いきなり目の前に現れた男にはっとした次の瞬間には、がっ、と喉元に衝撃が走っていた。ぐるりと視界がまわる。続いて、大きな音とともに背中に痛みが走った。なにが起きたのか、わからなかったのは一瞬のこと。古びた天井が視界に映って、男に押し倒されたのだと気がつく。 「て、めぇ……なに――っ」 しやがんだ、と続けようとした言葉は、ふたたび走った喉元の衝撃に声になることはなかった。ぎりぎりとなにかが首に絡みついてくる。強く、強く首を絞められて、呼吸が詰まる。 「ぐ、ぅ……ッ」 払いのけようと男の手首を掴むが、どういうことか、ぴくりとも動かすことはできなかった。やけに冷たい手のひら。それがまるで獲物を絞め殺す蛇のように、首に強く絡みついて離れない。男は決して恵まれているとは言えない体格をしているにもかかわらず、尋常ではない力だった。 「く、……そッ」 腹の上に馬乗りになられているせいで、蹴り飛ばすこともブレードを抜くこともできず、リヴァイは呻いた。せめてもの抵抗に、男の手首を掴んだ手に力を込める。男の骨が折れたって構わない。それほど強く絞め返す。 『嬉しい、嬉しいよマリアン』 しかし、男にはまるで効果はなかった。痛みなど微塵も感じていない様子で、ぎりぎりと首を絞め続けてくる。不気味な笑みを浮かべた口元からこぼれるのは、やはり知らない者の名前。 (こ、いつ……誰かと俺を勘違いしてやがんのかッ?) 人違いで殺されるなど冗談ではない。そんな下らない理由で死ぬわけにはいかない。だが、そんなリヴァイの想いとは裏腹に、意識はどんどんと重くなっていく。息苦しさが増す。じわじわと視界が滲み、視界と連動するようにして意識も一緒に滲んでいった。 「ぇ、るび……っ、」 このままでは完全に意識が沈む。自覚した瞬間にリヴァイが縋るようにして口にしたのはエルヴィンの名だった。こんな声になっていない声で、エルヴィンに届くはずがないとわかっていたが、呼ばずにはいられなかった。 こんなところで、こんな形で、エルヴィンを残して死ぬなんて、そんなこと……。しかし、男の手首を掴む手からは徐々に力が抜けていく。 「…………っ」 もう駄目か。リヴァイはそう思った。まさか巨人の手ではなく、唐突に出会った人間に殺されるなど、あぁそれこそ死んでも死にきれない。けれどなすすべはなく、リヴァイは堪えきれずに瞼を閉じた。 すべての感覚が遠ざかる。もう、息が苦しいことさえ分からなかった。なにも見えない、なにも聞こえない。暗闇にすべてが落ちていく。だが、意識が完全にその闇へと落ちきる瞬間、聞こえないはずの耳に、なにかの音が届いた。だんっ、だんっ、だんっ、と3回。続けてなにかが壊れる音。そして――。 「リヴァイ!!」 大きくリヴァイの名を呼ぶ声。その声に、沈みかけていたリヴァイの意識は一気に引き戻された。この声、聞き間違えるはずがない。朦朧としたままの意識で、それでもなんとか気力をふり絞って声の方へと目を向ければ、やはりそこにはエルヴィンの姿があった。 「ぇ、ぅ……ッ」 「リヴァイッ!!」 怒号とともにエルヴィンが走り出した。あっという間に距離を詰め、抜き去ったブレードで男を一閃する。容赦のない一撃に、ふ、と首元が軽くなる。途端に入りこんでくる酸素にリヴァイは激しくせき込んだ。 「ぐっ、か、はッ……、はッ、はッ」 「リヴァイ!大丈夫か……!?」 げほげほと咳をくり返すリヴァイの身体をエルヴィンがすぐさま抱え起こした。冷たかった男の手とは違い、あたたかな手のひらが力強くリヴァイの肩を抱く。 「へ、いきだ……それより、あいつはッ」 「……消えた」 「な、んだそりゃ……はっ、けほっ」 「どうやら、ゴーストは実在したようだな」 「はっ、まさか……、と言いたいところだが、そうらしいな……」 何度か大きく咳を繰り返して、よやく息が落ち着いてきた。最後にはぁ、と大きく息を吐いて、リヴァイはエルヴィンの手を借りながら立ちあがる。酸欠に身体が揺らぐが、エルヴィンが手がそれをしっかりと支えてくれた。 「本当に大丈夫か?リヴァイ」 「あぁ、首は少しじんじんするが、大きな支障はない」 「……痕が残ってしまったな」 クラバットから覗いた首に残る痕をエルヴィンがそっと撫でて眉をしかめた。 「許せないな……」 「たいしたことない、どうせすぐ消える」 「関係ない。お前に手を出した。それだけでも万死に値する」 「ゴーストなんだからもう死んでるんだろ」 「それぐらい、許せないってことだ」 「……まったく、お前はすぐそう言うくさい台詞を言う」 熱く真っ直ぐな言葉を受けるのは、慣れないリヴァイには少し照れくさい。だからいつもリヴァイは呆れた風を装ってエルヴィンの言葉を往なす。けれど、内心ではそれを悪くないと思っているのだから、それこそ呆れてしまう。 ふっ、とリヴァイはちいさく笑った。同時に、強張ってしまっていた身体から緊張が融けていく。まだなにも解決したわけではなかったが、エルヴィンがすぐそばにいる今、恐れるようなことはない。 リヴァイは今度こそ自力で立つと辺りを注意深く伺った。エルヴィンの言う通り、男の姿はどこにもない。だが見えないだけで、きっと近くにいる。リヴァイもエルヴィンも妙な確信があり、決して警戒を解くことはしなかった。 『マリアン……』 案の定、しばらくしてどこからともなく声が聞こえてきた。おどろおどろしい暗い声。あの男の声だ。二人揃ってあたりを見渡せば、古ぼけた暖炉の近くにあの男の姿はあった。肩を落とし俯いて、薄気味悪く棒立ちしている。 『マリアン……』 男が呼ぶのは相変わらず聞き覚えのない名前。もしかしたらエルヴィンなら知っているかもしれないと思ってリヴァイは横を見るが、男の声にエルヴィンは眉をひそめていた。 「マリアン?」 「あいつ、よくわからんが俺をそのマリアンとか言うやつと勘違いしているらしい」 マリアン。どう聞いても女の名前だというのに、どうしたら自分とその女を間違えることができるのだろうか。リヴァイはこれでもかと言うほど眉間に皺を寄せた。人違いで殺されかけたことが不愉快なら、その人違いが女であることも不愉快極まりない。 「……おそらくだが、あの男はこの屋敷の主だろう」 じっと男を見つめて、エルヴィンは言った。 「この屋敷の……?」 「あぁ、書斎に夫婦の自画像があったんだ。雰囲気はだいぶ違うが、あの男は髪型や体格がその自画像に似ている」 「そうか……、じゃあ、マリアンってのは」 「あぁ、男の妻だろうな」 自画像の女性はたしかにリヴァイと同じ黒い髪でリヴァイと同じ鋭い目つきをしていた、とエルヴィンに教えられ、リヴァイはますます顔をしかめた。 「まさか、てめぇも俺がその女に似てると……?」 「はっ、それこそまさかだ」 不機嫌に尋ねたリヴァイに、エルヴィンは鼻で笑って返した。 「確かに美しい女性ではあったが、私のリヴァイには遠く及ばないさ」 「またそういうことを言う」 「事実だからな」 「……言ってろ」 ぶっきらぼうに吐き捨てて、リヴァイはふたたび男をにらむ。軽口のあいだも視線を逸らさず睨んでいた男に動きはなく、先ほどから、マリアン、マリアンと妻の名前をくり返し続けるだけ。その姿は、不気味、の一言がなによりもよく似合う。 「おい、てめぇ……」 『…………!』 リヴァイが声をかけると、男はぱっと顔をあげた。ようやくまともに見る男の顔は血の気が引いた真っ青な顔色をしていた。頬はこけ、唇はかさかさに乾いており、やけに窪んだ目元はリヴァイの比にならぬほど暗い色で沈んでいる。まさに死人の顔つきだ。 「…………っ」 男はもうこの世のものではないのだと、あらためて突きつけられたリヴァイに動揺が戻る。 『マリアン?どうしたんだい……?』 「……違う」 しかしリヴァイはすぐに気を取り戻すと、いまだマリアンと呼び続けてくる男に首を振って見せた。 「俺はマリアンとか言うやつじゃねぇ」 間違えんじゃねぇよくそが、と声を低くして吐き捨てるようにして告げる。これ以上ないほどの敵意を含めて男をにらむ。リヴァイが獣であったなら、きっと全身の毛がこれでもかというほど逆立っていたことだろう。 『どうして……?』 しかし男はリヴァイの強い敵意など気にもかけていない様子で、小首をかしげた。まるでちいさな子供がするような無垢な仕草。それなのに声だけはやたら低く不気味なまま、どうしてと繰り返す。 『どうして、どうして?』 「あぁ?」 『どうして、そんな嘘をつくんだい? マリアン』 「っ、だから違うっつってんだろ」 「あぁ、悪いが彼は嘘をついてはいない。お前の人違いだ」 否定を続けるリヴァイのあとにエルヴィンが念押しするように続けた。 「彼はリヴァイ。お前の言うマリアンとはまったくの別人だ」 『マリ、アン……』 「違う」 まだ言い続ける男の言葉を、エルヴィンは強く否定する。その声には珍しく苛立ちが混じっていた。 「彼は私のリヴァイだ。間違わないでもらおうか」 『そんなはず、ない……マリアン……マリアン』 「違う」 『帰って、きて、くれたんだ……マリ、アン……』 「違う」 たった一言で、容赦なくエルヴィンは男の言葉を否定し続けた。重ねられる鋭い否定に、男の語尾はだんだんと弱くなっていく。 『…………』 そして、ついには男は沈黙した。不気味な男の声がなくなって、リビングはしんとした不自然な静けさで包まれる。居心地の悪い静けさだ。 リヴァイは落ち着きのなさを覚えながらエルヴィンを見上げた。気がついたエルヴィンもリヴァイを見た。どうだろう。どうだろうな。視線だけで言葉を交わして、二人はふたたび男を見た。 「わかってくれただろうか?」 苛立ちを収めたエルヴィンが静かに問いかける。 『……ッ、うるさいッ!! お前は黙っていろ!!』 すると男が大きく叫んだ。びりびりと耳の奥まで響く、雷のような怒号。反射的に、リヴァイは身構える。その直後だった。リヴァイのすぐ横に立っていたエルヴィンの身体がいきなり吹き飛んだ。 「ぐッ……!?」 「エルヴィンッ!?」 それはまるで見えない大きな手にふり払われたかのように、エルヴィンの身体は軽々と吹っ飛んだ。すさまじい勢いにすぐに、だんっ、と壁にぶつかる鈍く重い音が聞こえ、それと一緒に、がしゃん、とブレードケースが軋む音が聞こえた。 「エルヴィンっ、無事か……!?」 「だ、いじょうぶだ……っ」 慌てて振り返ると、エルヴィンは壁際で膝をついていた。額に手を当て顔をしかめているが、大きな怪我はないようだ。そのことに安堵しながら、リヴァイは今にもエルヴィンのもとに駆けつけようとする足を制して、男を睨んだ。ブレードを抜き、いつでも反撃できるよう構える。 「てめぇ、いい加減にしろよ……」 『マリアン、マリアン……大丈夫、わかってるよ。君は帰ってきてくれた。この家に、僕のもとに……』 「くそがっ、人の話を聞け!俺はマリアンとか言う女じゃねぇ」 『……わかってるよ』 「あぁ?」 いきなりの肯定に、リヴァイは目を細めて男を訝しんだ。たった今もリヴァイをマリアンと呼んでおきながら、なにを「わかっている」と言うのか。リヴァイは警戒をさらに強めながら男の言葉を待った。 『マリアン、あの男にそう言わされてるんだよね? 大丈夫、僕はちゃんとわかっているから』 「全然わかってねぇじゃねぇか……」 ちっ、と盛大な舌打ちが零れた。 男の中ではリヴァイはやはり「マリアン」であるらしい。それだけには飽き足らず、さらなる勘違いをしている始末だ。呼ばれている本人が違うと言っているのに、それはエルヴィンに無理やり言わされている嘘だと思っている。 もうこれ以上会話を交わすのは時間の無駄ではないか。そう判断したリヴァイは男に注意を向けつつも会話を切り上げると、エルヴィンにもとに向かおうと慎重にその場を後ずさる。だが、次の男の言葉にリヴァイの脚はぴたりと固まった。 『大丈夫、大丈夫……怖い人は、僕が、僕が……やっつけてあげるよ。マリアン』 「……な、に? おい、お前……なにを、」 言っているんだ、と言葉は最後まで音にならず、掠れた。ずいぶんと不穏な男の台詞に、嫌な予感が胸の内で膨れ上がった。今までにないほどの嫌な予感。背中に冷たい汗が流れる。まずい。危険だ。リヴァイの中のなにかが、大きく警鐘を鳴らす。 そして気がつけば、リヴァイは大きな声で叫んでいた。 「――エルヴィン、逃げろッ」 |
||
←前 7 / 9 次→ |