「なにかあったら大声で叫ぶんだぞ……?」
 まるで生娘にでも向けるようなセリフを残して、エルヴィンはリビングを出て行った。声が届きやすいようにか、あえて半開きにされたドアにあほかと少しあきれながらも、出ていくエルヴィンの背中を最後まで見送ってからリヴァイは背もたれに体重をかけた。そしてはぁと何度目かになる重たい溜息をつく。

(どう、なってんだ……?)
 すぐれない気分に、リヴァイは顔をしかめた。
 どうにも、身体が重いような、そんな気がする。どこが、と明確な負傷箇所があるわけではない。不確定な不調。ついさっきまで、具合が悪いなどと言う自覚自体まるでなかった。実際に、無傷のまま巨人との戦闘を終える程度には調子はいつも通りであったはずなのに、どういうことだろうか。
(まさか本当に風邪でも引いたか……?)
 雨に打たれたぐらいで風邪を引くなど、そんな軟な身体をしているつもりはない。だが、それ以外に説明のつかない身体のだるさに、リヴァイはちっと舌打ちを零した。雨といい巨人の不意打ちといい、なんて最高に悪いタイミングなのだろうか。よりにもよって壁外調査の真っ最中に体調を崩すなど、兵士としてあるまじき行為だ。
「くそ……」
 リヴァイは苛立ちながらも、目を閉じてさらにソファに身を沈めた。この際、汚いだなんだと言ってられない。雨の勢いが緩和してこの家を後にするまでに、少しでも体調を元通りにしておかなくてはならない。
 ただし、目を閉じても意識を落とすようなことはしない。一歩外へ出れば巨人がうようよとしているこの地で、おいそれと眠るわけにはいかない。さっきはエルヴィンがいた。今は一人だ。

「…………」
 エルヴィンは出ていったばかりで、まだまだ戻ることはないだろう。隣には、さっきまであった気配はない。その、なんの気配もない隣にぽつりとしたちいさな気持ちが胸に生まれる。それがどんな名前の付く気持ちなのか。それはわからない。ただ、ぽつりとした気持ちだ。
「…………」
 人を待つのは、あまり得意ではない。人を待つのに得意も不得意もあるものかと思うが、それでもやはりあまり得意ではないと思う。本当に戻ってくるのか、少し、ほんの少し、不安だ。
 手持ち無沙汰にリヴァイは意味もなく片膝を抱えた。ブーツを履いている状態でソファに足をあげるなど、本来ならば言語道断だが今ばかりは気にするほどの余裕も体力もなかった。
 はぁ、と何度目かのため息。一人きりになるとどうも暗い考えが頭をよぎる。屋敷の存在でずいぶん救われたが、それでも現状があまり良くないことには変わりない。一番の気がかりはやはりほかの仲間たちのことだ。この豪雨の中、巨人たちをうまくやり過ごすことができているだろうか。気になって仕方がない。
 けれど、気にしてはいけない。今はエルヴィンに言われた通り、少しでも体調を整えなければならず、リヴァイはあえて意識してなにも考えぬよう努めた。ゆっくりと息を吐き、そしてゆっくりと息を吸う。ただそれを繰り返しているだけで、時間なんてどうせすぐに過ぎていく。そうずればエルヴィンだってすぐに帰ってくる。


 そんなふうに、無心で目をつぶり続けいくらか経った頃だ。静かな空間にぎぃぃとちいさな音が響いた。それは少々耳障りな、扉が軋む音だ。ぱっ、とリヴァイはソファから身体を起こして扉の方を見た。戻ってきたエルヴィンが扉を開けたのだと、そう思った。
「エルヴィン……?」
 しかし、そこにエルヴィンの姿はなく、かけた声に返ってくるものはなかった。それどころか、開けられていたはずの扉が閉まっている。風にでも吹かれたのか、建付けの問題か。どちらにしても先ほどの扉の軋む音はエルヴィンが戻ってきたからではなかったようだ。
「…………」
 なんだ、とリヴァイはまた背もたれに体重を預けた。もしかしたら、と耳を澄ましてみるが、エルヴィンの足音が聞こえてくることはなかった。聞こえてくるのは、変わらずに降り続けている雨音だけ。
 そう思っていたが――。

『―えて、くれた――だね、―――、』

 はっ、とリヴァイは目を見開いた。
 いま、声が聞こえた。屋敷に入った時から、なんとなく聞こえた気がしていた声。屋敷に誰もいないことをエルヴィンと確認してから、リヴァイはそれを空耳であったと認識していた。けれど、確かに今、声が聞こえた。なんと言ったのか文字にするにはまだ不鮮明だが、それでも空耳と言うにははっきりとした、声。
「誰だ……っ?」
 リヴァイはソファから立ちあがりながら、用心深く辺りを見渡した。
「な……ッ」
 そして、すぐにちいさく声を零した。なぜなら、色あせたカーテンがかかった窓辺、扉の方向とは正反対のその場所に、人の姿があったからだ。その人物は肩を丸めるように俯いており、部屋が薄暗いせいもあってよく顔は見えなかったが、背が高く体格も悪くないことから男であることが見てとれた。
「いつの、まに……」
 あまりにも唐突に現われた男に、流石のリヴァイも動揺を隠せなかった。だってそうだろう。さっきまで、人の気配などなかったはずだ。いささか、意識が散漫であったことは認めるが、だからといって同じ空間に誰かが存在して気がつかぬような、そんな生ぬるい神経はしていない。
 自惚れではない。陽の下に出るまで、そういった世界で暮らしていた。そのリヴァイが、視界に姿を捕らえるまで男の存在に気がつかなかった。
「お前は、誰だ……? いつからそこにいた」
 ぴりぴりとした警戒心が、瞬く間にリヴァイの全身をめぐった。目を細めて、不信感をあらわに男をにらむ。
「その格好、兵団の奴じゃねぇな……」
 無言のままたたずむ男の格好は、白いシャツに紺色のスラックスと、どう見ても調査兵団の一員ではない。しかしそうなると一層、不信感は募る。
 巨人のうろつくこの土地に、なぜ兵士以外の人間が……。兵士でもない人間が壁からここまで来るのは容易ではない。不可能だと言ってもいいほどだ。それともまさか、この屋敷に住んでいるとでも言うのか。それこそあり得ない。

「おい、てめぇ……なんとか言ったらどうだ」
 黙ったままの男に、低い声で威嚇するようにリヴァイは言った。
『――――――』
「ちっ……、聞こえねぇよ。もっとはっきり言いやがれ」
『――――マリアン』
「あぁ……?」
『帰ってきてくれたんだね、マリアン』
 ようやく、はっきりと言葉として聞こえてきた声。その声は、なぜか不思議とくぐもっているような音をしていた。耳に水でも入り込んだような、どこか不愉快な声であった。それでも言葉自体は確かにはっきりと聞こえた。
(マリアン……)
 ただ、聞きなれぬ人の名前にリヴァイは首をかしげた。まさかもう一人誰かいるのかと後ろを素早く確認するが、そこには誰もいなかった。
 では、マリアンとは誰のことを指して言っているのか。
 まさかとは思うが自分のことではないだろうな。リヴァイは訝しみながら、すぐにさま男に向き直った。その次の瞬間、はっ、と息を飲んだ。
『嬉しいよ、マリアン』
 暗い瞳。吸い込まれそうなほどにくらい空虚な瞳が真っ直ぐにリヴァイを見つめる。ほんの少し、だ。ほんの少し目を離したその隙に、充分に距離があったはずの男は、リヴァイのすぐ目の前に立っていた。
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