は頭を撫でていた手で耳たぶに触れ、くいくいと引っ張ってきた。全然痛くない、戯れのようなそのくすぐったい感触に、切島は、ふはっ、と笑った。
 やめてやめて、と逃げるふりをしてぎゅうと爆豪の腹に抱きつく。爆豪は、苦しいだろくそが、と口では言うが、やはり切島のことを振り払ったりなどはしなかった。ふわふわとしたやり取りだ。中身などまるでないが、だからこそ心地がいい。

「なぁ、ばくごぉ」
「なんだ」
「風呂はさ、もう少し後でもいいか?」
 もうしばらく、ちいさな子どものようにこのまま爆豪にくっ付いて甘えていたかった。一緒に入る風呂はそれはそれで楽しみだが、でもいまは、もう少し、もう少しこのままでいたい。
 切島はねだるようにして爆豪をそっと見上げた。
「仕方ねェな……」
 そうすれば爆豪は、あと少しだけな、と頷いて、さらりと切島の髪を梳いた。
 その感触に、くふり、と切島はちいさく息を吐いた。とても心地がよかった。眉間にしわを寄せてしまうほど鬱陶しかった腕の疼きなど、もう微塵も気にならないほどに、あぁ、幸せだった。
あまいあめ