「エルヴィンッ、逃げろ!!」

 珍しく焦燥を露わにしたリヴァイの叫び声。その声に、エルヴィンはなにがどうしたのかを頭で整理するよりも早く、言葉のまま転げるようにしてその場から飛び退いた。次の瞬間、ひゅっと顔のすぐ近くで風を切る音聞こえた。続けてがしゃんっとなにかが割れるような鋭い音。
「エルヴィンッ!?」
「っ、平気だリヴァイ。おかげで助かった」
 安心させるようにことさら静かな声で返事をしながらエルヴィンは足元を見た。どうやら飛んできたのはエルヴィンが置いておいたランプのようで、床には風よけ硝子の破片がいくつも転がっていた。よほど強く壁にぶち当たったのだろう。破片はどれも小さく粉々だ。これがもし頭にでも当たっていたら、軽い怪我では済まなかっただろうことは容易に想像することができた。
 冷や汗でこめかみを濡らしながら男を見ると、男の周りには椅子や机、花瓶、それにエルヴィンが持ってきた本がいくつも浮遊していた。原理はわからない。だが、浮いているそれらや飛んできたランプの原因があの男であることは間違いなく、もういまさら驚くこともない。

「どうするエルヴィン。あの野郎に話し合いは通じねぇぞ」
「そのようだな……」
 厄介なこと極まりない。汗を拭い、エルヴィンはいつでも反撃できるようブレードを抜いた。
「お前、ゴーストの倒し方は知ってんのか?」
「知っていたら、今すぐにでもそれを実地しているさ」
「なんだ、禁書にゴーストの倒し方は載ってなかったのか?」
「あいにくと、なっ」
 喋ってる最中に、ひゅっ、と椅子が飛んできた。それを避けると今度は素早く三冊の本が飛んでくる。エルヴィンは一冊をかわし、もう一冊をブレードで叩き落とした。最後の一冊は間に合わず直撃を覚悟したが、寸前でリヴァイが叩き落としてくれたおかげで喰らわずにすんだ。
「あの野郎……、お前に狙いを絞ったようだな」
ひゅんひゅんと絶えず飛んでくる本たちは一切リヴァイを狙うことはなく、エルヴィンにばかり向かってくる。
「あぁ……しかし、だからと言って油断するなよ。あの男の最終的な狙いはお前だ」
「どうにかしてあいつの勘違いを解けねぇのか? そうすりゃ、俺たちが攻撃されるいわれはなくなるはずだ」
「まず無理だろうな。お前も言っていただろう。話の通じる相手じゃない」
「じゃあ、どうする?」
「話も通じない、倒し方もわからない……となったら、残る選択肢は一つだろう?」
「……だな」
 本当なら、リヴァイに手を出したつけを存分に払ってもらいたいところだが、そうも言っていられる余裕はない。第一に優先すべきは、自身とリヴァイの無事である。
 エルヴィンは男に警戒を向けたまま慎重に扉を見た。双方の立ち位置的に、リビングを出るには男の前を横切る必要がある。
「リヴァイ、タイミングをはかるぞ。合図したら走れ」
「お前は?」
「お前のすぐ後に続く。心配はいらない」
「……了解だ」
 心配げなリヴァイに大丈夫だと念を押し、エルヴィンは飛んでくる物たちを避けながら男の隙を窺った。壁にぶつかった花瓶ががしゃんと耳障りな音を立てて砕けた。活けられたまま枯れてしまった花が無残に床に散らばる。可哀想になどと思う暇はなく、一呼吸の間もなく飛んできた椅子をぎりぎりで躱し、叩き落しても叩き落しても飛んでくる本をそれでもまた叩き落す。
 焦ってはいけない。急いて事を仕損じてはならない。しかしまごまごしてもいられない。飛んでくる物を避ける。ただそれでけでも、慣れぬ状態での戦闘に二人の体力は消耗させられている。ゴーストに体力というものがあるかは知らないが、長期戦になればきっと不利になるのはこちらのほうだろう。
「きりがねぇ、なっ」
「踏ん張れよリヴァイっ」
「わかってる……!」
 言葉を交わす間も、常に男を視界に収めるよう注意を払いながら、その時を待つ。
「…………ん?」
 だがその途中、エルヴィンはふと気がついた。
 なにか、嫌なにおいがしてくる。先ほどまではしなかった、古臭く、それでいて焦げ臭いにおい。どこか嗅ぎ覚えのあるそのにおいにエルヴィンはすぐにはっとした。急いでにおいのもとを探ると、床に転がっているランプが目についた。
 風よけ硝子が砕け、もう使い物にならなくなってしまったランプ。しかし、蝋燭にはまだ小さな火がゆらゆらと燃えたままになっていた。そして最悪なことに叩き落したうちの一冊が、そのランプの上に覆いかぶさってしまっているではないか。
 まずい、と思った時にはもう手遅れ。じりじりと本の表紙に燃え移った炎はあっという間に本一冊を火だるまにし、そのままじわじわと木製の床にまで燃え移ろうとしていた。
「……っ」
「おいばかエルヴィン!!」
 このままでは火事になる。
 焦りから、エルヴィンの意識が男から外れた。生まれた隙はほんの一瞬。だが、男はその隙を見逃すことはなかった。燃えている本とは正反対の位置、つまりエルヴィンの意識が最も薄れている方角から、ソファを飛ばしたのだ。
「っ……ぐっ、ぅ!」
 本や椅子が飛び交うなか、びくともしていなかったソファにすっかり油断していた。エルヴィンはすぐに飛んでくるソファに気がついたが、避けるには一歩遅く、ソファはエルヴィンの身体に直撃した。
 どっ、と鈍く重たい音。咄嗟に防御の姿勢は取れたものの、ぶつかってもなおソファの勢いは止まらず、そのままエルヴィンは背中から壁に衝突し、壁とソファとの間に腰から下が完全に挟まれる形になってしまった。
「な、にやってんだよくそがッ」
 悪態をつきながら、リヴァイは動けないエルヴィンに飛んでいく本をまた一冊叩き落とした。
「っすまない」
「謝罪はいい。動けるか?」
「……すぐには、厳しい、なっ」
 すぐにソファを退かそうとするが、リヴァイ一人なら悠々と横になることのできるソファは重く、なかなか動かない。なにより、下半身が挟まれているせいでうまく力が出すことができなかった。

『これで、最後だ……』
 焦りが募る中、男の声が静かに響いた。目をやると男の口元には不気味な笑みが浮かべられている。なにをする気なのか。二人そろって固唾を飲んで男の動向を窺っていると、男のすぐ横にふわりと浮かぶものがあった。槍のように鋭く尖った切っ先をしたそれは、それは暖炉の傍にあった火かき棒だ。
「おいおいおい、流石にありゃ、嫌な予感なんてものじゃないぞ……」
 硬い声で呟いたリヴァイの言うとおりだった。嫌な予感なんてものじゃない。嫌な確信だ。どんなに鈍感な人間でも、きっと同じ確信を抱くに違いない。そう思えるほどの絶対的な確信。
 案の定、ゆらりと動いたその切っ先はエルヴィンに向けられた。
 だが、エルヴィンは動けない。
「っ、させるかよ……ッ」
 まさに一触即発の空気の中、真っ先に動きだしたのは他でもないリヴァイであった。男が火かき棒を飛ばすよりも早く、獲物を狩る獣のように素早く、薙ぎ払うようにして強く火かき棒を斬りつける。
 しかし宙に浮いた火かき棒はリヴァイの一撃をもってしてもびくともしなかった。ぎぃぃんとブレードの震えから、よほどの力を込めて斬りつけただろうことがわかったが、それでも動かなかった。それどころか、逆にブレードを受け止めた火かき棒はそのまま自分の身をぐんっと横に大きく払い、リヴァイの身体を薙ぎ払った。
「ぅ、くっ……」
「リヴァイッ」
 根元が折れたブレードが遠くへと飛ばされ、リヴァイの身体は強く床にたたきつけられる。火掻き棒はというとそれ以上リヴァイに追撃することはなく、ふたたびゆらりとその切っ先をエルヴィンを向けた。まるで他人に心配をしている暇などあるのかと嘲笑い、見せつけるかのようにことさらゆっくりと。
「くっ……」
「くそがッ」
 エルヴィンは強く唇を噛みしめる。同時に素早くリヴァイが立ち上がったかと思うと、以前動けないでいるエルヴィンの前にぱっと躍り出たのだった。両手を広げ、ちいさな身を精一杯大きくしようとしている背中が眼前を埋める。
「リヴァイッ!? やめろなにをしている!!」
 エルヴィンはすぐさま叫んだ。直後、そのちいさな背中越しに火掻き棒がひゅっと放たれるのが見えた。しかしリヴァイは動こうとはしなかった。言葉も返さず、真っ直ぐに眼前をにらむ。その姿に、焦燥は絶望へと姿を変える。
(だめだ。だめだ。リヴァイが死ぬなど、あってはならないことだ。それもこんなところで、あんな奴に殺されるなど、許されるはずがないッ!!)
 エルヴィンは身体を挟むソファを押し退けようと、あらん限りの力を全身に込めた。ぶわっ、と全身の血液が沸騰する。血管がぶち破れるのではないかと思うほどの力を込めて、ようやくソファはずず、ずず、と動きだしたが、そのスピードは遅々たるものだった。
(だめだッ、間に合わないッ)
 沸き上がった血が、一瞬で引いていく。
「リヴァイッ!!」
 頼むから逃げてくれと想いを込めて名を呼んだ頃には、もうそれはリヴァイのすぐ目の前まで来ていた。頭が真っ白になる。なにも、できることはなかった。ただ呆然と絶望を見つめることしか……。

 だがその時だ。
 絶望になにもかもを支配されそうになっていたエルヴィンの耳に、ぎぃん、と鈍い音が届いた。肉を貫く音とは違う、固い音。それは、そう、先ほどリヴァイが火掻き棒に斬りかかったときと全く同じ音であった。
「な……ッ」
 なにが起こったのか。すぐに理解することはできなかった。見開いた目に映るもの。それは火掻き棒に貫かれたリヴァイの姿、ではなく、宙に浮いたブレードが飛んできた火かき棒を受け止めている光景だった。
 空中に物を飛ばしているのは、あの男の力のはずだ。それなのになぜ、浮遊しているブレードはリヴァイとエルヴィンを庇うようにして火かき棒を受け止めているのか。

『――ぼーっとしてんじゃねぇ!』
『――急いで逃げろ!』

 わけがわからず呆然とし続けていたエルヴィンの耳に今度は二つの声が届く。それはリヴァイのものではなく、かと言ってあの男のものでもない。男と女の声だった。誰の声だ? 首をかしげかけて、しかし、エルヴィンはすぐにそんな場合ではないと我に返った。声の言うとおり、今はぼんやりとそんなことを気にしている場合ではない。
「くっ……!」
 エルヴィンは脱力していた全身にふたたび渾身の力を籠めると、ソファを押しのけた。予期せぬ訪れた起死回生のチャンス。これを逃したらきっと次はない。
 ようやくできたわずかな隙間を最後は強引に抜け出るとエルヴィンは驚きに目を丸めているリヴァイの腕を掴みぐっと引き寄せた。壁に打ち付けられた身体はひどく傷んだはずだったのに、今はまるで気にもならない。
「リヴァイ、急いでこの屋敷を出るぞッ」
「あ、あぁ……」
 燃えていた本の火は、すっかり傷んだ床に燃え移り、それどころか窓際のカーテンにまで燃え広がってしまっている。このまま屋敷全体が燃え上がるのも時間の問題だ。これ以上手遅れになる前に、とにかく急いで逃げなければ。
「リヴァイ、走れるな?」
「あぁ、大丈夫だ」
「よし……いくぞ」
 静かに呟いて、エルヴィンはブレードを手にした。

 男を見る。やはり火掻き棒を止めるブレードは男が操作しているものではないようで、不気味に微笑んでいたはずの男の口元は歪に曲がっていた。ぎりぎりと火掻き棒とブレードがせめぎ合い、男の意識はそちらに向けられている。
 エルヴィンは男に狙いを定めた。そして大きく腕を振ると、タイミングよくトリガーからブレードを外した。力強く投げ飛ばされたブレードはひゅんひゅんと高速に回転しながら、男に向かって飛んでいく。
「今だ、行け!」
「……!」
 エルヴィンの合図に反応してリヴァイはぱっと走り出した。
『ッマリアン!?』
 当然、男はすぐに反応したが、その直後、エルヴィンが投げたブレードが男の身体を貫く。するとはじめに斬りかかった時と同じようにして、ブレードが貫いた個所から男の身体が霧のように溶けた。いくらも経たないうちに男の身体は元に戻ったが、時間稼ぎには充分だ。走り出したリヴァイはもうリビングの扉を出ていくところだった。
『だめだ、だめだマリアン。僕を置いて、どこに行くっていうんだい……!?』
 男が動揺の声をあげる。その隙にエルヴィンもすばやく駆け出した。出ていったリヴァイに気を取られた男はエルヴィンに反応することはなかった。
『マリアン! 戻ってこいマリアンッ!!』
 男が叫ぶ。悲痛な声だ。するとそれに連動するようにして、燃え広がっていた炎がぶわっ、とさらに勢いよく巻き上がる気配を感じた。物だけじゃなく、炎も操れるのか。エルヴィンは顔をしかめた。
 これはますます急がねばならない。背中に大きな熱量を感じながら、振り返ることなくエルヴィンはリビングを抜けた。そのままスピードを落とさず、玄関までの廊下を駆け抜ける。
「っ……!」
「走れリヴァイ、止まるな!!」
 途中で気にかけるようにふり返ってくるリヴァイに叫びながら、遅れることなくその背中を追った。

 やけに長く感じた廊下をようやくの思いで抜ける。玄関先では待たせていた愛馬が激しく身体を震わせていた。エルヴィンとリヴァイの姿を見ると、大きく鳴き声をあげる。まるで早くしろと急かしているような愛馬のもとにエルヴィンは駆け寄った。
「すまない、待たせたな」
 首筋を一撫でしてから、すぐに柱に繋いでいた手綱を解いてやった。その間にリヴァイが扉を開けようと手をかけ、大きく舌打ちをこぼす。
「くそっ、扉が開かねぇ……っ」
「またか……。リヴァイ、下がっていろ」
 エルヴィンはリヴァイを下がらせるとリビングの扉を無理やり開けた時のようにアンカーを突き刺すとガスを噴かせて扉を思いっきり蹴りつけた。だんっ、だんっ、だんっと続けざまに三回。だが、よほど頑丈に作られているのか、はたまたあのゴーストの仕業か、扉は固く閉ざされたまま開かなかった。時間がない。背後からは炎が勢いよく迫っている。
「おい、手を貸そう。タイミングを合わせろ」
「よし、ならばお前はそっちを頼む」
「了解だ」
 エルヴィンは両開き扉の左側に立つと、リヴァイは右側に立った。
「いくぞ」
「あぁ……」
 共にアンカーを壁に刺し、目くばせを交わしあい一拍、エルヴィンとリヴァイは同時に飛んだ。声による合図はいらない。立体機動の動きにおいて、リヴァイとの間に合図などいちいち必要はなかった。
 まったく同じタイミングで、エルヴィンとリヴァイの蹴りが扉にたたきこまれる。ばきっ、と大きな音とともに扉が軋む。なにも言わぬまま図り合わせたようにふたたび同時に蹴りこむと、先ほど以上の大きな音とともに扉はついに壊れ、外界との道が通じた。やけに久しぶりに感じる外だ。あれだけ激しく降り続いていた雨はいつのまにかだいぶ小降りになっていた。
 エルヴィンは愛馬に飛び乗るとすぐにリヴァイに手を差し出した。
「リヴァイ!」
「……!」
 その手をリヴァイは戸惑いなく掴み返す。軽やかに馬上へとあがり、ちいさな身体はエルヴィンの腕の中へと収まった。すぐさまエルヴィンは愛馬の腹を蹴りつけた。愛馬は待ってましたと言わんばかりに全速力で駆け出す。この形の二人乗りをリヴァイは嫌っているが、今回ばかりは文句はない。

 馬を走らせたままようやくの思いで背後をふり返ると、ちょうど玄関からは炎が噴き出ているところだった。門扉まで届くそれは爆発でも起きたのかと思うほどの勢いだ。もしあのまま扉を開けることができなかったら、または、もしあの一瞬リヴァイがエルヴィンの手を取るのを戸惑っていたら、二人は今ごろ燃えカスと化していたかもしれない。
「……お前が小柄でよかったと、今日ばかりはつくづく思ったよ」
「……俺も、今日ばかりはなにも言わないでおいてやる」
 二人でほっと息をつきながら、燃える屋敷を見つめた。勢いよく燃え上がる炎は小雨程度では消すことはできず、見る見る間に屋敷は火だるまと化していく。轟々とすさまじい音をたて、なにもかもを燃やし尽くすように、強く赤く。いっそ美しすら感じるほどの炎に、目が奪われる。
 だが――。

『マアアァアリィイアアァアンンンンッ!!!!』

 その燃え上がる屋敷から響いた断末魔によく似た酷い声にはっとした。巨人の咆哮ですら、もう恐ろしいなどと思わなくなったエルヴィンとリヴァイでも、思わず背筋が震えるような、執着と怨念にまみれた、そんな声。
「……急いで離れよう。リヴァイ、しっかり掴まっていろ」
「あぁ、了解だ」
 緩みかけていた気をあらためて引き締める。屋敷から離れたからと言ってまだ油断はできない。ましてや、ここは壁外だ。気を緩めるなど愚の骨頂。エルヴィンは前に向き直ると、ぐっと強く手綱を握った。
「はやくミケたちと合流しなければな……」
 そう呟いたちょうどその瞬間だった。ぱぁん、とどこからともなく軽い破裂音が聞こえた。エルヴィンたちにとって聞き覚えのある音。
 二人そろって慌てて空を見あげれば、小雨の合間に緑色の煙が高く高く昇っていた。間違いない。あれは調査兵団の信煙弾だ。
「エルヴィン、あれは」
「あぁ、きっと兵団の誰かだな」
「あいつらも、無事だといいが……」
「まったくだ。……行こう」
 心の底から同意しながら、エルヴィンは手綱を引いて進行方向を煙の上がった地点へと変えた。背後では、まだ屋敷が轟々と燃える音が聞こえていたが、二人とももう後ろを振り返ることはなかった。
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