01 いつだって世界は硝子越しのように遠く曖昧だった。 ミンミン、と蝉の声が遠くから聞こえてくるのを耳にしながら、浮かれきった気配の数々をどこか冷めた感覚で横目に見やる。今学期の最終登校日である終業式の真っただ中、このすぐ後に待ち受ける長期休暇の気配に生徒たちは誰も彼もがはしゃいでいる。やれ俺は海に行くだの、やれ私は旅行に連れて行ってもらうのだの、休暇中の心得を説く校長の声なんてまるで耳に入っていない様子で、うるさくてかなわなかった。 別に、話をしっかり聞けだとか、そんな真面目なことを言うつもりはない。学生の特大イベントの一つとも言える夏休みのに喜ぶ気持ちも理解できないとも言わない。ただ、友人たちとともにはしゃぐその姿に共感を覚えることができないリヴァイには彼らのいつもよりどことなく甲高い話し声が、純粋に、そして単純に耳障りで仕方なかった。 けれど、だからと言って何をどうすることもできるわけはなく、早く終わらねぇかなぁ、とおそらく唯一彼らと一致するだろう言葉を頭にしつつ、相変わらず遠くから聞こえてくる蝉の鳴き声に適当に耳を傾ける以外にリヴァイに選択肢はなかった。我慢しようと思えば、我慢できない雑音ではない。 つまり結局は、どうでもいいのだ。 「リヴァイ!」 ようやく終わった終業式のあとだった。教室まで鞄を取り、早々に立ち去ろうとしたその背後から聞きなれた声に呼ばれ、リヴァイは足を止めた。近づいてくる足音。振り返ると、馴染みの同級生が小走りにやってくるところだった。 「なにか用か、」 「なにか用か、じゃないだろうが!」 馴染みの同級生こと“エレン”は不満をあらわにした表情で、まるでそうしていなければ逃げられてしまうとでも思っているのか、リヴァイの腕を掴んできた。対して力は込められていないが、わざわざ振りほどくまでもなかったのでリヴァイはおとなしく腕を掴まれたままエレンを見上げた。 「リヴァイ、お前また一人で先に帰ろうとしただろ」 またか。 エレンの言葉に思わずリヴァイは眉間にぎゅ、としわを寄せた。 「悪いか」 「悪、くはないけど、悪い…!」 「どっちだよ」 「どっちもだ!なんで先に帰っちゃうんだよ!」 「俺がいつ帰ろうと俺の勝手だろうが」 「けど俺は一緒に帰ろうっていつも言ってるだろ!」 だからなんだ、だ。 リヴァイにはなぜそこで“けど”となるのか理解できなかった。一緒に帰ろうとエレンがリヴァイを誘うのはエレンの自由だろう。けれど、そのエレンの言葉を受け入れるのも拒否するのも、それは己の勝手だ。そして拒否されたのならエレンは引き下がるべきなのだ。それなのにエレンは拒否なんて初めからありえない、あったとしてもそれは間違いなんだと言わんばかりに当然のごとくリヴァイが自分と一緒に帰ることを前提に話を進めようとする。 「俺、ちょっと先生に用事あるんだけど、すぐ済むからさ、」 そしたら一緒に帰ろうぜ、と先程までのふくれっ面はどこへやら、エレンはの顔に浮かぶのはにこにこと音がしてきそうな笑顔だ。何がそんなに楽しいのか、理解できない。理解できないが、リヴァイ自身は別に一緒に帰ること自体はかまわない。どうしても一人で帰りたいというわけじゃないし、エレンが嫌いということもない。 それならば、なぜ拒否するのか。 答えは単純だ。ただ単に待っているのがめんどくさい。 「俺は先に帰る」 だからリヴァイはエレンの申し出をばっさりと切り捨てると、つかまれたままの腕を振りほどきそのまま彼に背を向けた。 「え、」 「じゃあな」 「えっ、ちょ、ま、リヴァイ!!」 慌てすぎてまるで言葉になっていない声を無視して、止めていた歩みを再び進める。後ろ手に軽く手を振ってほんの少しのご愛嬌。 置き去られたエレンがなにかわーわーと何か大声で言っているのが聞こえたが気にしない。どうせ、リヴァイの意地悪だとか、リヴァイの薄情者だとか、そんな悪口にも満たない幼稚な小言に違いない。いつものことだ。 なぜなのかリヴァイにはあまり理解できないが、エレンはリヴァイによく懐いている。中学に入学したばかりの同じ教室で出会ったその日からやたらリヴァイリヴァイと絡んできた。馴れ馴れしいんだよ鬱陶しいとリヴァイがそっけない態度をとってもまるでめげようとしない。 そのあまりのしつこさに負けてぽつぽつと返事を返してやるようになれば、犬のようにますます懐かれた。朝に会えば真っ先に駆け寄ってきてはおはよう!と大声のが飛んでくるし、すべての授業が終わればなにかとすぐ一緒に帰りたがった。別に一緒に帰る約束をしたわけじゃないのに、何も告げずに学校を後にすると家に着くころには決まって不平不満が綴られたメールが一通届く。短文、長文とその内容は日によってさまざまだが、文末は決まって“明日は勝手に帰るなよ”だ。 それも無視し続けると、今度は電話がかかってくる。永遠に鳴り続けるのではないかと錯覚しかけるくらいにうるさい着信にしぶしぶ出てみれば、だからなんで帰っちゃうんだよ!と怒っているというよりは、小さな子供がぐずっているような声が聞こえてくる。そのあまりのしつこさにリヴァイが、なんで待ってなきゃならない、と返すとエレンは、と、友達なんだから待っててくれてもいいだろ、と少し言葉に詰まりながら言う。 何度も馬鹿みたいに繰り返したやり取り。そのやり取りをするたびにリヴァイは首をかしげる。友達。自分とエレンは友達なのだろうか。そんな風に疑問に思っては、確かに自分とエレンの関係は友達と呼べるべき範囲にある、と納得する。 同じ学校の同じクラスの同じ生徒で、休み時間には話をしたり、気が向けば昼を一緒にしたり、予定のない休日に誘われてどこかへ出かけるのに付き合ってやったりしたこともある。これを友達と呼ばずに何を友達と呼ぶのだろうか。わかってはいる。 しかし、それでもやっぱり、自分とエレンが友達だというその事実にリヴァイは首をかしげる。胸に浮かぶのは小さな違和感。石ころよりももっと小さな小さな、まるで靴の中に砂利が入り込んでしまったかのような、そんなとても些細な、けれど確実に感じる違和感。 そうじゃない、違うんだ、と誰かがささやく。 昔からそうだった。 これと言って明確に何というわけじゃない。けれど、確かに違う何か。それは何もエレンとの関係に限った話ではない。例えば、家族。 リヴァイには四人の家族がいる。兄が三人と、姉が一人。両親は物心つく前に事故で亡くなっているため、これと言ってまともな記憶にはない。だから、リヴァイにとっての家族とは四人の兄姉に他ならない。そろいもそろってブラコン揃いで、小さいころからリヴァイのそばには誰かしらの姿があった。 いつもは無口だがいざという時に頼りになる料理上手な一番上の兄。ヘビースモーカーのくせに煙草の煙にたった一度リヴァイが咳き込んだだけで煙草をやめた次兄。文武両道であるのにどこか間抜けでかっこつけしいな三兄。紅一点でありながら自分よりもリヴァイを着飾ることにやたら熱を上げる姉。 そんな個性が強い兄姉たちのおかげで、リヴァイは両親がいない事実を寂しいだとか悲しいだとか、そんなことを思ったことは一度もない。そんな兄姉たち四人が四人とも、リヴァイにとっては唯一無二のかけがえのない存在だった。 それなのに、だ。ふとした瞬間に訪れる違和感。 彼らに名前を呼ばれるその響きに、頭をなでられるその感触に、やはり首をかしげずにはいられない。家族が家族と思えず、友達が友達と思えない。誤解のないように言っておくならば、決して家族や友達に不満があるわけではない。 彼らのことは大切だ。自分をここまで不自由なく育ててくれている兄姉たちには感謝の念を感じるし、友達であるエレンのことだって嫌いじゃない。いや、明確な言葉にするには少し気恥ずかしいが、好いているといっても、きっと過言じゃないのだろう。 それでも、何かがリヴァイに告げる。そうじゃないのだと、しつこいくらいに。だが、何が一体違うのか、何が一体そうじゃないのか、リヴァイはずっとわからないままでいる。ずっと、ずっと。 思わず、ため息が漏れた。らしくないな、と思うが、それでもつかざるを得ない心境だった。憂鬱とした気分。延々と解決できない問題に、胸の奥は重たい。縋るようにして天を見上げれば、まるでリヴァイの心と連動しているかのように空は曇り模様の灰色に染まっていた。もう少しすればきっと雨が降ってくるだろう。 (早く帰ったほうがいい) (けど、) (帰りたくねぇ) リヴァイは今、傘を持っていない。それならば雨が降られる前にさっさと帰るべきなのだと、頭では分かっているのに歩む足は気分と合わせて重くなる一方だ。 (帰りたく、ない) リヴァイは自分がひどく滅入っているの自覚していた。ゆえに、帰りたくないと一層強く思う。リヴァイは滅入っている自分の姿を、過保護で心配性な兄姉たちには見せたくなかった。無用な心配をかけたくはないし、こんな時の兄姉らの反応は過剰気味で少し鬱陶しい気持ちが半分。そしてもう半分は、うまく言葉にできなかった。正確にいうなら、きっと自分自身でもよく理解していなかった。 本当に嫌になる。自分のことなのに、なんでこうも理解できないことばかりなのか。 「………、」 少し考えてから結局リヴァイは校門を出る際に、いつもは左に曲がるところを右へと曲がった。ぞろぞろと帰宅するほかの生徒たちを足早に追い越しながら、できるだけ人の少ないほうへ少ないほうへと歩みを進めた。 一回、二回、と角を曲がる。赤信号に一度足を止められてから、その先の角をもう一回曲がった。直線の道をしばらく歩く。バス停のそばを通り過ぎようとして、ちょうどやってきたバスにそのまま乗り込んだ。車内はぽつぽつと席が空いており、空調の聞いた空気が冷たかった。その空気の心地よさにほんの少しだけ表情を緩めながら、リヴァイは後ろから一歩手前の窓側の席に腰を下ろした。 少しの振動と車掌の声ともにバスは走りす。一体どこに向かって走ってるのか、勢いに任せたがためにわからなかったが、リヴァイはたいして気にもかけずに窓の外へと視線をやった。 バスは自身の扉を開くたびに、その車内に抱え込む人の数を増やしていく。徐々に埋まっていく席にリヴァイの隣にも男が一人座った。反射的に一瞥するが、その男は知らない人だった。試しに、彼は本当に知らぬ人だろうかと胸の奥に問いかけてみるが、浮かび上がる違和感は、ない。やっぱり、知らない人だ。見知らぬ人を正しく知らぬ。そんな当たり前のことに、やけにほっとした。 再び、窓外の景色を眺める。徒歩の時とは比べ物にならない速さで流れていく景色に、けれどなぜかもっとスピードでねぇかな、なんて少し思う。もっと速く、速く。しかし、リヴァイの願望とは裏腹に、バスは一定の速度を守ったまま走り続けた。 そうやって入れ違う車をもう何台と見ただろう。気が付けば、隣に座ったはずの男はもういなくなっており、増えていく一方だった車内は今度は逆に減っていく一方だった。少しぼんやりとしすぎたのかもしれない。自分もそろそろ降りようか。そう思ったリヴァイは、前席に座っていた女がタイミングよく降車ボタンを押したのに便乗するようにして、バスを降りることにした。 料金を払いバスを降りる。音をたてて遠ざかるバスが残したガスのにおいに顔をしかめつつ、ちらり、と辺りを見渡すと、どうやらここは住宅街のようだ。すぐ近くには、去年できたばかりの高層マンションが見える。あまり馴染みのない土地だ。けど、まったく知らないというわけでもない、そんな場所だった。ずいぶんと長く移動したような気がしたが、バスで移動する距離などたかが知れているらしい。 |
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