階段をのぼりきった二階は一本の廊下しかない、よく言えばシンプル、悪く言うととても殺風景な作りをしていた。階段と同じく幅だけはやたら広い廊下の突き当りには大きな窓が一つあり、左右には合計六つの扉がある。一階と同じく、明かりもなにもなく薄暗い。壁にはひびが入っている個所がいくつかあり、床も一部が剥げかかっていてぼろぼろだ。

「……はぁ」
 階段をのぼりきって、リヴァイがちいさく息を吐く。
「大丈夫か?」
「……あぁ、別に問題ない」
「そうか……」
 そうは言うが、やはりまだ本調子ではなさそうだ。いつもは涼しげな横顔が、今はどこか陰っている。エルヴィンの胸に懸念が生まれる。だが、これ以上構うと機嫌を損ねてしまう可能性がある。ここで押し問答をするよりも、早く目的を果たしてリビングに戻って休ませたほうがいいだろう。
 そう判断したエルヴィンは辺りをうかがうと、すぅと大きく息を吸った。そして、屋敷に来た時と同じように声を張りあげた。
「誰かいないのかーっ!!」
 雨は激しく降りつづけたままだが、ここまでくればさすがにこの声が聞こえないと言うことはないだろう。それなのにいったいどういうことだろうか。いくら待ってみても、やはり返事が返ってくるようなことはなかった。
「まったく、どういうことだ……?」
「そうだな……」
 ふむ、とエルヴィンは考える。声は聞こえているだろうに、反応を返さない理由。何らかの怪我によって聴覚が正常に働いていないか。はたまた、聞こえてはいるが声が出せず、姿を現すこともできないほどの重傷を負っている状態なのだろうか。
 これが壁内ならば、盗みに入った空き巣や、隠れ住んでいた浮浪者が、エルヴィンたちに見つかりたくなくて息をひそめているのだろうかと想像することもできたが、なんといってもここは壁外だ。もとは壁内だったとは言え、今はもう巨人がうろちょろと存在する魔境。どんなに生活に困っている者だとしても、こんなところにわざわざ空き巣に参ったり、日々を暮らす住居に選ぶとは考えられない。
「とにかく、一度すべての部屋を見て回ってみるか」
「そう、だな……」
「あぁ、いるにしてもいないにしても、はっきりさせておいたほうがいい」
 言い終わるなり、エルヴィンはさっそく隅の扉から手当たり次第に手をかけた。階段近くにあった二つの扉。一方は物置でもう一方はトイレだった。どちらも人の姿はない。

次の部屋。そこは書斎のようだった。四方はまんべんなく本が詰まった棚で埋め尽くされ、唯一本棚のない窓際にはどっしりとした重厚な椅子と書斎机がある。
「本なんて読みはじめるなよ」
 しげしげと本棚を眺めているとまるで釘を刺すようにしてリヴァイが言った。
「わかっているよ」
「……本当か?」
「信用がないな」
「だってお前は本の虫だろう?」
「ちゃんと時と場合を選ぶさ」
「どーだか……」
 ふんっ、とリヴァイは鼻で笑う。
「掃除するからどっか行ってろっつっても、ずーっと本とにらめっこしたまま椅子から動かない大男はどこのどいつだ?」
「……さぁ、どこのどいつだろうな?」
 素知らぬ顔をして、エルヴィンは部屋をぐるりと一瞥する。実際、リヴァイの言うとおり、これらの本たちに全くの興味が無いわけではない。もう少し違うシチュエーションであったなら、ちょっといいかと断りの一言と共に本に手を伸ばす自身の姿を、エルヴィンは容易に想像することができた。
 しかし、リヴァイにも言った通り時と場合を選ぶ。ここは壁外で、今は壁外調査の真っただ中だ。一冊でも、このなかに“禁書”が混じっているようなものなら、流石に揺れただろが、幸か不幸か、本たちの中にこれと言って珍しいようなものは見当たらない。
「ここにも誰もいないようだし、次に行くか」
「あぁ、お前の足が根付く前にな」
「……まったく、手厳しい」
 気分はまるで嫁の尻に敷かれているダメ亭主だ。けれど、不思議と悪い気分ではない。早くしろ、と急かすちいさな背中をほこほことした気持ちで追いかけた。そして扉を閉めようとして、はたと動きを止めた。
「ちょっと待てリヴァイ」
「……なんだ」
「そう不機嫌な声を出すな」
 あからさますぎる反応に思わず苦笑いを浮かべながらも、エルヴィンはある一点を指さした。
「ほら、あれを見ろ。ランプがある」
 指さしたのは書斎机の足元。そのこぽつりと一つのランプが置かれていた。太陽が完全に雨雲に隠れ、一筋の光も入らないこの屋敷であのランプの明かりはきっとかすかながらも頼もしい明かりとなってくれるだろう。
「だが、もうずいぶんと放置されてたんだろ? 使えるのか……?」
「蝋はまだ残っているが……とりあえず、試してみるか」
 幸い、マッチは常備しているものがある。湿気ってしまっていないか心配ではあったが、防水加工をしっかりとほどこした袋に入れていたおかげで、擦ってみたマッチは小さくもめらめらと赤く燃えていた。
 そのままその炎を蝋燭の芯にそっと寄せると、じじじ、とちいさな音がする。頼むから燃えてくれよとしばらく炎を当て続け、恐る恐るマッチを離す。芯の火は、消えていない。ぼう、と辺りが微かにだが明るくなった。
「よし、ついたぞ」
「一つ収穫だな」
「あぁ、いい収穫だ」
 エルヴィンとリヴァイは顔を見合わせて軽く頷きあうと、明かりを宿したランプを片手に改めて書斎を後にし、すぐに続けて次の部屋へと向かった。

 次の部屋は無人の空き部屋であった。なにも置いていない、一目見て誰もいないとわかる部屋。なのでさっさとさらなる部屋へと向かうと今度の部屋は客間だった。当時であれば、それなりに居心地のいい空間だっただろうに、テーブルにはすっかりと埃が積もり、椅子が役目を果たせないまま横倒しになってしまっていた。窓辺に置かれた花瓶には枯れてすっかり色あせてしまったかさかさの花が項垂れている。
「……人が住まなくなった家とは、なんだか物悲しいものだな」
 あまりの光景に思わず、感傷的な言葉が口を衝いて出た。リビングもそうだったが、完全に壊されてしまっている家よりも、こうして生活の跡が垣間見える廃家のほうが心揺さぶられるものがある。
「…………」
 きっとリヴァイも似たような想いを感じたのだろう。倒れていた椅子をわざわざ立て直すと、静かな声でぽつりと言った。
「この家に、また誰かが住む日が来るんだろうか」
「……どうだろうな」
「…………」
「だが、この地は絶対に取り戻すさ」
 そうだろ?と自ら生み出した感傷的な空気を振り払うようにして、エルヴィンはリヴァイの肩にぽんと手を乗せた。エルヴィンの大きな手には、少々華奢に感じるちいさな身体。だがその持ち主は、誰よりも頼もしいパートナーだ。
「俺たちになら、それができる」
「……はっ、とんだ自信家だな」
「自信家は嫌いか?」
「そうだな、口先だけの自信家は嫌いだが……お前なら許してやらなくもない」
「それは嬉しいな」
 言い方こそは少し素っ気ないが、その言葉に嘘はないことがわかっていたから、エルヴィンは口元を緩めた。
「……なに笑ってんだ? 次行くぞ」
「はいはい、わかってるよ」

 次がいよいよ最後の扉だった。
 あの物音が“誰か”の仕業であるとしたら、その“誰か”がいるのはこの部屋以外にありえないだろう。はたして、その“誰か”は何者なのか。わからぬ正体に警戒してか、リヴァイはやけに慎重な手つきで扉を開けた。すると開けてすぐに目に入ったのは大きなベッドであった。この部屋は寝室のようだ。
「ふむ、どうやらこの屋敷の持ち主は夫婦であるようだな」
「んなことはどうでもいい」
 大きなベッドに枕が二つ並んでいるのを見てエルヴィンは予測するが、リヴァイはそれをばっさり切り捨てると部屋を見渡して顔をぎゅっとしかめた。
「……ここにも、誰もいねぇな」
「あぁ、おかしいな」
 見回った部屋すべてに、人の姿はおろか犬猫、そして鼠の気配すらなかった。まったくの無人。では先ほどの物音はなんだったのか。エルヴィンとリヴァイは顔を見合わせ、二人そろって首をかしげた。
「暴風に枝でも飛んで屋敷にぶつかってきたのだろうか」
「それにしちゃあ、真上で音がした気がするが……」
「だが、実際に誰もいない」
「まぁ、たしかにな……」
 頷きながらも、リヴァイの表情を不服そうだ。エルヴィンにはその気持ちがよく理解できた。人がいないのだから、あの物音は人為的なものではないと断定できるはずであるのに、どうも違和感が残るのだ。気にするにしては小さな問題かもしれないが、すべてを無視するには少し気がかりな、まるで靴の中に混じってしまった米粒サイズの砂利のような、そんな些細な違和感。大した支障はないが無視しきってしまうには、違和感が強い。
「本当にゴーストだったするかもな」
 ぽつり、と思わず呟くと、リヴァイは不服から呆れへと表情を変える。
「……まだ言うか」
「しかしゴーストにはポルターガイストという力があるらしいぞ」
「ぽる……?」
「ポルターガイスト。物が勝手に移動したり、誰もいないのに音が鳴り響く現象だ」
「……じゃあ、さっきの音がゴーストによるそのポルタなんとかの仕業だと?」
 リヴァイの目が、本気でゴーストなんて信じてるのかと告げている。
「考えてもみろリヴァイ。この世には巨人なんてものが存在するんだ。ゴーストが存在しないとは言い切れないだろ?」
「屁理屈を言いやがって……」
 ぷいっ、とついにリヴァイはエルヴィンから顔を背けると、そのままさっさと寝室を出て行ってしまった。拗ねた子供のようなその仕草。だがそれはエルヴィンのゴースト談議に怒ったのではなく、きっと原因のはっきりとしない物音に苛立って結果だろう。
 人一倍警戒心の強いリヴァイにとって、原因不明の物音は大きな気がかりに違いない。だが、わからないものはわからないのだから、どうしようもない。エルヴィンは肩をすくめるとあっという間に遠ざかろうとしているリヴァイの背中を追いかけ、そのまま二人一緒に一階のリビングへと戻った。


 リビングに着くとリヴァイは早々にソファへと向かった。エルヴィンが敷いたマントの上とは言え、あんなに嫌がっていた埃っぽいソファにためらいなく腰を下ろすと、リヴァイはそのままはぁと重く息を吐いた。
「まだ疲れはとれないか?」
「……むしろ、原因がはっきりしないせいで無駄に疲れた気がする」
「そうか」
 ふむ、とエルヴィンは深くリヴァイの顔を観察した。もとより青白い顔色が、いつもに比べてより一層青く見える。部屋が薄暗いから、と言う理由だけではないその青白さにエルヴィンは眉をしかめた。少しの間とはいえ、休憩を挟んだにもかかわらず回復はおろか、より悪化している様子に危惧の念が強くなる。
「そんなに具合がすぐれないようなら、さっきの寝室のベッドで横にでもなるか?」
「はっ、冗談だろ?」
 この俺に、誰が使ったともしれないうえに、長年放置されて黴臭くなっているベッドで横になれと?
 口にこそ出されなかったが、より一層深く眉間に皺を寄せるリヴァイの表情がなによりも多弁に語っている。わかりきっていた反応にエルヴィンはさらなる提案を一つ。
「ならば、なにか燃やせるものがないか探してこよう」
 このリビングには暖炉がある。燃やせるものさえあれば、その暖炉を使用することができる。そうすれば妙に体温の低くなっているリヴァイに暖を取らせてやることができるし、それに服を濡れたままにしておくのはやはり身体に悪いだろう。
「お前はここで待っていろ」
 少々もったいないが、書斎の本あたりなら燃やすこともできるだろうか。考えながらエルヴィンはすぐに廊下に向かった。
「おい、待て」
「ダメだ」
「……まだなにも言っていないが」
「言わなくてもわかる。いいからお前はここで待っていろ」
「べつに、大したことはないと言っている」
「いいや、現時点では大したことがなくとも、この先お前の体調が悪化しないとも限らない。それは、お前もちゃんと理解しているだろう?」
 今度は「しかたがないな」と許してやるわけにはいかない。エルヴィンは強くリヴァイに言い聞かせる。
「言っただろう。今のお前の一番の仕事は体力を回復さることだ」
「…………」
「理解しているなら、いいからお前は大人しく休んで待っているんだ。わかったな?」
「…………」
「リヴァイ」
「……了解だ」
 促すように名前を呼べば、リヴァイは渋々と言った様子で頷いた。
「気をつけろよ」
「あぁ」
 用心深いその言葉を大げさだとは思わない。エルヴィンはリヴァイにしっかりと頷き返すと、来たばかりのリビングを出て二階の書斎へと急いだ。
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