ぽん、と硬い手のひらで右肩を叩かれた瞬間、あ、と思った。すぐさま横目で兄の様子をうかがう。そうすれば案の定、兄の目元がぴくりと揺れていた。ぱっとみはただの無表情だ。だが、そんな兄の変化を弟は機敏に感じ取った。なんせ双子だ。深いことを考えるのは苦手な自分だが、生まれた時からずっと一緒にいる兄の変化に気がつけないほど馬鹿ではない。
 だが、赤の他人である人間がその兄の変化に気がつけるはずはなく、依頼主である男は何もわかっていない様子で「それじゃあ、よろしく頼んだよ」と上機嫌に弟の肩をさらにぽんぽんと叩いた。そのたびに、ぴく、ぴく、と兄の目元が神経質に引き攣る。あ〜ぁ、と思うが、だからと言って依頼主の手をあからさまに振り払うわけにはいかない。
 まぁ、依頼は承諾することで纏まったのだから、これ以上話すこともないだろうし、すぐにこの場はいったん解散になるだろう。そう思った弟は、へらり、と適当に愛想笑いを浮かべた。しかし予想に反して依頼主は「あぁ、そうそう」となにやら新たな話を進めはじめる。
「そう言えば巳の戦士どのは爬虫類がお好きとお聞きした。いや、実はね、私も結構な爬虫類好きでしてね、珍しい蛇や蜥蜴も何匹か飼っているんですよ」
 依頼主のその言葉に弟は横の兄の機嫌も忘れて、えっ、と思わず喜色の声を上げてしまった。依頼主は断罪兄弟の二人に向かって話しかけていたが、その反応でどちらが爬虫類好きの巳の戦士かわかったのだろう。今度は弟のほうへ明確に目を合わせながら言った。
「もし興味があるようでしたら、私の蛇たちを見てみますか?」
「まじで……!」
 正直、めちゃくちゃ興味があった。珍しい蛇や蜥蜴。見たい。すごく見たい。気持ちは完全に見せてもらう方向で固まっていた。だって見たいじゃん! 見せてくれるって言うならそりゃ見せてもらいたいに決まっている。
 弟は一歩前に歩み出た。今すぐにでもぜひ見せてくれ。そう意気揚々と答えようとして、だがしかし、その答えが声となって依頼主に届く前に横から、わりぃけど、と兄が口を挟んできた。
「俺様たちはこれから作戦会議と行きたいんでね」
「おやそうかい? だが少しの時間ぐらいはあるだろう?」
「そりゃあ、あると言えばあるだろうよ。けど、あんたの依頼を確実にこなすための話し合いだ。中途半端な結果は嫌だろ?」
 兄の言葉に依頼主は、ふむ、と頷いた。任務と同志との語り合い。その二つを天秤にかけて、けっきょく前者を取ったようだ。依頼主は「君たちの戦士としての活躍、大いに期待している」と最後に言い残すとそれ以上食い下がるようなことはせず、断罪兄弟を解放した。
 お付きの者たちを従えて依頼主が去っていく。その姿が完全に見えなくなる前に兄は踵を返した。行くぞ、剛保。一言、そう言って歩き出す。呼ばれた弟は、あ〜ぁ珍しい爬虫類見たかったなぁ、と少しの未練を抱きながらも、おとなしく兄に続いた。


 依頼主より用意された部屋はホテル上階のスイートルームだ。景色を一望できる大きな硝子の窓に弟は思わず、おぉ! と感服の声を上げた。自宅のベランダから見るよりもずっとずっと高い。それこそ、兄に手を引かれて空を飛んだ時のように高い。地を歩く人間たちの足音も心なしかいつもより遠く感じた。さすが、俺らを雇うだけはある。そのままのテンションで寝室を見てみれば大きなベッドが二つ並んでいた。
「うはっ、すげぇでかっ」
 家のベッドの三倍はあろうかというくらいの大きさ。真っ白なシーツに覆われたベッドは見るからに柔らかそうで、うずうずとひどく心を揺さぶった。めっちゃ飛び込んでみたい! 欲望のままにベッドへ足を進める。だが、あと一歩というところで、剛保、と静かに名を呼ばれた。
「さっさと風呂入れ」
「えぇ〜、もうかよ」
「剛保」
 続けざまに名を呼ばれて、へぇへぇ、と頷いた。ここで無駄に反抗したら面倒なことになる。それがわかっていたから、めんどくさいお兄ちゃんだぜまったく、と内心ぼやきながらも、聞き分けのいい弟を演じてさっさと風呂場に向かった。
 まぁ、そんな風に渋々シャワーを浴びたわけだが、お高いホテルはバスルームまで広々ピカピカとしていて、入ってしまえばなんだかんだ気持ちがよくて悪くなかった。出るころにはむしろさっぱり身ぎれいになって気分が良くなったくらいだ。我ながら単純すぎる。けど、人生楽しんだもん勝ちだ。単純だろうとなんだろうと、気分が良くなったのだからそれでよしである。
 わしゃわしゃと濡れた髪を乱雑に拭きながら、あがったぜー、と報告すれば兄は入れ替わるようにして風呂へと向かった。その途中、ちゃんと髪の毛乾かせよ、とお小言も忘れない。こんな短い髪、拭くまでもなく勝手に乾くっての。兄が寝室を出ていくのをしっかりと確認してから、ようやく柔らかそうなベッドにその身を飛び込ませた。
 見た目の期待通り、ベッドは優しく柔らかい感触で身体を受け止めてくれた。ずぶずぶと全身が沈み込むような感覚が気持ちいい。風呂上がりで温まった肌に触れるシーツのひやりとした感触が気持ちいい。気を抜けば、あっという間に意識を持っていかれそうになった。
 先に寝たら兄貴は怒るかな。そう思って、起きようか寝ようか少し迷う。だが、そのどちらかをはっきりと選択しないまま、瞼が下りてしまった。一度下ろしてしまった瞼はやけに重く、けっきょく弟は誘われるがままに意識を手放した。すまん兄貴。でも、仕方ないよなうん。

 って、まぁ、すぐに起こされることはわかっていたんだけどな。
 頬を撫でる感触に沈んでいた意識がじわじわと浮上する。温かい手のひらの感触だ。誰の手のひらか、なんてのはわざわざ考えるまでもなくわかる。だから、急いで起きる必要はなく、弟はゆっくりゆっくりとあくまでマイペースに意識を引き上げた。
 その間も温かい手のひらが頬を撫でる。かと思えば、手のひらはするすると下がって首筋を撫で、鎖骨を撫で、そうして横に滑って肩を撫でてきた。そのまま肩と首筋を往復するようにするすると撫でられ続ける。こそばゆいような、気持ちいいような、なんとも言えない感触。
 ようやく瞼を持ち上げ目を開ける。眩しさにぱちぱちといつもより大目に瞬きをくり返しながらも弟は、シーツに沈む自分をまるで押し倒すようにしで覆いかぶさってくる兄を見上げた。目が合えば、兄はようやく起きたかと言わんばかりに目を細めた。ぎらり、と目の端が鋭く光って見えたのは幻覚だろうか。捕食者によく似た目だと思う。じゃあ、その目に見下ろされている俺が被食者か? あながち間違っていないから少し笑える。
 肩を撫でていた手が離れる。その手と入れ替えるようにして兄は弟の方へ顔を近づけた。兄の唇が肌に触れ、ちぅ、とちいさなキスが一つ寄こされる。そして次の瞬間には、がぶり、と噛みつかれた。痛くはない。ただの甘噛みだ。尖った八重歯が少し肌に食い込む程度。だが、それははじめだけだ。
 しばらくの間、兄はぐにぐにと肌の弾力を楽しむように甘噛みを続けていた。やがて甘噛みに満足したのか、それとも飽きたのか、はたまた物足りなくなったのか、兄はふいに噛みつく力を、ぐっ、と増やして、八重歯を肌に突き刺してきた。びりっ、と電流が流れるようにして走った痛みに、は、と息を飲む。反射的に声を押し殺す。そうすればその声を押し殺してしまった喉を指先でとんとんと叩かれた。それは何を意味するのか。弟はわかっていた。
「ぅ、ぁ……っ」
 わかっていたから、再び、びりっ、と突き刺さってくる痛みに今度は素直に声を口にした。すると震えた喉を今度は撫でられた。よくできました、と言わんばかりの仕草。よくわかんねぇなぁと思う。兄は弟が声を押し殺すことを嫌っていた。我慢するな。すべて聞かせろ。そう兄は言う。こんなうめき声のなにが聞きたいのか。弟はわからない。
 いや、それを言ってしまえば、そもそもこの行為自体よくわからない。兄曰く、これは消毒であるのだという。異物が触れてしまったから綺麗にしているのだという。やっぱりよくわからない。弟は思う。異物とは弟の肩を叩いた依頼主の手であることはわかっている。だが、あの男の手は確かに自分の肩を叩きはしたが、直接肌に触れたわけではない。弟はちゃんと服を着ていた。仮に男の手が汚れていたとしても、服さえ着替えてしまえばそれでいい。
 しかし、それでは兄は良しとしない。風呂で身体を綺麗にし、服も新しいものに変え、そして触れられた部分を兄の存在で感触を上書きさせなければ気が済まないのだ。俺たちの間に異物が入り込んではならない。そんな兄の主張が弟にはわかるようでわからない。わからないようでわかる。
 自分たちの兄弟の間に異物が侵入する。それは弟にとっても顔をしかめてしまいたくなるほどに嫌悪を感じるものだ。俺たちの世界に俺たち以外は必要ない。その点において兄と弟、二人の考えに差異はない。兄には弟、弟には兄。それは何があっても揺るぐことのないこの世の真理である。しかし、だからこそ弟はわからない。
(俺たちの間に異物が入り込むような余地なんてないのに)
 なにをそんなに怒る必要があるんだろうか。どこかの誰かが自分たちの間に入り込もうとしても、それは不可能なことだ。だったら別に何も気にする必要なんてない。そんな奴らは根こそぎ無視してしまえばいい。むしろ、馬鹿だなぁと嗤ってやればいいのに。けれど、兄は駄目だという。異物が入り込むことはもちろん、異物が入り込もうとすることすらあってはならないのだという。うぅむ、俺のお兄ちゃんは神経質だなぁ。

「あぃッ、てぇ……ッ」
 なぁんてつらつらと考えていたら、ひと際大きな痛みが襲ってきて、意識しなくとも悲鳴じみた声が出た。血が出たんじゃないか、というくらいの痛み。さすがに痛くて、いてぇよ兄貴! と文句を言えば、顔を上げた兄はやけに不機嫌な表情をしていた。我が双子の兄ながら、凶悪な表情だ。
「なに、考えてた」
 兄が端的に言う。低い声だ。弟と比べて普段から低い声をしている兄は、不機嫌になるとますます低い声になる。びりびりと耳の奥を揺らすような声。まったく、なにを不機嫌になっているのだろう。よくわからないまま、弟は思ったままを兄に倣って端的に答えた。
「兄貴のこと」
 そうしたら不機嫌だった兄は、はっ、と笑った。不機嫌な表情があっという間に機嫌のいいものへと変わる。今の返答のどこに笑う要素があったのだろう。弟は不思議に思ったが、しかし、深くは考えなかった。だって、兄は笑っているのだ。上機嫌に。ならば、まぁそれでいい。
 双子であるからと言ってなにもかも同じなわけでも、なにもかも理解しあえるわけではない。兄がなにを考えているかなんて、手に取るようにわかるのと同じくらい、さっぱり意味不明で不思議だったりする。それは多分、兄も同じことだろうと思う。
 でも、別にそれは構わないことだ。兄が兄であるならそれでいい。理解できない部分があっても兄は兄だ。そして兄にとっても弟は弟だ。だから兄は弟の爬虫類好きをよくわからねぇ趣味だと首をかしげながらも許容する。それと同じように弟も、たかが服越しに誰かが弟に触れてきたことぐらいで怒る兄をよくわかんねぇなと思いながらも許容し、意味の分からない消毒を従順に受け入れる。兄が兄だから。



 兄の指先に熱がこもる。意味ありげにわき腹あたりをするりと撫でられて反射的に身体が震えた。ふ、と兄が笑う。もうすっかりと機嫌は治ったようだ。ただ、身体を撫でる兄の手は一向に引っ込む気配はない。だから、弟は訊ねた。
「すんの?」
 兄は答えた。
「いやか?」
 訊ね返されて弟は首を横に振った。嫌なわけがない。だって、相手は兄なのだから。訊ねた兄も弟が首を横に振ることをしっかりわかっていたのだろう。弟の反応に、だよな、と当たり前のように頷いて、さらにするするといたずらに肌を撫でてきた。その感触にまたしても身体を跳ねさせながら弟はもう一つ訊ねた。
「ん……、なぁ、兄貴」
「なんだ」
「明日は、あいつの言ってた珍しい爬虫類、見に行っていいよな?」
「…………」
 ぐ、と一瞬、兄の動きが止まる。どうしたのかと思っていると、兄はやけにぼそぼそとした口調で「……行ってもいいが、俺様も行く」と言った。やった! 弟は素直に喜び、さらに「なんだ、兄貴も爬虫類に興味持ちはじめたのかっ?」と喜々とした気分のまま聞いた。すると兄は、はぁ、とため息を一つ零してから、弟の口を自身の口でふさいできた。んん? なんでいま兄はため息をついたのだろうか。やっぱり不思議だったが、絡まる熱い舌の感触に、まぁいいか、と弟はすぐに思考を放棄すると、まだ見ぬ爬虫類たちの存在を楽しみにしながら兄の手に身をゆだねたのだった
めくりあげた愛の皮膚