『――――』

 音が聞こえた。
 やけに耳につく、音のような“なにか”。けれど、それがどんな音なのか、正確に把握することはできなかった。獣の低いうなり声のような音だったような気がするし、風が吹くような細やかな音だったような気もする。かと思えば、それは人の声だったような気がして、あまり、よくわからない。

「……なんか、きこえなかったか?」
 だから、目を覚ましてすぐにリヴァイは確認するようにエルヴィンに問いかけた。起きていたエルヴィンなら、きっと自分よりもしっかりとその音を聞いているだろうとそう思ったから。
「なんか、って……なんだ?」
 けれど、エルヴィンはなんのことだとでも言いたげに首をひねった。
「それは、わからん……けど、きこえなかったか?」
「外の雨や風の音じゃあないのか?」
「たぶん、ちがう……?」
 ぐしぐしと目を擦りながら首を振った。けれど、いかんせん眠りに落ちている最中に聞いた音だから、自信はあまりない。リヴァイはくわぁとあくびを零しながら身体を伸ばすと、改めてエルヴィンへと向き直った。
「でも、聞こえた気が、したんだ……」
「そう、か……」
「そうだ」
 ふむ、とエルヴィンは思案するように視線を下にやった。なにを考えているのだろうか。リヴァイはエルヴィンの横顔を見つめたまま、次の反応を待つ。
 すると――。

 がんっ

 ふいに上のほうから音がした。どこか重たい鈍い音だ。
「…………」
「…………」
 リヴァイはエルヴィンとそろって天井を見上げた。視界に映るのは、薄汚れた暗い天井だ。音は、その向こう側から聞こえた。
 しばらくじっと天井を見やってから視線を下ろしエルヴィンを見れば、エルヴィンもまた視線を下ろしリヴァイを見ていた。お互いを見やったまま、しばしの沈黙。今のは、と先に口を開いたのはリヴァイのほうだった。
「今のは、聞こえたよな……」
「あぁ、確かに聞こえたな」
「…………」
「…………」
 もう一度、二人そろって天井を見上げる。音はもう、しない。けれど、先ほどは確かになにかの音がした。ふたたび、少しの沈黙。もしかしたら、とその沈黙を破ったのは、今度はエルヴィンのほうだった。
「もしかしたら山猫や山犬の類かもしれないな……」
「でも、玄関はしっかりしまっていたぞ」
「ならもともと住み着いていた鼠かなにかか……、それかやはり、我々より先に誰かが避難していたのかもしれない」
「まぁ、ありえねぇ話ではねぇが……」
「いや、お前は今も屋敷に入った時も声が聞こえたと言っていたしな。実際に、可能性は低くないだろう」
 言うなり、エルヴィンがソファから腰を上げた。
「ちょっと、様子を見てこよう」
「まて、なら俺もいく……」
 リヴァイも続けて一緒にソファから腰を上げた。すると、寝起きのせいか、軽いめまいがしてぐらりと身体が傾いた。あ、と思ったのは一瞬。エルヴィンの手がリヴァイの肩を抱いて支えてくれたので、埃だらけの床に倒れこむようなことにはならなかった。
「いいよ、リヴァイ。お前はもう少し休んでいなさい」
「いや、俺もいく」
「しかしだな」
「べつに、もうなんともないから大丈夫だ」
「リヴァイ……」
 聞き分けなさい、とでも言うようなエルヴィンの声。だがリヴァイはその声を無視してさっさと扉へと向かった。
「ほら、さっさと行くぞ」
「……まったく、しかたがないな」
 今度は、まるで小さい子どものわがままを許容する大人のようなエルヴィンの声。リヴァイはむっとしたが、変に言葉を返すのは止めておいた。どうせなにを言ったところで今のエルヴィンにリヴァイの言葉は駄々をこねる子どものそれのようなものなのだろう。

 しかたがない。
 それはエルヴィンがリヴァイに向かってよく言う言葉だ。とくにエルヴィンがリヴァイを甘やかそうとする時に、彼は良くその言葉を口にする。
 しかたがない。
 諦めるような、突き放されるような響きがするその言葉は、しかしエルヴィンの口から出る場合はその限りではない。むしろ、紅茶に入れる一杯の砂糖のような甘さを持って「しかたがない」の声はリヴァイの耳に届く。
 リヴァイもそろそろ節目に入ろうとしている歳だと言うのに、エルヴィンはたまにこうしてちいさな子どもを相手にするようにしてリヴァイを甘やかしてくる。一体やつの目に自分はどんなふうに映っているのやら……。考えてみるが、どうせわかりはしないのだろうと半分あきらめている。
 リヴァイは黙って扉を開けると、エルヴィンが横に並ぶのを待ってからリビングを出た。

 二階への階段は玄関を入ってすぐのところにあった。途中で折り返しの踊り場がある幅の広い大きな階段をエルヴィンの半歩後ろに続いてのぼる。傷んでいる階段は一歩また一歩と足を乗せるたびにきしきしとちいさいが耳障りな音が響く。だが、リヴァイのほうはまだましだ。エルヴィンのほうに至っては足を乗せるたびにぎしぎしと音が重たく盛大になっていた。今にも踏み抜いてしまうのではないかと少しひやひやする。
「底を抜いたりしないよう気をつけろよ」
「あぁ」
「お前を引き上げるなんてかなりの重労働だからな」
「わかってるって……あぁ、しかし」
 言葉をいったん止めたエルヴィンはわざわざリヴァイのほうを振り返ってから、言葉を続けた。
「お前が落ちた時は、俺がしっかり引きあげてやるから安心しろ」
「……落ちたりなんてしねぇよ」
「遠慮はいらんぞ?」
「んなもんするか」
 いいから前を向け、とリヴァイはエルヴィンの背中をぺしりと叩く。固く広い背中だ。頼もしくもあり、少し憎たらしくもある大きな背中。リヴァイは特に意味もなくもう一発だけその背中を軽く叩いてやろうと手を振り上げた。だが、その手が背中に触れる直前だった。ふいに、がくっとリヴァイの膝が崩れた。
「っ……!」
「リヴァイっ……?」
 がたり、と大きな音がなって、その音にエルヴィンがふたたび振り返った。膝をつくリヴァイを見て少し声を大きくしながら、短い距離を駆け戻る。
「どうしたっ、大丈夫か?」
「いや……、」
 リヴァイは言いよどむ。けっして、床が崩れただとか、階段に足が引っ掛かっただとか、そんなことがあったわけじゃない。傷んだ床はまだかろうじでその役割を全うしたまま、なんの落ち度もない。ただ、なんだろうか……。今、誰かに足首を引っ張られたような、そんな感覚がしたのだ。
 リヴァイは引っ張られた感覚のした足を見た。当然のことながら、そこに足を引っ張るような“誰か”がいるようなことはなかった。だからと言って、足を引っかけるような、なにかがあるわけでもない。
「リヴァイ……?」
 名前を呼ばれて、はっとする。心配げに覗きこんでくるエルヴィンに、リヴァイは少し逡巡してからふるふると首を横に振った。
「……なんでもない、ちょっと滑っただけだ」
 気をつけろと言っておいて、自分がこけてたんじゃ世話ないな。内心で呟きながらさっさと立ち上がった。
「怪我はないか?」
「……大丈夫だ」
 何度か足踏みを繰り返して確認してみるが痛みも違和感もない。
「……さっさと行こう」
「あぁ、気をつけろよ」
「……わかってる」
 再度、階段を上りだしたエルヴィンに続いて、リヴァイもまた階段を上る足を進めた。ただ、一度だけなにかに後ろ髪を引かれるようにして背後を振り返った。当然のことながら、そこにはなにがあるわけでもなかった。
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