シンドリアは夜だった。 空気は、とても静かだ。人の声どころか、虫の鳴き声一つ聞こえないほどのそれは、いっそのこと重苦しいと言ってもいいほどで、肌に絡みつく馴染み深いはずの風がいつにも増して生温く鬱陶しい。こめかみには自然と汗が浮かんでいた。そのくせ、石床を踏みしめた足元からは、じわり、とした冷たい感覚が這い上ってくる。 ……嫌な雰囲気だ。シャルルカンは思わず舌打ちをしようとして、しかし寸前で止める。代わりに息を長く吐き、そうして視線を横へと流した。そのまま視線を少し下へとやれば、眩い金色の髪がそこにはある。甘い蜂蜜を溶かし混ぜた太陽の日差しの色。それはもうすっかり見慣れてしまった色であったが、その色と一緒に視界に入る見慣れぬ黒ずんだ右腕に、またしても出そうになった舌打ちを奥歯を噛みしめやり過ごす。胸の奥底から、殺意を帯びた焦燥感が沸き起こる。破壊衝動にも似た何か。それはきっと月のない夜の空よりも暗い色をしている。ぶち殺してやりたくて仕方がない。…誰を。そんな問いかけは愚問だ。 シャルルカンはじっとアリババの姿を見つめる。穴があくほど、とはこういう状況を言うのだろうと実感するほどに真っ直ぐ。だがその強い視線にアリババは気が付かない。呆然としているような、逆になにか思案しているような、曖昧な表情で自身の右腕を見つめていた。その心中を察しきることはシャルルカンにはできない。ただ、曖昧な姿で、けれど確実な存在感を持って迫る黒い影に恐怖とも嫌悪とも名付けられる負の感情が背筋を撫でる。当人ではない己ですらこんな状態なのだから、その黒い影に犯されたアリババを思うと一層に背筋が冷たくなった。嫌な想像ばかりが脳裏をちらつく。目の前の現実から目を逸らしてしまいたくなる。けれど、そんな愚行をシャルルカンは自身に許さなかった。ほんの少しの変化も見逃さぬよう、アリババを、右腕を見つめた。忌まわしい黒い影。その黒い影を、ふ、と白いままの手の平が擦る。 「アリババ、」 呼びかけたのはほとんど無意識だった。しん、とした部屋に己の声がやけに響く。しかし、その呼びかけに対し、アリババは反応を示さなかった。いつもなら、こんなことはない。仮にあったとしても、そんな態度は許さない。師匠の呼びかけを無視してんじゃねぇ。そう言って、細い首筋に腕を回しただろう。柔らかな髪をこれでもかというくらいかき乱して、ごめんなさい、と口にするまで離してなんかやらない。いつもなら、そう。しかし今、シャルルカンはそうしなかった。 「アリババ」 少し前までは存在すら知らなかった、だが今はもうすっかり舌に馴染んでしまった唯一の弟子の名前。きっともう忘れることなんてない、その名前をもう一度、呼ぶ。それと一緒に、頭に手を置く。アリババは、うひゃっ、と素っ頓狂な声をあげながら、顔を上げた。丸く幼い形をした目が、ぱちりぱちりと瞬きを繰り返す。 「し、師匠?なんすか」 「腕、痛むのか?」 「え、」 アリババの反応は鈍かった。腕…と告げられた言葉を小さな声で繰り返しながら自身の腕を見つめ直し、ことりと首をかしげる。束の間の沈黙後、ようやく言葉の意味が伝わったらしく、あぁ!と声を上げた。 「あ、いや、痛みとかは全然ないんで、大丈夫、です」 言いながら、アリババは自分でも改めて確認するように、ぐっ、ぐっ、と何度か拳を握ってみせた。確かに、その動作に不自然な所はない。それでも、ただそれだけでは不安感は拭えず、シャルルカンはアリババのその手をもっとよく見ようと腕を伸ばした。手と手が触れる、しかしその直前、黒い手の平はシャルルカンの指先をひらりと避けた。逃げるような動き。シャルルカンをそれ気にせずに、アリババの手を追った。だが、またしても手の平は触れる寸前でひらりひらりと宙を舞う。更に追っては避けられ、避けられては更に追う、拙い鬼ごっこのようなやり取りが何度か続く。いい加減にしろと、シャルルカンは一旦追うのをやめ、アリババを見た。 「…んで、逃げんだよ」 「いやぁ、それは、その、あははっ」 誤魔化すように、アリババは乾いた笑い声をあげた。わざとらしい声だ。石床に膝をつき、覗き込むようにして目を見つめれば、琥珀色の双眸はあっちへうろうろそっちへうろうろと忙しなく、だが決して視線が合うことはない。それでも、シャルルカンはじっと見つめ続けた。 アリババ、と三度名を呼ぶ。優しく静かに、真っ直ぐと有無なく。呼びかけに対して、アリババは小さく肩を揺らした。そうして、恐る恐る窺うような上目使いでシャルルカンを見た。はくはくと何度か口を開閉させて、やがて観念したように小さく息を吐きだす。そしてアリババは言った。 「…その、万が一にでも師匠に感染ったら、まずいでしょう?」 瞬間、かっと頭に血が上るような、全身の血が一瞬にして煮えたぎるような、そんな感覚がした。あまりの熱さに思考が停止する。だというのに、シャルルカンの腕は脳が正確な指示を出すよりも早く、まるで獣のような速度でアリババの手の平を掴んでいた。びくり、と反射的に跳ねる薄っぺらい手の平。その手の平を決して逃がさないようシャルルカンは強く握りしめた。ふざけたこと言ってんじゃねぇ。思わず怒鳴りつけそうとして、しかし実際にはぐっと口を噤む。なぜなら、感情のままに声を荒げてしまうには、握りしめたアリババの手があまりにも小さく、そしてあまりにも冷たかったからだ。 「………くだらねぇ心配すんな」 こんぐらいで感染ったりしねぇよ。つーか、感染ったとしても大丈夫だっつーの。言い聞かせるように、シャルルカンはゆっくりと声にした。本当は、もっともっと言いたいことがあったはずだったが、上手く言葉にすることができなかった。実際に言い聞かせたかったのはアリババか、それとも自分自身なのか、それすらもわからない。どうしようもないもどかしさが胸を打ち、気が付けば、黒ずんだ手の甲に唇を押し当てていた。またしても手の中で小さな手の平が跳ねる。アリババは掴まれた手の平を取り戻そうと何度か腕に力を籠め引いていたが、微動だにしない様子にやがて諦めたような、はたまた、困ったような表情で、ははっ、と小さく笑った。弱々しい力が、シャルルカンの手の平をようやく握り返す。 「師匠の手、あったかいですね」 「お前の手が冷たすぎんだよ」 言ってから、シャルルカンは顔をしかめた。温かい己の手の平と、冷たいアリババの手の平。常とは真逆だった。もうすぐ十八になるというのに子供のような体温をしたままアリババの手の平は、その陽光の色をした髪とお揃いにしたかのようにいつも温かかった。午後の陽だまりのような手の平。温もりに愛された小さな手の平。その手の平が、今はこんなにも冷たい。それはまるで死の温度だった。いくら強く握っても、決して温かくなることは、ない。 抑えたはずの殺意が、瞬く間に蘇る。凶暴な衝動。まさか己の中にこんなにも熱く獰猛な獣がいたなんて。頭の隅で冷静に思いながら、シャルルカンはぎりぎりと奥歯を噛みしめた。それこそ、牙を剥き出し唸る獣のように。目の前に獲物がいたならば、両腕を骨まで潰し、両足の筋肉を切り裂き、そしてその喉仏を喰いちぎっていたに違いなかった。どれだけ悲鳴を上げ、許しを乞うたとしても決して許しはしない。 「し、しょう…師匠!」 そんな仄暗い思考に意識が捕らわれる中、アリババの呼び声が飛び込んできて、はっ、とする。目の前がぱっと明るくなって、眩い金髪がすぐ近い。一瞬、目を奪われそうになって、しかしその金髪の向こうでアリババの両目に僅かな水の気配を感じ取り背筋がぎくりとした。どうした!?と叫ぶようにして言えば、どうしたじゃないですよ!と同じく叫ぶように言い返される。 「手!力入れすぎですって!師匠!手!」 衝動に捕らわれすぎて、気が付かぬうちに両手を強く握りしめていたらしい。痛い痛いと空いた方の手でぺしぺしと両手を叩かれ、慌てて力を抜いた。 「っ、わ、わりぃ」 「うぅ、まったくですよぉ」 アリババは拗ねたように口を尖らせる。まだまだ大人になりきれていない緩やかな線をえがく頬がぷくりと膨らんで、子供っぽいその表情にシャルルカンは少し笑った。だが、それも束の間のことだった。 手元に、視線を落とす。握りしめすぎた手は、普通ならば多少赤くなっていてもおかしくないはずだろうに、アリババの右手は相変わらず禍々しい影の色をしたまま。労わるようにそっと手の甲を擦ってみたところで影が消えるはずなどはなく、浮かべた笑みはあっという間に引っ込んでしまった。無意識に、眉間に皺が寄る。 ――あの時もっと慎重に動いていれば。あの時もっとアリババの傍についていれば。あの時、あの時、あの時あの時。不意打ちのようにして思考を支配するそれは、殺意と不安に隠れて潜んでいた後悔の感情だった。過ぎたことをいつまでも悔いていたってしょうがないと分かってはいても、馬鹿みたいにループする。 「本当に…、悪い」 「……もぉ、大げさですよ師匠」 思わず零した言葉に、アリババは眉を八の字にしながらあえて茶化すように笑った。師匠にそんな神妙な表情は似合わないっすよぉと、拙さが隠し切れないそれはきっとアリババなりの気遣いだった。誰よりも今、不安の渦の間近に立っているのはほかでもない彼であろうと言うのに、他でもない自分自身がアリババにそんな表情をさせているのだと思うと情けなさすぎて嫌になる。悪い、と性懲りもなく繰り返すと、アリババはやっぱり困ったように笑った。 「じゃあ、師匠。代わりに、って言ったらなんですが、一つ……お願いがあるんです」 「お願い……?」 「……はい、」 頷いた途端、アリババの表情がいくらか暗くなった。琥珀色の双眸が、再びうろうろと視線を彷徨わせる。迷子になった子犬のような表情だった。保護欲を誘う、少し不安定な表情。アリババは、自身から提案したくせに、言いにくそうに口を開閉させながら、もしも…、もしもですよ?とやたらと“もしも”を強調させる。……とても、嫌な予感がした。 「もしも……、もしも俺の全てが黒いルフに飲み込まれて、俺が俺じゃなくなったら、」 その時は……。アリババは、そこで静かに息を吸い、そして静かに息を吐き出した。白い手が、そっと左耳の飾りを撫でる。赤い、二つの耳飾り。アリババは決意を新たにするようにして唇をかみしめ、そうして、そっと口を開く。師匠、と聞き慣れ呼び名。その呼び名の先、続くであろう言葉を実際に音色にされて聞かずとも、シャルルカンには既に理解することができていた。 「アリババ、やめろ」 だからこそ、シャルルカンはたまらずにそれ以上を制止した。たとえ“もしも”の話だったとしても、アリババの口からそんな言葉を聞きたくない。アリババの口からそんな言葉を言わせたくない。自身の未来を自身で否定するような、そんなクソみたいに最低な言葉。そして何よりも、実際に言葉を声にされて聞いてしまったら、今はまだただの想像でしかないそれが言霊となってそのまま現実になってしまいそうで、恐ろしかった。どんな窮地な時でも、どんな強敵を前にしても、怯えることなどなかった身体がただの未来予想図に情けなく震える。 シャルルカンは触れたままであったアリババの手を、無意識だった先とは違い、今度は故意にに強く握りしめた。痛い、とアリババが言った時よりも強く、強く。それなのに、アリババはあの時のように痛いとは言わない。 「師匠、お願いです。その時は俺を―――」 「やめろ!」 ついに、シャルルカンは叫んだ。やめろアリババ分かったからそれ以上言うなやめろ。捲し立てるように言い捨てて、肩で大きく息をした。まるで耳のすぐ後ろに心臓が移ってしまったかのように、鼓動の音がうるさくて仕方がない。いっそのこと泣き喚いてしまいたいほどに、なにもかもが悲しかった。いっそのことすべてを投げ捨ててしまいたいほどに、なにもかもが辛かった。しかし、どれだけ泣いてしまいそうになっても、どれだけ逃げ出してしまいたくなっても、実際にシャルルカンの頬が涙で濡れることはなく、シャルルカンの足がこの場から動くことはなかった。そんなことはあるはずがなかった。唯一の弟子の師匠として、そんな無様な姿を見せられるはずもなく、なによりも、アリババをたった独り置いて残して行ける場所など、きっとこの世には存在しない。 シャルルカンは一度目を閉じた。熱くなった頭を、意識して呼吸を繰り返し冷ましてゆく。落ち着け。冷静になれ。強く言い聞かせながら、強張った全身から力を抜いた。そうして瞼をゆっくりと持ち上げると改めてアリババと向き直った。 「……くだらねぇ心配すんなって言ったろ」 「…………でも、」 アリババはなおも言葉を続けようとする。だがシャルルカンは首を振ってそれを制止すると、アリババ曰く“似合わない神妙な表情”なんて取っ払い、いつもの八人将の一人であり、アリババの師匠である“シャルルカン”としての表情で笑って見せた。 「大丈夫だ。そんなこと、絶対にありえねぇ。だから心配すんなって」 ちゃんと笑えていたかどうか、正直言って、あまり、自信はなかった。けれど、構いはしなかった。大丈夫だともう一度繰り返しながら、アリババの目尻を、頬を、するりと撫でる。そのまま滑らせるように後頭にそっと触れ、指先に髪を絡ませながら引き寄せれば、アリババはされるがままに身体を傾け、その身をシャルルカンの腕に預けた。小さな身体だ。改めて実感しながら、シャルルカンはぎゅっ、と腕に力を込める。逃がさぬように、失くさぬように、消えてしまわぬように。大丈夫だと馬鹿の一つ覚えのようにまたしても繰り返しながら薄っぺらい背中に触れて、伝わる鼓動を撫でた。 アリババは、もう何も言わなかった。ただ幼子がそうするように、シャルルカンの服の裾を控えめにくしゃりと握りしめる。どうせなら、その細い腕を伸ばして精一杯に抱きついてくれればいいのに。変なところで控えめな弟子に一抹の寂寥感を抱きながらも、シャルルカンはアリババを抱きしめ、薄い背中を撫で続けた。やがて、遠くの方から慌ただしく響き駆け寄ってくる足音が聞こえてくるまで、ずっと、ずっとそうしていた。 足音は二つだった。軽い音と、さらに軽い音。顔を上げるとヤムライハとアラジンの二人の姿があり、待ちに待ったその到着にシャルルカンは抱きしめ続けていたアリババの身体をそっと離した。遅れて二人に気が付いたアリババが、握っていた裾を離す。アリババ君!と大きく声を上げ、駆けてきた勢いのままアラジンが飛びつくようにしてアリババに寄り添うのを視界の隅に収めながら、シャルルカンは睨むようにしてヤムライハを見た。 「おっせーぞテメェ!」 こめかみを滑る一筋の汗に急いでやってきたことは理解できていたが、言わずにはいられなかった。それだけ切羽詰っていた。大丈夫だなんて、表面上はどれだけ取り繕って見せても、心臓は相変わらず早い鼓動を刻んだまま落ち着かないでいる。 早々の怒声にヤムライハはムッと眉間に皺を寄せた。しかし、いつものように口汚く言い返してくることはない。悪かったわね、と苛立ちの混じった声で返しながら、険しい眼差しはシャルルカンを素通りしてアリババの姿だけを捕らえる。 「ごめんなさい、待たせちゃって」 あらかじめ部屋の前で待っていたとはいえ、今は一分一秒も惜しい状態だ。ヤムライハは口早に謝罪を済ませると、さぁ早く行きましょう、と返事の言葉も待たずにアリババの肩に手を添え、部屋への移動を促した。早く早く、としきりに口にしながらアラジンが扉を開き、アラジンに手を引かれたアリババがその後に続く。届かぬ距離へと遠ざかっていく背に思わず“衝動”が沸き起こるが、シャルルカンは両足にぐっと力を込めてそれを耐えた。そのまま引き剥がすようにして視線を外し、代わりにヤムライハへと目を向ける。 「ヤムライハ、」 「……なにかしら」 早くしてちょうだい、なんて言われなくてもわかっている。だから言葉は短く簡素に、しかし何よりの想いを込めてシャルルカンは言った。 「……頼んだぞ」 まさか、この女に向かって自分がこんな言葉を投げかける日が来るなんて思わなかった。だが、言葉は自然に口元からこぼれていた。ヤムライハの目が、驚いたようにシャルルカンを見る。普段なら、明日は槍でも降るんじゃないの、なんて軽口で切って捨てられてもおかしくはない。しかし、同じ弟子を持つ身として、彼女は彼女で思うところがあるのだろう。ヤムライハはシャルルカンの言葉に笑いもからかいもせずに、ただ重く静かに頷いて見せた。 ゆっくりと、重い音を立てて扉が閉まる。振動が床を通して足元に伝い、その途端に、まるで糸を切られた操り人形のようにして膝が崩れ、シャルルカンはその場に行儀悪くしゃがみ込んだ。ためにため込んだ重い息をようやくの思いで大きく吐き出す。けれど、いくら息を吐いてみたところで腹の底は重たい空気を抱えたまま、ちっとも軽くなりはしなかった。重たくて重たくて、一人じゃ立ち上がれないほど。 「あー…、くそっ」 いつだって、剣さえあれば立ち上がれた。シャルルカンにとって、剣は強さだった。剣は証だった。剣は誇りだった。剣があれば、迷いなどいらなかった。剣があれば、恐れなどいらなかった。剣があれば、魔術などいらなかった。剣術馬鹿、なんて罵倒も、シャルルカンからしてみれば最高の褒め言葉だ。剣術こそが至高。他の者にとってはどうであれ、魔術などシャルルカンには必要なかった。少なくとも、今まではずっとそうだった。それなのに、なんてことだろうか。魔術を知らない、魔術が使えない。そんなどうでもよかったはずの事実が、今はこんなにも悔しくて悔しくて仕方がない。 (今この瞬間、俺は、こんなにも……無力だ) ただ、ここで呆然としていることしかできない己に、今さらのように思う。いつの間に、こんなに弱くなってしまったんだろう。いつの間に、こんなに捕らわれていたのだろう。目を閉じれば、瞼の裏には消えたはずの太陽が浮かび上がる。きんいろの、うつくしい、かがやき。 |
馬鹿だね、って笑い飛ばして |