人気のない道をリヴァイは歩く。目的地はない。ただ、歩く。そうすればいつか自身の望む何かが見つかるのではないか。そんな馬鹿みたいな希望を片隅に抱きながら、歩く。趣味はなんですかと聞かれたら、趣味は散歩だと答えても、きっと誰も疑問に思わないだろうくらいに、歩く。 そのうち、緩やかな坂を上った先で公園を見つけた。片手では無理だが、両手の指になら納まる数の遊具がぽつぽつと置いてある、小さくもなければそれほど広くもない公園。普段ならもっと母親に連れられてやってきた子供たちでにぎやかな雰囲気をしているだろうに、天気の影響か公園内に人の姿は見えない。 人っ子一人いない公園はどこか不気味だ。それでいて少し、寂しげでもある。だが、今はあまり人とかかわる気になれないでいるリヴァイにはある意味でぴったりの場でもあった。 リヴァイは公園へと足を向けた。疲れるほど歩いてはいないはずだが、身体はやけに疲労を訴えているような気がして、そのまま公園内の隅のほうにぽつりと置かれたベンチへと足を進めると重たい動作で座り込んだ。背もたれに身を預けて空を見上げる。そこには校庭で見上げた時と変わらぬ灰色の雲が一面に広がっていた。 (……なに、やってんだろうなぁ) 今更のように思う。 こんなところに来て、いったい何になるというのか。こんなところまで来て、いったい何を得たというのか。自身に問いかける。しかし、問いかける前から答えなど本当は知っている。 こうやってふらりと当てもなくどこかへ行くのは、なにも今回が初めてじゃない。周期的にリヴァイは徘徊を繰り返す。衝動のまま、本能のまま。何かを探すように、何かを求めるように。けれど、その何かが見つかったことはない。今まで、ただの一度も。 ぼんやりと空を眺め続けていた。ともすればどこかに飛んでいきそうな意識を、しかし携帯電話から聞こえてきた音が引き止める。初期設定のまま変更していない味気ない機械音。少し鳴って途切れたそれはメールの着信を知らせる音だ。 どうせあいつからだろうな、と思いながら携帯を取り出し開いてみれば、案の定エレンの名前が画面に浮かんでいた。 【 まじで先に帰るとかリヴァイの薄情者!ちょっとくらい待っててくれてもいいだろ!3分もかからなかったのにさ3分も!つーかお前歩くの速すぎ!あれからすぐ追いかけたのに全然追いつけなかったぞ?まさか寄り道でもしたのか?だったらなおさら待っててくれよ俺も一緒に行きたかった ―――】 相変わらずだらだらと綴られる苦情の文字。あいつも飽きないというか学習しないというかよくやるよな、と妙な関心を抱きながら画面をスクロールさせると、明日は帰るなよ、といつも書かれているものとは違う文末がそこにはある。 【 明日さ、アルミンとミカサも誘って海に行かね? 】 夏休みに入ってそうそうこれとは。リヴァイは去年のことを思い出す。去年の夏も、しつこく誘うエレンに根負けして何十回と海へ行くのに付き合わされた記憶がある。日差しにはあまり強くないというのに、おかげで何度肌を真っ赤に焼いたことか。その度にエレンは顔を真っ青にして謝ってくるが、それでもリヴァイを海に誘うことをやめようとはしない。 しかも奴は気さえ向けば、冬であってもリヴァイを海に誘う。エレンの海好きは異常だ。まぁ、それでも、自分のわけのわからないジャメビュにも似たこの感覚のほうがよほど異常なのだろうけど。リヴァイは自嘲した。 (……帰ろう) 諦念はいつも唐突に、だが、いつだって確実に訪れる。 エレンからのメールによって、現実近くに戻された思考が言う。もういい、こんなことをしても無駄なだけだ、と。認めてしまえば、胸に詰まる憂鬱がさらに増したような気がした。 携帯をしまう。だたそれだけの動作なのに身体がやけに重い。のそのそと緩慢な動きで背もたれから身を起こせば、追い打ちをかけるように空からついにぽつぽつと雨粒が落ちてきた。 「クソが……」 今日はつくづく最悪だ。 もうベンチから立ち上がることすら億劫で、いっそ兄の誰かに迎えに来てもらうかとも考えたが、それはさすがに思いとどまる。リヴァイに対して甘すぎるほどに甘いあの兄たちのことだから、いきなり電話をかけて迎えに来てくれと言ったところで、きっと文句の一つも言わないだろうが、だからと言って自分のこの意味の分からぬ衝動のために彼らの手を煩わせるのは嫌だった。 降り注ぐ雨に髪が、服が、肌が、不愉快に濡れていくが急ごうと思えるほどの気力は残されてはおらず、やっとの思いでベンチから腰を上げるとリヴァイは引きずるようにして足を進めた。一歩、二歩、と着実に地面を踏みしめ、公園の出入り口に差し掛かったところで一度立ち止まる。左右へと続く道。歩みを進めようとして、ふと気が付く。どちらにいけばいいのか、わから、ない。 (俺はどっちから来たんだったか…) (右か、左か…、) (いや、そもそも、) (帰る、って、) (いったい、どこに……?) まるで知らない世界に一人で放り込まれたような感覚だった。 帰り方がわからない。いや、そもそも帰る場所がわからない。どうすればいい。どこにいけばいい。わからなくて、親とはぐれてしまった幼い迷子のように立ちすくむ。 思考が混乱する。ぐちゃぐちゃにかき乱されている。そのくせ、頭のどこか隅っこのほうで、自分とは違うもう一人の自分が、あぁ、まただ、とうんざりとした様子で冷静にため息をついていた。 (いつものことだ) (どうせすぐに納まるに決まってる) (だって、そうだろう) (今までだって帰る場所がわからなくなったことがある) (一度や二度じゃない、何度もだ) (けど、毎回一人でちゃんと家に帰ったじゃないか) (馬鹿馬鹿しい) (何度同じことを繰り返すつもりなんだ) その独白ですら“いつものこと”の内だった。 砂時計の砂が徐々に落ちていくようにして、だんだんと、混乱と冷静の値が逆転していく。慣れた感覚だ。実際に計ってみれば、混乱していた時間なんてきっと驚くほどに刹那に違いない。それこそ、砂時計の砂一握りにも満たないほど。 今ならもう、どこに帰ればいいかをリヴァイの頭はしっかりと理解していた。適当に歩いてきた道筋だって、ちゃんと覚えている。 「……帰ろう」 言い聞かせるよう今度は意識して声に出して、ぽつり、と呟く。 本当になにをやってんだろうなぁ自分は、といま一度思いながら濡れて頬に張り付く髪を無造作にかきあげた。もうどうでもいいから早く帰って風呂にでも入ろう。そんでもってさっさと飯を食ってさっさと寝ちまおう。そうすればあっという間に明日が来て明後日が来て、今日の憂鬱もこの先に続く日常の中に埋没して消えてしまうに違いない。 そう強く言い聞かせながらリヴァイはいつものように舌打ちをこぼし、いつものように一度だけ空を見上げ、いつものように視線を落とした。そして、いつものよう歩みを進めようとして―― 「どうかしたのかい?」 いつもと違う誰かの呼びかけに思わず、立ち止まった。 いつの間にか、身体に降り注いでいた雨が止んでいた。けれど、雨粒が地面を叩く音は絶えず続いている。ざぁざぁ、とむしろ勢いを増して、うるさいほどに耳に届く。それなのに、その低い声はうるさい雨音を超えてやけにはっきりと聞こえてきた。あまりに鮮明だったものだから、幻聴かと思ってしまったほど。 顔を上げると、そこには男が立っていた。片手に鞄を、もう片手には傘を有しており、リヴァイが思わず雨が止んだと勘違いしたのは、男がその傘をリヴァイの頭上に向かって差し出しているからのようだった。 「いくら夏とはいえ、雨のなか傘もささずに立っていたら風邪をひいてしまうよ」 やさしい声で、男は言った。 リヴァイはまじまじと男を見つめる。その気安さに顔見知りかと思ったが見知らぬ顔だ。上品なスーツを着こなし、温和な表情を男前の顔に浮かべたずいぶんと背の高い金髪碧眼の男。 知らない男だ。繰り返し思う。リヴァイには男の顔に見覚えはなかった。先ほど、バスで隣になった男と同じ。けれど、どうしてだろうか。見知らぬその男のまなざしにリヴァイは胸がざわつくのを感じた。不信感か警戒心か、正確な心情はリヴァイにもわからない。ただ、なぜか妙に胸がざわつく。 そしてもう一つ不思議なことに、こんなにも胸がざわついているというのに、こちらを見つめ返す晴れた空のような男の瞳にリヴァイは、何か答えなければ、とそう強く感じていた。男の瞳は声と一緒でひどく穏やかなまなざしをしていて、決して返答を強制させるような色などなかったというのに。 「ぁ……っ、」 「うん?」 焦りからか言葉に詰まる。だが男は返答を急かしたりはしなかった。冷たい夜を毛布で包むような温かさでもって、言葉の続きを待っている。 リヴァイはぐっと胸を抑えた。止まらない胸のざわつきを少しでも軽くしようと長くそっと息を吸って、そして途切れ途切れに吐き出した。 「帰りたく、ない、んだ…、」 そうやってようやく出した声は、それでも少し震えていた。自信のない、小さな声。それは言葉のせいもあってか、まるで遠まわしに男を誘う女のようだった。これでリヴァイの性別が今のものと違うものであったなら、すわ援助交際の誘いかとそう思われても仕方ないだろうそんな有様。 言ってすぐにリヴァイは、はっ、とした。初対面の相手に、そのうえ男が男に向かって自分は何をいきなり言っているのだろうか。 「……ッ、」 羞恥を覚え、慌ててリヴァイは今のは違うのだと否定しようとするが、帰りたくないとそう思う気持ちはまぎれもない本心であったがゆえに自分でも何が違うのかわからず言葉に詰まる。何か言わなければ、と再び思うが、何を言えばいいのか今度こそわからない。 耐え切れずにリヴァイはうつむいた。男の反応が、なぜだか異様に恐ろしい。いっそのこと、何も言わずに去ってくれればいいとそう思ったほど。だが、実際に男がリヴァイを置いて去ることはなかった。それどころか男はリヴァイの様子に笑うでも訝しむでもなくただ静かに、そうか、と頷いたかと思えば―― 「ならば、私の家に来るかい」 あろうことか、そんなことをさらりと言ってのけた。なんでもないことのように、当然のことのように。 リヴァイは目を見張った。何を言っているんだろうか。すぐに理解できなくて、目を見開いたまま男の顔をまじまじと見つめる。男は変わらず温和な表情を浮かべたまま。傘をリヴァイに向かって差し出しているがために自身のほうが雨に濡れているというのに、まるで気にした様子はない。それどころか、持っていたカバンを傘を持っていたほうの手と器用に一緒にして、空いた片手をリヴァイのほうへと差し出してくるではないか。 まだ名前すらも知らぬ男。そうだ。リヴァイは改めて思う。自分はまだ、この男の名前すら知らぬ。その事実に一瞬、リヴァイの脳裏を言葉がよぎる。それは知らない人について行ってはいけませんと、リヴァイがまだ自分の名前すらうまく発音できないくらい幼かった頃から、兄姉たちに耳に胼胝ができるのではないかと思うくらい聞かされた言葉。 「嫌か?」 男がたずねるが、違う。嫌だとか嫌じゃないだとか、そういうんじゃない。見知らぬ人にはついて行ってはいけないんだ。幼い子どもにも分かる当たり前のこと。それなのに、どうしてだろうか。リヴァイはもうしっかりと自分の名前を発音できるようになったというのに。 「……いやじゃ、ない」 気が付けば、差し出された男の手のひらにリヴァイは自身の手のひらを重ねていた。 |
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