ごとり、と重たい音を立てて弟の頭が床に転げる。一拍遅れて、今度は身体のほうがばたりと倒れた。じわじわと赤い血の湖が広がる。見慣れた色だ。これくらいで今更取り乱したりするはずは、ない。とは言え、大戦が開始してもいないのにこのような事態になるとは思っていなかったのは確かなことで、早速の不利に舌打ちを一つ零して、あーぁ、と吐き零す。それは動揺を悟られないための演技でもあり、同時に心の底からの苛立ちでもあった。 馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさか本当にここまで自分の弟が馬鹿だとは思わなかった。散々気を付けろと言ったのにこいつはなにを早々に首ちょんぱされているのか。あからさまに怪しいやつを前に目を逸らすな。そんなの基本中の基本だろうにまったく。あぁ、でも今更ぐだぐだ言っても仕方がない。言ったところで聞こえはない。いや、聞こえたところでやっぱり無駄なことだろう。なんせ我が愚弟は昔っから大の馬鹿野郎だったのだから。 退屈は死に至る病である。 そう言っていたのは誰だっただろうか。覚えてもいないし、べつにわざわざ思い出す気もしないが、まさに真理であると思わざるを得ない。それくらい暇で暇で仕方がなかった。こんな時に限って戦士としての依頼はゼロで、タイミングが悪いったらありゃしない。 それならば、いっちょ派手に遊びにでも行こうかと思ったのだが「あ、今日俺忙しいから」という弟の一言でそれも無くなった。なんでも、あいつが飼っている爬虫類どものゲージを掃除してやるらしい。爬虫類の飼育だけでは飽き足らずそれ関係のブログすら書いている弟は、普段のいいかげんっぷりが嘘なのではないかと感じてしまいそうなほどには真面目にそいつらの世話をしている。きっと唯一の兄がどれだけ暇に苦しんでいても「爬虫類どものゲージの掃除をする」という予定を変えてくれることはないだろう。 そんな弟の性格をよく知っていたから、兄は大人しくテレビでも眺めることにしたのだ。一人でどんぱち暴れても楽しくない。だったらわざわざ出かける気になどなれない。しかし、じゃあテレビを見ていて楽しいのかと言ったらそんなはずはなく、あまりの退屈さに脳細胞がぷつぷつとものすごいスピードで死んでいっているような気がした。 つまらない、つまらない。あぁ、くそ、まじで最高につまらない。退屈だ。暇だ。なんか面白いことねぇかなぁ。そんなことを考えながら時間が過ぎていくのを無為に待つ。そのまま、どれほどの時間が過ぎただろう。時計をちらりと見れば、時計は午前と午後の間を指している。たいして腹は空いてないが、暇つぶしに昼飯でも食うか。そんなことを思った、その瞬間だった。 ふいに、――ばたん、と音がなった。 なにかが倒れるような音。その音は、弟の部屋のほうから聞こえてきたものだった。掃除中になにか落としでもしたのか。適当な奴だから、想像は容易く気にかけるほどの音じゃなかった。でも、なぜだろうか。どうでもいいものであるはずのその音が、やけに気になって仕方がなかった。本当にたいした音じゃない。でも、気になった。 耳に届いたのは、ばたん、となにかを落としたような音だけで、弟の声が聞こえてきたわけではない。それなのに、なぜか、行かなければいけない、という強い焦燥にかられて寝そべっていたソファから急いで立ち上がった。あとから思い返してみればもしかしたらそれは双子ゆえの直感というやつなのかもしれない。 家の廊下を早足で駆ける。もしかして。いやいやそんなはずがない。でももしかしたら。ぐるぐると頭の中で思考をから回った。ほんの少しの距離をもどかしく感じながら、ようやくたどり着いた弟の部屋の扉をノックもなしに開け放つ。果たしてそこには力なく床に伏している弟の姿があった。 「っおい!!」 思わずあげた声は動揺を多分に含んでしまっていた。声に反応して、弟が目だけでこちらを見た。はくり、と唇が動くが声は音になってはおらず、倒れ伏したまま起き上がる気配はない。いったいなにがあったというのか。訳が分からないまま駆け寄って、倒れた身体を抱き起してやる。腕の中、弟の身体は硬く固まり、震えていた。明らかに、尋常ではない。 「おいこら、なにがあった……ッ」 「っ、ぁい、……ぇ、た」 「あぁ?」 弟の声はちいさく、途切れ途切れでひどく聞こえづらかった。 なにがあった。もう一度訊ねると弟はふるふると震える指で部屋の一角を指す。指先を追えば、一匹の蛇がいた。暗褐色の細長い蛇。ゲージには入れられておらず、部屋の隅っこでちろちろと舌を出している。その蛇を指さして、再度弟はちいさな声で言った。恐るべきこと。聞き間違えでなければ弟は「あいつに噛まれた」と言ったのだった。 「〜〜っ、馬鹿かお前は! ペットに噛まれる奴があるか!!」 信じられずに怒鳴れば、弟はへらへらと口端を緩める。 笑ってる場合か! 馬鹿な頭をど突きたかったが、ぐっ、と我慢した。そんな場合ではない。蛇に噛まれてこのありさまということは、あの蛇は確実に毒蛇なのだろう。弟とは違って蛇のことなんか全然詳しくないが、毒蛇に噛まれたらどうなるか、なんてそんなの想像に容易い。 「くそっ、救急車で間に合うのかよ……ちッ」 急いで電話を掛けようとして、携帯電話をリビングに置いてきたことに気がついた。あぁもう!! 乱暴に吐き捨ててから、ちょっと待ってろ、と弟に声をかける。そのまま、いますぐ取ってくるから、と続け弟をいったん床に横たわらせようとして、ふと気がつく。弟の指が、くいくい、と服の裾を引っ張っていることに。 まるで、なにかを訴えるような仕草だった。なんだよっ、と乱暴に訊ねてやれば弟の視線が逸れて、なにかを見た。今度はその視線を追う。そこにはテーブルがあった。弟がブログを書くためのパソコンが置かれたテーブル。 「……、っ………」 そのテーブルを見つめて弟は唇を動かす。指さす力もなく、もうほとんど声も出ていなかった。だが、弟がなにを言いたいのか、なにを伝えようとしているのか、兄はそれを正確に理解した。当たり前だ。だって、俺様はこの馬鹿な弟の兄貴なのだ。この世界で唯一無二の兄弟。声がなくとも、わかるに決まっている。 『テーブルサイドの引き出し、上から2番目、1-Tの箱』 理解した瞬間、すぐさまテーブルサイドに飛びついた。伝えられたまま、上から2番目の引き出しを開けるとそこにはいくつもの箱があった。箱には一つ一つラベルが貼られ、記号が書かれている。1-T。あった。言われた箱を開けると液体の入った注射器が一本。飼っている毒蛇に噛まれる大馬鹿な弟だが、最悪に見越した備えをするだけの知能はあったようだ。 注射器を手に取り、急いで弟の元に戻る。手が無様に震えそうになるのを根性で制して、針を弟の腕に刺す。痛いだって? んなこと知るかよ。こんくらい我慢しやがれ馬鹿野郎が。全部お前の自業自得だ馬鹿弟。 「おい、これでいいのか。あとはなんかあんのかッ?」 「っは、ぁ……、ッぅ」 「くそっ、ならいい。おとなしくしてろ」 そう言ってやれば弟は言われるがまま、おとなしく目を閉じた。血の気の失せた顔に一瞬、ひやっとするが、かき抱いた身体から伝わってくる体温になんとか無理やりため息を下げる。そのまま、だんだんと弟の呼吸が落ち着き、強張った身体の硬さが解けていくのをそわそわとした思いで見守った。 差し出した弟の腕にそろそろと蛇が巻き付く。ぞっとする光景を、しかし黙って見つめる。弟は蛇の頭を人差し指でくすぐるように撫でると、そっと静かに蛇をゲージへと閉まった。かちり、としっかりと鍵をかけ、ふぅ、と一息。ようやくこちらをふり返った弟は、にへら、と笑った。 「あ〜、まじ死ぬかと思った。兄貴がいてくれてほんと助かったぜ」 「助かったぜ、じゃねぇだろまったく」 能天気極まりない弟の言葉に思わずため息がこぼれた。この野郎。倒れ伏している弟を見つけた瞬間、この俺様がどれだけ驚いたと思っているのか。 「十二大戦もはじまってねぇのに死にかけてんじゃねぇ馬鹿が」 「わりぃわりぃ」 「ったく……、わかったらそいつさっさと処分しちまえよ」 二度とこんなことは御免だ。そんな思いでそう言ってやったのだが、弟は「馬鹿言うなよ兄貴」と反論してくる。お前にだけは馬鹿と言われたくない。ペットの蛇に噛まれているお前なんかにはな! また噛まれたらどうするんだ。今回はたまたま俺様がいて、たまたま気がついてやったからなんとかなったが、次回も大丈夫という保証はどこにもない。 「今回はちょっと俺がこいつのこと驚かせちまって噛まれただけだっての。こいつは本来大人しいやつだから大丈夫」 「全然、大丈夫じゃねぇだろそれ」 「へーきへーき」 人がせっかく心配していってやっているというのに、弟はへらへらと軽い調子のまま「ブログに今回のこと書こうっと」なんて言っている。九死に一生の出来事も弟の中ではいいブログのネタでしかないようだ。はぁ、と何度目かになるため息がこぼれる。 「ため息つくなよ兄貴、ちゃんと反省してるって」 「どーだか」 「ほんとだって。今回はまじで苦しくてさすがの俺も死を意識したぜ」 「だったらなおさら気をつけろ」 「へーい」 弟は頷く。だが、どこまで理解しているかは分かったものじゃない。けれど、これ以上しつこく言ったところで馬の耳に念仏だろう。弟のことはよくわかっている。仕方なく、これ以上の小言は諦めて、腕を出すように告げた。噛まれた個所と、注射を打った個所に処置をしなければいけない。 「なぁ、兄貴」 「なんだよ」 その処置をしている途中、弟は唐突に言い出した。 「俺のこと殺すときは苦しくないように頼むぜ。痛いのも勘弁な」 「あぁ……?」 なにを言っているのか。 目尻を鋭くして弟を見るが、弟は包帯の巻かれる自身の腕を見ていた。なんでもない、それこそ買い物行くならついでにあれ買っといて、と頼むくらい軽いノリで、頼んだからな兄貴、なんて言う。だってまじで苦しかったんだ、死ぬにしてもあんな死に方は勘弁だな、と。今まで数え切れないほどの人間を殺してきてよく言う、とは、思わない。人のことは言えない。 「……そういうお前こそ、俺様を殺すときは丸焼きなんて手抜きすんじゃねぇぞ」 少しの間をおいて言葉を返せば、そんな間など気にもせずに弟は、おう、任せときな、と笑う。きっと、自分が言ったことの意味も、兄が返した言葉の意味も深く考えていないに違いない。なんせ、弟は馬鹿なのだ。今この瞬間、お前の兄貴様が一体どんな気持ちでお前に包帯を巻いてやっているのか、まったくわかっていないことだろう。本当に仕方のないやつだった。 けっきょく、弟は最後の最期まで馬鹿な弟だった。 ごとり、と重たい音を立てて弟の頭が床に転がる。一拍遅れて、今度は身体のほうがばたりと倒れた。床に倒れ伏した弟の身体はあの日の光景を思い出させた。痛いのは嫌だと言っていた。苦しいのは嫌だと言っていた。その声を、馬鹿みたいにへらへらと笑っていた笑みをよく覚えている。 大戦がはじまるよりも早く死んでしまった最高に間抜けで馬鹿な弟。悲しみ、苛立ち、呆れ、驚き。様々な感情がぐるぐると胸に渦巻く。でも、そんなものはどれもこれもどうでもいいものでしかなかった。そんな感情たちなんかより、ひと際強く胸に生まれた思いがあった。 (痛く、なかっただろうか) ほんの一瞬で死んでしまった弟に思う。一瞬で死んだ、そのほんの一瞬の間に、少しでも痛みを感じなかっただろうか。苦しみを覚えなかっただろうか。恐怖に震えなかっただろうか。弟の死を目の前に、悲しみだとか怒りだとかの前にそんなことばかりが気になった。 (俺様が殺してやるはずだったのに) (痛みも苦しみも、ほんの少しの恐怖もなく、この俺様が殺してやるはずだったのに) (だって、あいつは痛いのも苦しいのも嫌だと言っていた) (だから、俺様が殺してやるはずだったのに) 丁寧に、優しく、慎重に殺してやるはずだったのに、馬鹿な弟は油断して兄貴のこの俺様にではなく、全くの赤の他人に殺されてしまった。本当に、馬鹿としか言いようがない。馬鹿も馬鹿。世界で一番の馬鹿。あぁ、くそ、ちくしょうが。わかってんのか馬鹿野郎。お前のせいで俺様の世界が一気に退屈なもんに変わっちまった。退屈すぎて今すぐにでも死んでしまいそうなほどに。あぁもう本当に、どうしてくれるんだ大馬鹿野郎め。 |
死に至る病 |