目が覚める。途端にけほりと咳を一つ。喉が痛い。身体が少しだるい。けれど、学校を休むという選択肢は浮かばない。浮かぶはずがない。学校を休むわけにはいかなかった。昨日の今日で休んだら、そんなの――。
(俺が気にしてるみてぇじゃねぇか……)
 ふざけるな。そんなことがあるわけがない。だってそうだろう。

『今まで通りでいいんだ。俺は、それだけで……』

 そう言ったのはあいつ自身だ。だったら、自分があいつを気にかけてやる必要などこれっぽっちもない。むしろ、気にかけてやらないことこそ最高の優しさなのだ。上等じゃないか。泣きながら土下座の一つでもして感謝してほしいくらいである。そうしたら、あの真っ赤な頭をサッカーボールみたいに蹴り上げて、どういたしましてと笑ってやるのだ。そうすれば、この最悪な気分も少し晴れることだろう。くそったれ。



 朝から気分は最悪だ。揺れる電車、人間の群れ、痛む頭。なにもかもが最悪。雑音雑音雑音。なにがそんなにうるさいのかわからないほどの雑音。頭に響くからやめてほしいが、とめる術はない。あぁ、鬱陶しい。ため息をつくことすら鬱陶しくて、目を閉じて雑音にただ耐える。
 がたんがたんと電車は揺れる。いつもなら眠気を誘う揺れだが、今日は足に力を入れて立っているだけでいろいろとしんどかった。車内にアナウンスが流れる。毎日のように聞いてるが、いまいちなにを言っているかわからない声はいつにも増して不愉快だ。
 意識して音を排除するように努めながら、ブレーキがかかる緩やかな衝撃に倒れないよう足にさらにぐっと力を入れる。しばらくして電車は止まり、扉の開く音。人の流れる気配を感じながら、爆豪はつり革を握り直す。
「かっちゃん!」
 ふいに急に手を引かれた。強い力だった。反射的につり革から手を離し、引っ張られるがまま走る。だが、すぐにはっとした。聞き慣れた呼び名、見慣れた癖っ毛に。思わず舌打ちし、渾身の力でもって手を振り払う。
「っにすんだよ、クソナードっ」
「ご、ごめん。でも、ずっと見ててもかっちゃん全然降りる気配なかったから」
「あぁ……?」
 首をかしげると同時に、背後で扉が閉まり、電車が再び走りだす音が聞こえた。あたりを見渡せば、ここは確かに降りなければいけない場所だ。緑谷が爆豪の手を引かなければ、確実に乗り過ごしていたことだろう。
「ちっ……」
 言い返す言葉がなく、さらに舌打ちをこぼした。本当は、おまえ電車の中でずっと人のこと見てたのかよ気色悪い、と返す言葉自体が思い浮かばなかったわけではないが、遅刻回避に免じて言わないでおいてやることにした。とにかく今日は、普段通りに雄英に行かなければならないのだから。
「あっ、待ってよかっちゃん」
「誰が待つかクソ。むしろついてくんな」
「そんな無茶な……」
 歩き出せばその後ろを緑谷が続く。四歩分の距離。沈黙が気まずいのか、緑谷はちょいちょいとどうでもいい話を振ってきてたいそう鬱陶しかったが、今日は怒鳴るのも面倒で放置した。けほり、と咳がこぼれる。後ろのやつに聞こえたらなにを言われるかわからない。爆豪はそれ以上の咳がこぼれないよう気をつけながら、もういい加減歩き慣れてきた通学路を無心で進んだ。

「あ、切島くん、おはよう」
 うつむいていた顔を上げたのは、けっきょく最後の最後まで四歩後ろを離れなかった緑谷の声に忌々しい名が混じっていたからだった。無心の内にもう雄英にまでついていたらしく、気がつけば目の前に昇降口があった。そして、緑谷の言葉の通り、そこには下駄箱の前でちょうど靴を履き替えている切島の姿がある。目が合う。すぐに、は、と息を飲む音。何度目かになる舌打ちをこぼしたくなって、なんとか抑えた。
「っ、おう……おはよう、緑谷、……爆豪」
「おぉ……」
 少しの間を挟まれてから呼ばれた名に爆豪は素っ気なく返事をしてやった。無愛想極まりないが、これが爆豪のいつも通りだ。そのまま自分も靴を履き替え、さっさと教室を目指す。逸らす直前の目がなにかを言いたげそうであったが、どうせ気のせいだろう。
 実際、向けた背中にかかってくる声はない。だから、わざわざふり返ってやる義務はない。声の代わりに強い強い視線を感じたとしても、それでもやはり声はかかっていないのだから、そんな義務はどこにもありはしないのだ。

 色々と最悪な気分の中、今日の授業に実習がないのは唯一の幸運だった。こんな退屈な座学を受けるよりも実習で実際に身体を動かすほうが断然に好きではあるが、今日ばかりは助かった。とてもじゃないが、元気に動き回れるコンディションじゃない。爆破一つ起こすことすら気が乗らなかった。教師の声も耳から耳へすり抜けていくように頭に入ってこない。電車の時と同じ、雑音だ。鬱陶しい。けれど、それ以上に鬱陶しいのは……。
(授業中だっつーの。見てんじゃねぇよ)
 時折、感じる右斜め後ろからの視線。わざわざ確認しなくてもわかる。見られている。言いたいことがあれば言えばいいのに、しかしその視線の主は授業が終わっていくつかの休み時間が訪れても、なにかを告げてくることはなかった。そのくせ、視線の気配は次の授業でも、その次の授業でもちらちらと後頭部に刺さり続けてくる。
(うざってぇ……)
 それでも、やはり爆豪は決してふり返らないし、自分から声をかけることもしなかった。すべては意地だ。一方的に告げて、一方的に納得したあの男への意地。あんな根性なしの腑抜け野郎なんかに絶対に甘い顔などしてやるものか。現時点で破格の優しさを見せてやっている。これ以上はもう品切れだ。


 けっきょく、どちらかが決定的な言葉を吐くこともないまま授業と休み時間は交互に進み、そのまま昼休みを告げるチャイムが鳴った。皆が次々と席を立ち、一斉に辺りが騒がしくなるなか、爆豪は何度目かになる咳をちいさくこぼした。
「爆豪、昼飯行くぜ〜」
 咳にちょうど被さるようにかかってきた声に顔を上げれば、上鳴が教室の入り口で手を振っていた。隣には切島と瀬呂もいる。またしてもなにか言いたげな瞳がこちらをちらちらと見てくるが、やはり実際になにかを言われることはなかった。だから爆豪は、おう、といつもの反応を返しながら席を立つ。その瞬間、少しくらりと頭が揺れたが、すぐになんでもないようふるまいながら上鳴たちのあとに続く。
「あ〜、腹減った」
「今日はなに食う? 俺、今日はめっちゃ魚が食いたい気分」
「俺はハンバーグ定食だな」
 爆豪は? と尋ねたのは瀬呂だ。
「激辛担々麺」
「またか。お前ほんっとそれ好きな」
「うっせ、べつにいいだろうが」
 たわいのない会話。はたから見れば、いつもとなんら変わりなどない。きっと、気がついているのも、その原因を知っているのも当事者の二人だけ。けれど、それがなんだと言うのだろう。切島はなにも言わない。だから、爆豪もなにも言わない。

 昼飯のチョイスに担々麺を選んだのは失敗だったと気がついたのは、一口目を飲みこんだ瞬間だった。いつもはなんてことのないはずの香辛料の刺激が、びりびりと喉元に絡んできて、思わずぐっと息をつめた。どうしようか。悩んだのは一瞬。爆豪は向かいの上鳴に声をかけた。
「おい、アホ面」
「あ? なに? つかその呼び方やめろって! なに普通に返事しちゃってんの俺ぇ!」
「お前のと俺の飯、交換しろや」
「はい無視。って、え? 交換? なんで」
「やっぱ担々麺の気分じゃなくなったから」
「超我が儘! なんでそれで俺が交換してやんなきゃなんねぇのっ?」
「うっせぇ、期末最下位の男はいいから黙ってよこせ」
「横暴! ナチュラルに横暴! くぅ、このわがまま末っ子属性が!」
 ぎゃあぎゃあと上鳴が騒ぐ。その声が頭に響いて顔をしかめれば、怒ったと勘違いしたのか、まぁまぁと瀬呂が仲裁するように声をあげた。
「しゃーねぇなぁ。爆豪、俺のと交換してやるよ。それでもいいか?」
「おう、それでいい」
「お前、交換してもらう立場なのにほんっとえらそーなのな!」
「…………」
「ちょっ、せめて返事はしようよ! しかと反対!」
 上鳴が騒ぐ間に、瀬呂が爆豪の食器と自身の食器を入れ替える。
「や、まて」
 だが、その途中で静止の声を隣に座っていた切島が静かにあげた。なんだ、と三人で一斉に視線をやれば、切島は頬を掻きながら言った。
「俺の、と交換しようぜ」
 実は、ちょっと食べてみたかったんだよな。
 そう続けて、にかっ、と切島は笑う。どうする爆豪?と瀬呂が尋ねてきて、爆豪はもう一度ちらりと切島に視線をやった。目が合う。切島は笑みを浮かべ続けている。ただし、やけに落ち着きなく瞬きが多い。少しの沈黙。爆豪はすぐに視線を戻して、素っ気なく答えた。
「俺はべつにどっちでもいい」
「んじゃ、切島と交換っつうことで」
「お、おう」
 いそいそと切島が食器を入れ替える。やはり、なんてことない友達同士のたわいのないやり取り。問題なんてないのだろう。現に上鳴も瀬呂もなんの違和感も抱いてないようだ。それでも、あいつはやっぱりあと一歩、装いきれていない。なにが、ちょっと食べてみたかった、だ。白々しい。この間、こんなん人の食える辛さじゃねぇよ、なんて言いながら水をがぶ飲みしてたのはどこのどいつだ。


 苛々ばかりが溜まっていく一方で、同じように上がっていく身体の熱を本格的にやばいと自覚しはじめたのは五限の半ばを過ぎたあたりだった。ずきずきと激しくなってくる頭痛に顔をしかめずにはいられない。上がる熱と連動するように身体のだるさも増す一方で、ペンを握るのも頭を上げているのも億劫で仕方がなかった。
「あー、じゃあこれを……爆豪、解いてみろ」
「…………あ?」
「あ、じゃねぇ。解いてみろ」
 自分の名を呼ばれた気がして顔を上げれば、かつんかつん、と相澤がチョークで黒板を叩いた。なにを言っているのだろう。首をかしげ一拍遅れてから、ようやく意味を理解する。面倒くせぇ。吐き捨てながらも、素直に立ち上がった。
 しかし、その瞬間だった。
「っ……」
 ぐわん、といきなり視界が大きく揺れた。平衡感覚がなくなり、同時に膝から力が抜けて咄嗟に机に手をつけば辺りに、がたり、と大きく音が響く。
「爆豪!?」
「かっちゃん……!?」
 名前を呼ばれる。二つ。大きな声だ。うるさいと文句を言ってやりたかったが、しかし今の爆豪にそんな余裕はなかった。あまりの頭痛と眩暈にこめかみを押さえながらその場にしゃがみ込む。
「爆豪、どうしたっ!?」
「だ、大丈夫、かっちゃんっ?」
「あ〜、緑谷ぁ、切島ぁ、とりあえずお前ら落ち着け」
 そばでいくつか声が上がる。それ以外にも静かだった教室がざわざわと騒がしくなった。原因はわかっている。他でもない自分自身のせい。最悪だ。せっかく今の今まで隠し通していたというのに、よりによって全クラスメイトの前でこの失態。まったくもって最悪だ。くそっ。それもこれも全部あいつのせい。あのクソ髪野郎のせい。
 爆豪は苛立ちのまま、駆け寄る切島を睨みつけようとして、ぺたり、と額になにかが触れる感触に思わず肩を揺らした。は、と見ると、目の前には相澤の姿がある。伸ばされた腕に、額に触れたのは相澤の手のひらだったのだと気がついた。
「あー、お前思いっきり熱あんじゃねぇか」
「……ちっ」
 ついに明確に指摘されてしまい、舌打ちがこぼれた。
「授業受けてねぇで保健室行ってこい保健室」
「…………」
「おいこら返事」
「……わぁったよ」
 ばれてしまっては、もう我慢するだけ無駄だろう。この状況で意地を張り続けるには限界が近すぎた。爆豪は不機嫌を前面に出しながらも相澤に返事をすると、脚になんとか力を入れて立ち上がった。ふらり、とまたしても身体を揺れる。その身体を支える手のひらがあった。誰の腕かなんて、そんなことは愚問すぎる。
「……大丈夫か、爆豪?」
「へーきだ、こんくらい」
 手を振り払って、のろのろと教室を後にする。後ろでなにか言っている声が聞こえた気がしたが、熱に支配されはじめた頭にはよく聞こえなかったから、そのまま無視した。

 人気のない廊下を重い足取りで歩く。足は鉛でもくっつけられてるのではないかというほどに重い。そのくせ、視界はふわふわと揺れていてその違いに頭が痛かった。保健室が遠い。もういっそのことこの場で座りこんでしまいたかった。
 だが、そんなわけもいかず、爆豪はひたすら足を進めた。そして階段を下りようと一歩踏み出した時だった。視界がより一層強く揺れた。踵に触れるはずだった階段の感触がずるりと滑って、引力が身体を引っ張る。
(あ〜、やっべ……)
 頭では理解しているはずなのに、身体は動かなかった。痛みと衝撃を覚悟する。
「爆豪ッ!!!」
 しかし、声が聞こえたと同時に腕に痛いくらいの力がかかった。ぐん、と身体が強く引っ張られて、そのままとんっとなにかにぶつかる。固くて柔らかい、なにか。
「あ、あッぶねェ……!!」
 耳にすぐそばで声が聞こえた。苛立ちの元凶。さっき振り払ったばかりの手のひらが、またしても爆豪の身体を支えていた。
「く、そ髪……おまえ、なんで……」
「んなもん心配だったからに決まってんだろ! あんなふらふらで放っておけるわけがねェっつーの! 今だってお前、あのまま落ちてたら受け身すら取れなかっただろ!!」
 大声に眉をひそめる。その反応に切島はすぐに怒りの表情を引っ込め、眉尻を情けなく下げた。
「わりぃ、大声出して……」
「…………」
「でもよ、本当にその状態で一人にさせられるはずねェって。俺、保健室まで送ってくから」
 相澤先生にはちゃんと許可取ってきたからと切島は爆豪の手を自身の肩に回させた。大きなお世話だと振り払ってしまいたかったが、身体に力は入らない。仕方がない。そう自分に言い聞かせて、切島に体重を預けてやった。

「……なぁ」
 沈黙が続く中、ふと切島が声を上げたのは、もどかしくなるくらいにゆっくりと階段を下り終えて、真っ直ぐ廊下を進んでいる時のことだった。普段と比べると、とてもちいさな声。その声にちいささにすら苛つきを覚える。なんだその声。なっさけねぇ声だしてんじゃねぇよ。そう言いたいのをぐっと堪え、なんだよ、と返事をすればちいさなままの声で切島は続けた。
「もしかして、さぁ……、俺のせい、か?」
「……なにがだ」
「風邪、引いたのだよ……俺が、昨日……」
 そこですぐに切島は口ごもり、爆豪は眉間に一層深くしわを寄せた。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかここまで馬鹿だとは思わなかった。昨日。そう昨日だ。自分で告げた言葉の意味をよもやこの馬鹿は忘れたというのだろうか。
(ふざけるなよ)
 苛立つ。だが、爆豪は声を荒げるようなことはしなかった。静かに、なんでもないように、切島に告げる。
「べつに、てめぇは関係ない」
「っ、でも」
「むしろ、なんでてめぇに関係があるって言うんだ?」
「それ、は……」
 わざとらしく問いかけると、またしても切島は口ごもる。馬鹿は馬鹿でも流石に昨日のことを口にしてはいけないと理解してはいる程度には大馬鹿じゃなかったらしい。当然だ。
『忘れてくれ』
 なんせ、そう言ったのはほかでもないこの男であり、爆豪はただ切島の願いを叶えてやっているに過ぎない。この自分が、あぁそうだこの自分がお優しいことに他人様の願いを叶えてやっているんだ。それなのに願った張本人である切島がそれを邪魔するなど、許されるはずがない。
「あたまに響く。もういいからだまってろ……」
「……わりぃ」
 これ以上話す気はないと暗に告げれば、言われるがまま切島は口を閉ざした。けっきょくそのまま最後まで二人は口を開くことなく、保健室のドアをくぐることになった。

 爆豪は保健室についてすぐに空いたベッドへと横になった。はぁ、と大きく息を吐き、鞭を打ち続けていた身体から力を抜く。
「おや、どうしたんだい?」
「先生、こいつ熱があるみたいでさ」
「あらあら、それじゃあ熱を測らないとねぇ」
 体温計を差し出され、しぶしぶ起き上がる。無言のまま計りやすいようにとシャツのボタンをいくつか外せば、あ、とちいさな声。なんだと思って目を向ければ、ばち、と切島と目が合う。もう何度目だ。
「んだよ……」
「……えっ、あッ、わわわ、わりぃ!」
「はぁ?」
「じゃ、じゃあ、俺戻るからっ、わるい!」
 挙動不審な様子でしきりに謝りながら、切島は慌ただしく出ていった。リカバリーガールが元気な子だねぇと微笑ましそうにつぶやく。その隣で、爆豪はぽかんと目を丸めた後に、すぐに理由を察して頭痛のせいではなく顔をしかめた。
「ば、っかじゃねぇの……」
 あまりにも馬鹿すぎて、もうそれしか言えない。
 熱を測り終えると爆豪はその数字を聞く暇も与えず、さっさとシーツの中にもぐりこんだ。今日はもう色々と疲れた。熱のせいじゃない。あいつのせいで、すごく、疲れた……。
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