全てを燃やし尽くそうとするかのような強く眩しい日差しに、じりじりと何かが焼けていくような、そんな音が耳のすぐ後ろで聞こえた気がした。焦げるようなアスファルトの匂い。地面と空の境界線がゆらゆらと揺れ、そのぐにゃりとした風景に釣られるようにして、時折、頭の中がくらりと揺れた。 暑い。ただひたすらに暑い。もとより夏はあまり得意ではない。好きではないと言ってもいい。あまりの暑さに思考は鈍るし、身体は重くなる。少し長く肌を晒せば真っ赤になってじりじりと痛むし、ぐっと食欲は無くなるし、散々なことだらけだ。 できることなら、今すぐにでも家に飛びかえってエアコンがガンガン効いた部屋でこの夏が過ぎるその時まで引き籠っていたい。額から絶え間なく滑り落ちる汗をぬぐいながら、イワンは思う。無理な話だとは理解している。けれど、それほどまでにシュテルンビルトの夏はイワンにとって過酷なものであった。 あともう少し。あともう少しでジャスティスタワーにたどり着く。隅々まで冷房管理が行き届いているそこにさえたどり着いてしまえば、この灼熱地獄からから解放される。その一心だけを胸にイワンは重たい足を精一杯動かして、一歩、また一歩と歩みを進めた。あと少し、あと少し、と何度も同じ言葉を唱えてひたすらに前へ。 「折紙くん」 不意に声が、聞こえた。まともに音を拾おうとしない役立たずの耳に、しかしその声だけはやけに耳について聞こえた。凛々しくて、力強く真っ直ぐな音をした聞き覚えのある声。 「偶然だね、君も今からトレーニングかい?」 いったい誰の声だっただろうか。思い出せなかった。でも多分、知り合いであることには違いないのだろう。だったら、返事を返さなければ失礼だ。イワンは俯き気味だった顔を上げる。その拍子だった。 「ぁ、れ……、」 突然、視界が揺れた、ような気が、した。ぐるりと回る世界。まさか、ここまですぐそこに限界が来ているとは気が付かなかった。自覚しても、もう遅い。一瞬映った空が、ひどく濃い青色をしていた。 「折紙くん……っ!?」 声が、聞こえた。さっきと同じ声。誰の声だったか、やっぱり思い出せない。 (あぁ、でも、そう言えば……、) 彼も、こんな声をしていた。わからない声の主の代わりに、ふと思い出す。全然どうでもいい、けれど、とても大切な思い出のひとつ。確かあの夏の日も、こんな風に日差しが強かった。 『イワン!』 彼は、エドワードは、大きな声で名前を呼ぶ。いつもそうだった。どんなに離れていても鼓膜の奥のそのまたさらに奥の方までしっかりと届くような、自信と力強さにあふれたそんな声で名前を呼ぶ。そのたびに、いくつかの目が何事かと眼差しを向けてくるから、止めてほしいな、と呼ばれる度に思っている。 決して、名前を呼ばれることが嫌なわけじゃない。それでも、向けられる無数の視線に、どうしても羞恥心が募ってしまう。そんな大声で呼ばなくても聞こえてるってば。それはもぅお約束と化してしまった返事。けれど、今はとてもじゃないがいつもと同じ言葉を返すことはできそうになかった。 座っているというのに眩暈が酷く、くらくらと頭が揺れていた。強烈な日光に視界が白んで、じくじくと微かに痛い。涙腺から涙がじわりと滲んでさらに視界が悪くなった。瞬きをする。俯いていたから、涙のかたまりは真下に落ちて地面に黒い滲みを作った。続いて、二つ、三つと滲みは増える。だが今度のそれは涙ではなく、こめかみを伝う汗が落ちたものだった。 『イワン!』 声が近づいて、足元に影ができる。やけに重たい頭を持ち上げると、そこには太陽を背にエドワードが立っていた。眩しさに、思わず目を細める。曖昧にしか見えない視界。それでも、イワンはじっとエドワードを見上げた。 『なにしてんだよ、イワン!』 『な、にって……、』 きみを待ってたに決まってるじゃないか。そう言うとエドワードは馬鹿ちげぇよ!と怒鳴った。何をそんなに怒っているのか、イワンにはいまいちよくわからない。どうしたの?どうして怒ってるの?首をかしげると、エドワードは目尻をきつく吊り上げた。何か口にしかけて、かと思えば、現われたばかりだと言うのにいきなり踵を返して走り出す。ざっ、と足元でわずかに砂埃が舞って少し煙い。 『…………、』 どこいくの、と言葉にしたつもりの声は小さく、彼に届くことはなかった。またしてもぼんやりと滲みはじめた視界の真ん中、遠ざかっていく背中が映る。エドワードは足が速い。だから、その姿はあっという間にどこかへ消えてしまった。 追いかけた方が良いのだろうか。そう思ったが、身体はその場を動こうとはしなかった。滲んだ汗がまたしてもこめかみを伝う。じっと前を向いているつもりで、しかし、いつの間にか視界には自身の足もとが映っている。焦点がどんどんとぼやけていく。思考にまで靄がかかって、もう何をするにしても億劫だった。 (……せっかく、待っていたのに、) どうして怒鳴ったの。どうしてどっか行っちゃうの。 答えの返らない一方的な問答を繰り返しながら、大きく息を吐く。瞬きを繰り返しても視界は不鮮明なまま、太陽の光がやけに目に痛くて、そのまま目を閉じた。周りの音がとても遠い。まるで世界にたった一人きりになってしまったような心地で、イワンはぽつりと小さく呟く。 『エドワード、の……ばーか……』 『だれがっ、馬鹿だ、だれが、』 声と同時に、ひやりとしたの感触が頬に触れて肩が跳ねた。慌てて顔を上げようとして、ずきりと頭が痛んで眉間に皺が寄る。ひどい仏頂面のまま、それでも顔を上げると、そこには自分以上に仏頂面をしたエドワードが息を切らして立っていた。たったいま買ってきたのだろう。見上げる彼の片手には水滴の滴るペットボトルが握られていた。 ほら、と差し出されて反射的にペットボトルを手にする。ただ、渡された意図がわからず、エドワードからペットボトルへ、ペットボトルからエドワードへと意味もなく視線が行き来を繰り返す。すると目があった4度目に、はぁ、と大きくため息をつかれた。 『貸せよ』 『ぇ、あ、……』 返事を返すよりも早く、イワンの手元からペットボトルは奪われる。何をするのかと見つめれば、エドワードは何てことはなく、ぱきっ、と音を立ててペットボトルの蓋を開けた。そうしてそのふたの開けたペットボトルを差し出され、イワンはまたしても反射的にそれを手に取った。 『飲め』 『あ、うん……、うん?』 『だから飲めって』 強く言われて、イワンは言われるがままにペットボトルに口をつけた。十分に冷えたスポーツドリンクを一口、静かに飲み込むとひやりとした爽快の良い冷たさが喉元を通り抜けていく。そこでイワンは自身の喉が酷く乾いていたことに気が付いた。二口三口とさらに流し込んで、それでも、全てを飲みきることはできなくて、まだ中身を半分ほど残した状態でふっと息をつく。少しではあったが、気分が楽になった。 力の籠らない手で、何とかふたを閉めるとペットボトルが奪われる。あ、と行方を追うとそれは再びエドワードの片手に収められていた。もしかして、飲めと言ったのは一口だけ分けてやると言う意味だったのだろうか。イワンは少し焦った。 謝ったほうが良いのかな、でも飲めって言ったのはエドワードだし。おろおろと迷っていると、その間にエドワードが背中を向けた。また置いて行かれる。反射的にそう思ったが今度は違った。背中を向けたまましゃがみこんでエドワードは、イワン、と名前を呼ぶ。 『、さっさと乗れよ』 どうせまともに歩けりゃしないんだろ。無愛想でそっけない言い草。だが、その声に怒気は含まれていなかった。 『まったく、馬鹿はおまえだろ、』 やっぱり無愛想でそっけない言い草。けれど、その足取りはゆっくりと慎重で、緩やかに上下する振動が心地よかった。おんぶなんて何年振りだろうか。最後にしてもらった記憶すら怪しいが、不思議と懐かしいような感覚がした。 『こんな炎天下の日向でぼけっとする奴がいるかよ』 お前自覚してねぇだろうけど、すげぇ顔赤いぜ。そう言ってからエドワードはよっ、と小さく掛け声を上げながら背負ったイワンの身体を抱え直す。その拍子に汗で濡れた頬に赤毛の髪がいくつか張り付いてくるが、不快感はない。いくらか大きいとはいえ、自分と同じまだ成長途中の中途半端な背中。だというのに、そこには妙な安心感だけが存在する。 力の入りきらない腕で、ぎゅっ、と首元に抱きついてみる。自身だって暑くて仕方がないだろうに、エドワードは何の文句を言うこともない。ただ、もっと水分を取れだとか、待つならせめて日陰で待ってろだとか、そんな母親じみた小言ばかり。イワンは思わず、ふふっ、と声を漏らして笑った。その拍子に吐息が触れたのか、瞬間エドワードの肩がぴくりと揺れる。 『、……んだよ』 『……なんでもない、』 『はぁ?気になんだろ』 『だから、なんでもないってば』 肩に頭を預けて、そっと目を瞑る。おいイワン、と何度か名前を呼ばれたが無視していると、しょうがねぇなぁ、と最後に一言、静かになった。歩む足取りは揺るがないまま。相変わらず頭はがんがん痛いし、眩暈は止まらなかった。けれどその瞬間、イワンは確かに満たされていた。 ついさきほどまでたった一人でいた感覚など微塵も思い出せないほどの幸福にも似た何か。永遠というものがこの世に存在するならば、今がそうであればいい。そんな風にイワンは思った。共に願う夢に向かって、時には競い合って、時にはおいて行かれて、時には背負われて、でも最後には隣に並んで一緒に歩み続けられたらいい。そんな風に思った。 そんな風に思って、いた。 「………―ー……、」 自分の声で目が覚めた。ぼんやりと重たい瞼を持ち上げると、緩やかなスピードで景色が流れていくのか滲んだ視界に見える。それともう一つ、眩しい金色をした髪が視界の隅に見えた。頬には髪がぺたり、張り付く感触。それだけじゃない。緩やかな振動に温かな体温。 ひどく懐かしい感覚がした。まるで、まるであの夏のあの日に帰ったような錯覚。だが、そんなわけがないのだとイワンはしっかりと理解していた。浮遊する意識でも関係ない。かつての親友の背中と、誰かの背中を間違えるなんて、そんなことはありはしない。 「起きたのかい……?」 優しい声が聞こえた。小さな子供をあやすような、そんな声。その声にイワンははっとする。どうして今の今まで気が付かなかったんだろうか。この背中が彼のものではないのなら、つまりは違う誰かが役立たずなこの身体を支えていてくれるということだ。 イワンは慌てて顔を上げる。だが次の瞬間、くらりと頭が揺れて結局は、固い肩に額を預ける形へと逆戻りする。 「いいよ、まだ寝ていても」 「…ぁ、……」 咽喉がからからに乾いて仕方がなかった。何か言葉を返さなくては。そう思うのに、口からこぼれるのは情けないうめき声に似た小さな声ばかり。冷や汗に似た汗がぽたりと落ちて、青いジャケットに暗い染みをつくる。どうしよう、どうしたら、どうすればいい。わからなかった。 「ごめ……、な……ぃ」 「だいじょうぶ、うん、だいじょうぶだよ」 苦し紛れに口にした謝罪に、優しい声はひたすらに優しいまま。なにが大丈夫なのか、あまりよくわからない。ただ、そよぐ風のように穏やかなその声に、今度こそ返せる言葉が見つからなくて口を噤む。彼の背中に少し似ている、大きな背中。心地良いのに心地悪い。不思議な心地だった。 じわり、と涙がにじむ。結局はどうしようもなくて、ごめんなさい、ともう一度呟いて目を瞑った。こんなんだから、駄目なんだ。わかってる。でも、本当にどうしようもないんだ。あの日から、イワンの想いは立ち止まったままでいる。あの日からずっとずっと。 じりじりと耳の後ろでまたあの音が聞こえる。青空の天辺では太陽がさんさんと輝く。暑くて熱くて仕方ない。そんなにも熱く燃えているのなら、いっそのことこの身体もこの意識も全て跡形もなく燃やし尽くしてくれればいいのに、太陽は中途半端に瞼を赤く焦がすばかり。だからやっぱり、夏はあまり、好き、じゃない。 |
寝ても覚めても夢を見るんだ |